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第1話

「お前との生活は、地味で退屈なんだよ」


贅沢な調度品に囲まれたリビングに、夫――いや、元夫となった達也の冷酷な声が響いた。

テーブルの上に置かれたのは、既に彼の署名と捺印が捺された離婚届。


志穂は、自分の膝の上でぎゅっと握りしめていた手を、ゆっくりと緩めた。


「地味、ですか」

「そうだ。毎日毎日、同じような和食ばかり。帰ってきても、お前はいつもエプロン姿で『おかえりなさい』と地味に微笑むだけ。外の厳しいビジネス社会で戦っている俺が求めているのは、もっとこう……一緒にいて刺激になる、華やかで輝いている女性なんだ」


達也は、大手商社で異例の若さで出世街道を突き進むエリートだ。仕立ての良いスーツを着こなし、髪型も隙がない。確かに男前だし、周囲から羨まれる男なのだろう。


だけど。


「同じような和食、ではありません。あなたの体調や、その日の帰宅時間に合わせて、出汁の濃さや消化の良さを全部変えていたのですよ」


志穂が静かに反論すると、達也はフンと鼻で笑った。


「そういう細かいこだわりが陰気臭いって言ってるんだ。美香は違う。彼女は自分のキャリアを持っていて、いつもドレスのように華やかな服を着て、俺の仕事を刺激的に支えてくれる。お前みたいな『家事しかできない退屈な女』とは次元が違うんだよ」


美香。それが、達也の浮気相手の名前だった。

志穂は深く息を吸い、そして、吐き出した。


泣き叫ぶ気力も、浮気を責め立てる気力も、もう残っていなかった。

毎日、彼の顔色を伺い、夜遅くの帰宅に合わせて料理を温め直し、胃袋と健康を支え続けてきた三年間。それが「地味で退屈」の一言で片付けられた瞬間、志穂の中でパチンと何かが弾けて消えた。


(ああ、もう、いいや)


驚くほど心が軽くなるのを感じながら、志穂はペンを手に取った。

迷いのない手つきで、自分の名前を書き入れ、印鑑を捺す。


「はい。これで満足ですか?」

「……っ、そんなにあっさり認めるのか? 少しは縋り付くかと思ったが……まぁいい。お前みたいな無能な女、慰謝料もまともに出せないからな。このマンションの退職金代わりの手切れ金と、お前のわずかな貯金を持って、さっさと出て行ってくれ」


「ええ、喜んで」


志穂は立ち上がり、達也に一礼した。

最後に見た達也の顔は、なぜか少しだけ拍子抜けしたような、不機嫌そうな歪み方を取り戻していた。



それから、半年後。


平日の午前十一時半。

オフィスビルが立ち並ぶ、都内の一等地。その喧騒から一本入った路地裏に、新しく掲げられた小さな暖簾があった。


『ごはん処 しほ』


木目を基調としたカウンター六席、二人掛けのテーブル席が二つだけの、こぢんまりとした店だ。

厨房の中で、志穂はせわしなく、しかし実に楽しそうに立ち働いていた。


結婚していた頃の、自信なさげに俯いていた面影はどこにもない。

髪を後ろですっきりとまとめ、清潔な白い割烹着に身を包んだ志穂の肌はつやつやと輝き、瞳には強い生気が宿っていた。


「よし、出汁の味はバッチリ。ご飯もふっくら炊けてる!」


クツクツと音を立てる鍋からは、高級カツオ節と昆布から丁寧に取られた、信じられないほど芳醇で優しい香りが立ち上っている。

志穂の特技は、料理だった。それも、ただの料理ではない。食べた人の疲れを芯から癒やし、身体が喜ぶような「究極の家庭料理」を作ることができる。


あの家を出た後、志穂は手切れ金と貯金を全て注ぎ込み、この店を開いた。

周囲からは「オフィス街の路地裏で定食屋なんて、すぐに潰れる」と笑われたが、志穂には確信があった。毎日忙しく働き、出来合いのお弁当や外食ばかりで胃を痛めているビジネスパーソンこそ、この味を求めているはずだと。


「よし、開店です!」


午前十一時四十五分。暖簾を外に出した瞬間だった。


「待ってました、店主さん!」

「今日も一番乗りだ!」


待ちきれない様子で店内に滑り込んできたのは、近くのIT企業に勤める常連のサラリーマンたちだ。


「いらっしゃいませ! 今日は『日替わり一汁三菜定食』一択ですが、よろしいですか?」

「もちろん! むしろそれが食べたくて午前中の会議、死に物狂いで終わらせてきたんだから!」


本日のメインは『極み肉じゃが』。じっくり時間をかけて味が染み込んだホクホクのジャガイモに、柔らかい国産牛。副菜には、シャキシャキとした食感を残した小松菜のお浸しと、出汁をたっぷり吸い込んだ出汁巻き卵。そして、具だくさんの豚汁と、炊き立ての白米。


「うわぁ……美味い! なんだこれ、身体に染み渡る……!」

「ここの味噌汁飲むと、一日の疲れが全部吹き飛ぶんだよなぁ。午後も頑張れるわ」


客たちが一口食べるごとに、感嘆の声を漏らし、一様に幸せそうな笑顔になる。

その様子を見るのが、志穂にとって何よりの特快だった。


「美味しい」と言ってもらえる。自分の作ったもので、誰かが笑顔になってくれる。

かつて、どれだけ心を込めて作っても「地味だ」「またこれか」と吐き捨てられていた料理が、ここではまるで宝物のように愛されている。


(私、生きてる。あの家を出て、本当に良かった――!)


口コミが口コミを呼び、正午を過ぎる頃には、狭い路地裏に長い行列ができるようになっていた。メディアの取材は全て断っているが、SNSでは「一度食べたら忘れられない奇跡の食堂」として、密かに大爆発しているのだ。


忙しく動き回り、気がつけば午後一分を回ろうとしていた。

ピークタイムが落ち着き、店内の客もまばらになった頃。


ガラガラ、と引き戸が開いた。


「いらっしゃいませ、空いているカウンター席へど――」


いつものように明るい声を上げ、お茶を手に振り返った志穂は、ピシリと動きを止めた。


そこに立っていたのは。

高級なブランドスーツをヨレヨレに着崩し、ネクタイを緩め、酷くやつれた顔をした男。

頬はコケ、目は血走り、かつての傲慢な輝きを完全に失った――元夫、達也だった。


達也は店内に漂う出汁の香りを嗅いだ瞬間、 飢えた獣のように目を大きく見開いた。


「……この、匂い……。嘘だろ、志穂……?」


驚愕に震える達也の視線が、見違えるほど美しく輝いている志穂の姿へと注がれる。

志穂の手の中で、湯呑みのお茶がかすかに揺れた。

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