9−5
「ねえ、イレイェン」
母が、寝台の上で言った。蝋人形のようなその顔は今にも白に導かれてしまいそうで、たまらなかった。けれど、母のほうは屈託のない笑みを浮かべて、澄んだ声で語った。
「イレイェン、春の来ない冬はないのよ。
マノシュ爺さんや雪姫シェラムが訪れたら、今度は春の番。氷が割れ、雪どけの音がして、そうして雪の下から草や花が芽吹くの。青い空が広がって、雪スズメやアトリが地平線近くを飛ぶわ。
だから、イレイェン。たとえ冬が長く続こうとも、冬を否定しないであげて。冬のあいだに蓄えることができるから、春で花を咲かせることができるのだから。マノシュも、シェラムも悪くないのよ」
「でも、お母さま。マノシュ爺さんと雪姫がいるから、人が死んじゃうって聞いたわ」
お母さまも死んでしまうの、という不安は口にしなかった。言葉にしたら、本当にそうなってしまう気がして、唇が震えるのが止まらなかった。
掛布から出てきた母の手は、そんなイレイェンのことはわかっているように微笑みながら、頭を撫でる。
「そうね。たしかにそうかもしれないわ。……イレイェンは怖いのね」
「……うん」
どうして、母はわたしの気持ちがわかるのだろう。怖いという言葉を言い当てられて、目尻に水が浮かぶ。
「大丈夫よ。大丈夫。お母さまはね、いつでもあなたのそばにいるから。たとえ、目に映らなくても、あなたの胸の奥と額の裏にいるの」
「じゃあ……お母さまは死なない?」
「ええ。あなたがわたしのことを覚えているかぎり、ずっと生きているわ」
だから大丈夫よ、と母は優美に笑みをたたえた。
*
手の平に痛みを感じた。つきっと皮膚が引き攣れるような痛みが、視界を鮮明にしていった。
夜の帳に、月の反射する雪明かりが、木立のあいだを木漏れ日のように差して、ぼうっと辺りを薄く浮かべていた。
どこだろうという思いがめぐって、身じろぎする。そうすると、ぶるりと体が悪寒を覚えて、凍てつく寒さを体中で感じた。懐で熾のように感じる炉石のぬくもりだけが、自分が生きているという実感を伝えてくれる。
体に感覚が戻って来ると、次第にぼんやりとしていた記憶が薄布をまくっていくように鮮やかになっていった。
落ちたのだろう。山道から。それから、倒れていたのだろうか。落ちたにしては、体に痛みを感じなかった。それよりも、外気に晒されていた寒さのほうが身におそろしく堪えていた。体を起こそうとしても、痺れたように動かない。動かしたくても、四肢はぴくりとしか動かなかった。
何時くらい経ったのだろう。何時くらい倒れていたのだろう。
——このまま、死ぬのだろうか。
わたしは……
「なにを、してるの……」
雪の森に、つぶやきは吸い込まれていった。声だけでなく、音が、すべての音が吸収されていく。
次の陽の出まで、だれにも見つけられなかったら、イレイェンは凍死するだろう。炉石が冷たくなり、体の震えが止まらなくなる。体は末端から壊死していき、うとうととしているあいだに、呼吸が止まるだろう。
——どうにか、起き上がらないと。
腕と足にぐっと力を入れるが、入れきる前に抜けていく。音だけでなく、力もまた雪に吸い込まれていくようだった。
もし、このまま、自分が死んでしまったら、周りはなにを思うだろう。
エリエラは泣くだろう。友達想いの子だ。
ダランは後悔するだろう。自分を連れ出して、告白から逃げるようにして死んでしまったら。
サイラーシュ侯は、また深い自責の念に苛まれるのだろう。母だけでなく、娘の自分を助けられなかったことに。
リリエーシュにいる父は、きっと、外にやったことを悔いるにちがいない。
優しい使用人たちは、イレイェンに付いて来なかったことを悔やんでも悔やみきれないだろう。
そして、彼は。クラエスは、なにを思うだろうか。
「うっ……」
いけない。このままではいけない。
死ぬわけにはいかない。
すべてから逃げ出したままでは、いけない。
〈影の病〉だけのせいではない。
——わたしのあり方が、わたし自身を苦しめていた。
自分をつらく追い詰めていたのは、自分自身のあり方そのものだった。
向き合おうとしてくれる人に、初めから線を引いていたのは、イレイェンのほうだった。勝手に閉じこもっていたのはイレイェンだった。路は開かれていたというのに。冬は終わっていたというのに。
いつまで経っても、冬の寒さと雪に怯えて閉じこもっていたのは自分だった。
マノシュ爺さんと雪姫シェラムは悪くないのだと母は言った。ただ、怖がっていたのは、幼い頃に傷付いた小さな自分。そのまま殻だけ大きくなってしまって、矛盾を抱え、その矛盾を突かれて、あらわになったもの。
——それが、今のわたし。
——今、やっと、わかった。
「……っ」
体の中枢に力を入れる。
もし、このまま死んでしまったら、わたしは成長できなくなってしまう。
もう一度、機会を。やり直す機会を。
そのために、今は死ぬわけにはいかない。
「この……っ」
渾身の力を、四肢に込めた。抵抗する力と押さえる力にあらがって、さらに腹の中心に力を込めると、ふっと体が持ち上がった。
ぶわっと汗が出る。布地に汗が滲むと、体が冷えるきっかけになる。これ以上、体を冷やしたら危険だ。
ふと視界の隅を、光が舞った。
はっと見上げると、道なき雪路を示すようにして、光の粉が舞っている。燐光のように青白く見えたのは一瞬で、赤金の光がちらちらとしていた。光、赤金の光——
「——ソー、ニャ……?」
呼べば、応えるように光が踊った気がした。そして、月明かりの鮮明なほうへ導くように舞っていく。
「待って!」
イレイェンは這いながら、あとを追った。体がきつかった。妹の影は、イレイェンに合わせるようにして優雅に舞っていた。
体を引き摺るようにして辿り着いたのは、山道の開けた場所だった。
月が皓々と白雪と森を照らして、美しい雪明かりを灯していた。
そこにはもう光の粉は見当たらなかった。
呆然としていると、上空を白がはためいた。
——雪……?
晴れているのに。
それが、段々と大きくなって、紙細工であるとわかった頃には、イレイェンの目前にあった。
「これは……、〈紙〉?」
雪スズメが、まるで生きているかのように、イレイェンの頭を嘴でつついた。それから、胸元を―—木目の栞のある胸元をつついて、どうしようもない気持ちが溢れた。
「——イレイェン……!」
間もなくして現れたクラエスに、イレイェンは手を延ばした。
馬から降りた彼が、その手と共に自分を抱き締める。イレイェンもまた縋り付くように抱擁を返した。
「……良かった」
無事で、とつぶやく透明な声が、体のなかに滲むようだった。
「…………ほんとうに、良かった」
続けられた言葉に、イレイェンはただ肯いた。何度も。何度も。
凍てついた時間が、やっと時を刻んだ気がした。




