第3話
「み、美香……っ!? なんでここが……!」
カウンターの端で、お気に入りの「サバの味噌煮定食」を食べていた達也が、箸を落とさんばかりに驚愕して立ち上がった。
「なんでって、あなたが最近毎日帰りが遅いし、服から変な出汁の匂いさせてるからつけてきたのよ! そしたら何? こんな下品な平民の定食屋に通い詰めてるなんて!」
美香は高いヒールを激しく鳴らし、狭い店内にツカツカと踏み込んできた。派手なブランド物のバッグを振り回し、周囲のサラリーマンやOLたちを蛇を睨むような目で見回す。店内は一瞬にして冷え込み、常連客たちは困惑と不快感を露わにした。
「おい、美香、やめろ! ここは店だ、外に出ろ!」
「嫌よ! 達也、あなたこの地味な元妻にまだ未練があるわけ!? 私っていう婚約者がいながら、こんな女の作った手料理に鼻の下伸ばして、恥ずかしくないの!?」
美香の指先が、カウンターの向こうで静かに佇む志穂へと向けられる。
「おい、この泥棒猫! 離婚したくせに、料理で男の胃袋を釣るなんて浅ましいのよ! 営業妨害で訴えてやろうかしら!」
ヒステリックに叫ぶ美香の隣で、達也は完全に青ざめていた。
周囲の客からの「なんだこの女」「騎士団長(エリート商社マン)のくせに情けない」という冷ややかな視線が刺さる。何より、志穂に自分の失態を見られるのが耐え難かった。
しかし、当の志穂は、怒るでもなく、怯えるでもなかった。
ただ、静かに布巾で手元を拭うと、すっと美香の正面へと歩み出た。
「……あ? 何よ、文句あるの?」
美香が勝ち誇ったように顎を突き出す。
その瞬間、志穂はこれ以上ないほど美しく、そして『氷のように冷たい笑顔』を浮かべた。
「お客様。当店は、他のお客様が静かに食事を楽しむ場所でございます。大声での私闘や、他のお客様へのご迷惑となる行為は固くお断りしております」
「はぁ!? 誰が客よ! 私は――」
「お連れ様」
志穂の視線が、美香を通り越して、おろおろと立ち尽くす達也へと向けられた。
その瞳には、一欠片の情も、過去の思い出も宿っていない。ただ、店を汚す害獣を見るような、絶対的な拒絶の光があった。
「他のお客様のご迷惑になりますので、速やかにお連れ様をお連れになってお引き取りください。お代は結構です。その代わり――」
志穂の声が、一段と低く、凛と店内に響き渡る。
「当店は、他人に迷惑をかける“出入り禁止”のお客様を、二度とお迎えするつもりはございません。お引き取りを」
「し、志穂……っ、俺は、俺はそんなつもりじゃ……!」
「さぁ、達也! 行くわよ! こんな不味そうな店、こっちから願い下げよ!」
話が通じないと察した美香が、達也の高級スーツの袖を強引に引っ張る。
達也は、志穂の冷徹な眼差しに完全に心をへし折られ、魂が抜けたような顔で、引きずられるように店外へと連れ出されていった。
ガラガラ、と引き戸が閉まり、静寂が戻る。
「……皆様、大変お騒がせいたしました。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
志穂が深く頭を下げると、張り詰めていた店内の空気が一気に弛緩した。
「いやぁ、店主さん災難だったね。あんな頭のおかしい女に絡まれて」
「でも、格好良かったよ! ビシッと言ってやってさ!」
「本当よ。あんな男、捨てて正解だったわね」
常連客たちからの温かい言葉に、志穂は「ありがとうございます」といつもの柔らかな笑顔で返した。
もう、あの男に心を乱されることなんてない。私の居場所は、この温かい場所なのだから。
◇
数日後。
美香のヒステリーと浪費に限界を迎え、ついに婚約を破棄した達也は、ボロ雑巾のようになっていた。
社内でも「修羅場を起こした男」として噂が広まり、出世街道から外されかけている。
胃はキリキリと痛み、身体はあの「日替わり定食」の味を求めて狂いそうだった。
出入り禁止と言われた。もう行く資格はない。そう分かっていても、達也の足は、気づけば夜の路地裏へと向いていた。
せめて、遠くから店の明かりを見るだけでも――。
そう思って路地を曲がった達也は、目を見開いた。
夜の『ごはん処 しほ』の前に、一台の高級外車が停まっていた。
そして、店の前で志穂と親しげに話し込んでいる、一人の男の姿があった。
仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、達也など足元にも及ばないほどの洗練された雰囲気を纏った、若き若手実業家(風の男)。
「志穂さん、今日の試作品のスープも最高でした。来月からの新メニュー、これでいきましょう」
「はい! 藤城さんのおかげで、新しい一歩が踏み出せそうです」
志穂が、達也には見せたこともないような、心からの、そして一人の魅力的な女性としての『眩しい笑顔』をその男に向けていた。
達也の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。




