10−1
「——招待状?」
恵風が食堂に流れ込んだ。南の海から流れてきた風と、パドイユから流れてきた雪どけの風が混ざって心地よく、窓からあふれる韶光がまぶしかった。
焼き立てのガットに、冬に使い切らなかった林檎の砂糖漬けをたっぷりと乗せて、イレイェンは頬張る。甘酸っぱい香りが口中に満ちると、口元がほころんだ。
それから、桂皮と乳が入った紅茶を飲めば、ぴりりとした舌触りがきてから、体が少しあたたかくなった。
一年前も同じ頃に、桂皮が入った紅茶を口にしていた。あの時は、乳が入っていなかったからちがう飲み物だと思っていた。桂皮が南の海を渡ってきたことも知らなかった。
「——マルヌーシュ公と、連名でサロワ伯からだよ」
聞き返したからだろう。父リリエーシュ伯はそう答えた。
「越冬の祝いの舞踏会かしら?」
「そうだね。毎年この時期に開かれるのは、そうと決まっている」
「そっか」
食堂は静かだった。風がささやく声が鮮明に聞こえるほどに。
タルーシャ領での滞在を終えてから、三ヶ月。
当初の予定から前倒しして、まだ厳冬の影が残る季節に、イレイェンはリリエーシュに戻ってきた。そこから今まで、イレイェンはせわしなく過ごした。
父やスエラたちに止められるのを振り切って、足しげく街や村々に顔を出したり、父が冬場に行っていた領地運営の書類に目を通したり調べ物をしているあいだに、いつの間にか時が過ぎていた。
気が付けば、春の風が訪れ、雪どけの音が聞こえ、冬眠から目覚めたリスの足跡が見られるようになり、渡り鳥たちが一斉に碧空を羽ばたく姿が目に入るようになった。
先日、街で催された越冬の祭りに、スエラとラタムと一緒に参加した。
冬のあいだも人々は元気だと思っていたが、やはり春の訪れは格別らしい。どんちゃん騒ぎ、という言葉をイレイェンはここで初めて知った。
麦酒やタルスなどの酒樽が宙を舞い、笑い声が絶えず、緑の衣装を着ていようがいなかろうが、男だろうと女だろうと関係なく、いたるところで踊っていた。イレイェンもだれだかわからない酔っぱらいと踊ったのだが、気付いたら終わっていたので、まるで嵐のようであった。あとからやってきたスエラとラタムには、大丈夫だったか、乱暴されなかったか、と激しく心配された。
けれど、身分も性別も関係なく春を祝うことが、こんなに楽しいことだとはイレイェンは思わなかった。真実、越冬の祝いを体験したのは、去年よりも今年だったと思う。それくらい楽しい祭りだった。
「イレイェンは、どうしたい?」
「え?」
数日前のできごとに思いを馳せていたから、一瞬父の声を聞き取れなかった。
「舞踏会の出席、イレイェンはどうしたい?」
「どうって?」
「私は、欠席でもいいのではないかと思うよ」
去年とはまるで反対の意見だった。
一年前は、ここにソーニャがいた。いると思っていた。儚い幻だった。
〈双子の伝承〉に怯えて暮らす、偽りの生活。偽りを疑いもせず、外へのわずかな興味を懐きながら閉じた世界に暮らし、舞踏会に参加しようという父キャンスの言葉に素直に肯くことができなかった。
——そういえば、あの時。
影であるはずのソーニャは、どうしてイレイェンを外へ押し出したのだろう。ソーニャの存在は、イレイェンが作り出したはずなのに。
なぜ、偽りの妹は、わたしに影を照らすようなことを促したのだろう。
瞼の裏に、サイラーシュの夜の日が思い浮かぶ。赤金の光の粉は、あれは妹だったのだろうか。
「……イレイェン?」
父に呼ばれて、イレイェンは顔を上げた。
舞踏会の話をしたことで、娘が不安になったと思ったらしい。キャンスが思案げに覗き込んでくるので、イレイェンは笑った。
「もうわたしは大丈夫よ、お父さま。だから、心配しないで」
「だが……。やはり、舞踏会は―—」
「出席しようと思うの」
遮って言えば、父は目を瞠った。・
「出席するわ、お父さま」
「イレイェン」
イレイェンが繰り返すと、キャンスは咎めるように名前を呼ぶ。
「病気は……マシルラおじさまが言うには、もう治っているそうよ。かと言って、無理をしてはいけないのはわかっている。絶対に大丈夫なことがないというのも。なにかあったら、お父さまにちゃんと言うわ」
「……良いのか? クラエス殿とまた対面することになるのだよ。それでも、本当にいいのか?」
「ええ。ちゃんと決着を付けたいの」
サイラーシュでの短いひとときのことをイレイェンはキャンスに話してある。
娘の真剣な気持ちに気付いたのだろう。キャンスは嘆息してから、肯いた。
「わかった。出席と書こう」
「ありがとう、お父さま」
「——お嬢さま、ほんとうによろしいのですか?」
問うたのはスエラだった。
「なにが?」
鏡台の前で、就寝前の手入れを手伝ってもらっている最中だった。
スエラはこのあと、馬を駆って街まで戻るという。タルーシャから戻ってきて以来、何度となく夜の手伝いは断っているというのに、彼女は頑として首を縦に振ってくれなかった。少なくとも、今年の社交季に入るまでは絶対に譲らないらしい。
「マルヌーシュ公の舞踏会です」
「スエラも反対?」
「わたくしは……いえ、わたくしたちは心配なのです。その、お嬢さまがまたクラエスさまとお会いするのは……その……」
わたくしたち、というのはラタムやジュラス、ヌラットたちのことだろう。
今までが今までだ。イレイェンは心配されて当然だった。
「ありがとう、スエラ。その気持ちが嬉しいわ。そりゃそうよね、あんなふうに叫んだりしたんだから」
そう笑えば、スエラは手と首をぶんぶんと振って否定した。
「ちがうんです! お嬢さまが悪いわけではありません。あれは病が起こした症状なんですから」
「うん。だから、病気だったから心配されて当たり前だなって」
「お嬢さま……」
「これはお父さまにも言ったのだけど、もしなんかおかしいなって感じたら、必ず言うわ。クラエス……サロワ伯とはけじめを付けたいの。このまま、中途半端な関係で終わりたくないから」
「……でしたら、わたくしもお連れください」
スエラの言葉に、イレイェンはきょとんと首をかしげた。
「スエラも?」
「はい。なにかあったら、いつでも駆けつけることができるように」
スエラはいつだって優しかった。イレイェンに仕えはじめた頃から今まで、ずっと思いやりに溢れていた。変わらない優しさに、イレイェンはずっと癒されていたのだろう。
ここで断るのは、逆に彼女の心遣いを無碍にする。
イレイェンは、微笑んで応じた。
「わかったわ。お願いするわ」
「ええ、お嬢さまのためですから」
「ランセスに悪いわね」
「いいんです、あの人は」
いつものやり取りをして、イレイェンはスエラと目を見合わせる。また、ふたりでくすくすと笑えることが、とても幸せな時なのだと感じた。




