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春の訪いの祭日、白昼早々に屋敷を訪れたのは、リュメール公夫妻とシェレーヌだった。父とリュメール公夫妻が歓談をする横で、シェレーヌにリリエーシュ伯とその娘イレイェンについて尋ねた。
自領の人間であれば、メルニー伯ならおおよそ精通しているだろうと思ってのことだ。けれど、予想をこえてシェレーヌは首を振った。
「リリエーシュ伯キャンス・ヤンヌは、一度か二度見た覚えがあるが、わたしがまだ十にも満たない頃で、話した覚えはない。その娘のイレイェンは名前しか知らぬ」
「そうか……」
では夜になって会ってみなければ、人となりはわからないということだ。
「その娘がどうかしたのか?」
「父の誼で、もしかしたら彼女の同伴をするかもしれない。聞いてみただけだ」
「そうか。もてる男は大変だな」
掌をひらりとさせると、シェレーヌは適当に言った。
夕方になり、次々と敷地内に馬車がやってくる。遠方の客や断りのあった客には、客室を用意していたので、到着次第、客室担当の使用人たちが次々に案内をしていった。
クラエスは、その様子を三階の玻璃越しに眺めていた。
招待客とその使用人たちでごった返している入り口では、目的の人物を見つけられそうになかった。
内心で溜息をついてから、クラエスは階下へとくだる。かつてのマルヌーシュ公——祖父や曽祖父、高祖母などイングヴァル家の一族が描かれた画廊を抜けて、ざわめく会場に足を踏み入れた。
そしてすぐに、華やかな赤金色がふたつ、目に飛び込んだ。
「——イレイェン?」
父親が娘にその名を呼びかけている。呆然としている様子の娘の背中は、赤い陽炎が揺らいでいるようだった。
「失礼」
通り抜けざまに娘をうかがえば、はっとした瞳とぶつかる。
黄昏の色。
王都の西に沈む陽の色を思い浮かべて、胸骨の裏が撫でられるような心地を覚えた。
振り払うようにして会場の奥に進めば、阿諛追従の徒が次期マルヌーシュ公に取り立ててもらおうとあとを追ってくる。それらの面倒を適当にあしらってから、クラエスは入り口のほうを振り返った。
イレイェン。
では、あの娘が件の令嬢で、彼女の名を呼んでいたのがリリエーシュ伯なのだろう。クラエスが目的としていた人物たちだ。
不思議な印象の娘だった。
あれほど目立つ色合いをしているのに、ふれればたち消えてしまいそうな揺らぎがあった。見張っていなければ、誰かとぶつかった拍子に宙に溶け込んでしまいそうな危うさだった。魔術を学びはじめた頃の、術を行使した時の感覚。糸を手繰っていくような、いつ切れてもおかしくない緊張を持った危うさに、近いものを感じた。
所領の領主たちと挨拶を交わしながら、耳の後ろを引っ張られるようにして、娘の姿を追っていた。そうして、小走りで会場から外へと向かう娘の姿を捉えて、クラエスはその場の者たちに断りを入れて、あとを追った。
会場の灯燭を背に受けて、娘は露台の欄干に手をついて、夜闇を見つめていた。春の夜風が冷たく頬を撫でる。
「——春とはいえ、夜はまだ冷える。ここにいると、風邪を召される」
声をかける前に、彼女はこちらを振り返っていた。目を細めるのは、夜会の光が逆光になっているからだろう。
「さきほどは申しわけなかった。金の色が珍しく、不躾にもじっくりと見てしまった」
言えば、目が慣れてきた娘は合点したように黄昏の瞳を丸くしてから、クラエスに一礼をした。
「ご心配いただき、ありがとうございます。さきほどのことはどうぞお気になさらず。わたくしも、銀の色が珍しくて立ち止まってしまいましたから」
声を発すると、その輪郭がはっきりとするようだった。凛とした音だった。
「それならば良かった。
——私はクラエス・イングヴァルと申す。サロワ伯を頂戴しているが、もしよろしければ、貴女のお名前を伺っても?」
クラエスが名乗ると、娘が驚きで身動ぎした。名乗って慌てるさまは見慣れた光景で、クラエスのなかで苦笑と倦みが這っていった。
イレイェンと名乗る娘に、内心で知っていると答える。
貴女の父君から頼まれたのだから。
マルヌーシュの次期であることを気にする娘に、クラエスはわずかな落胆を覚えながら、先代のような失策を行わない限り、マルヌーシュ公になれるだろうと説いた。
娘が首をかしげたので、丁寧に説明をしてやれば、目を瞠る。こちらの言動に表情を変えるさまは貴族の娘として心配になるところだが、同時に純粋であるところを察して、その理由が思い起こされた。
母を亡くし、領地に十年閉じこもりデビュタントの叶わなかった伯爵令嬢。
何も知らなくて当たり前ではないかと、クラエスは自分自身に言い聞かせる。
疑問を口にするイレイェンに、気づかぬうちに長く一息に語っていた。話し終えてからしまったと思って頭を抱える。
すまないと口にすると、いいえ、というすげない声が返ってきた。やはり長く話しすぎたと胸中で反省をする。社交ではあまりない失態に、自分に疑問を覚えながら、話題を切り替えた。
「そういえば、今日はどうして、こちらに参られたのだ?」
「……わたくしのデビュタントの代わりを兼ねて。けれど、一番は父が次期さまのお父さまと旧友だからです。まだ挨拶はしておりませんが、のちほど伺わせていただくかと」
「デビュタントの代わり?」
自分のことはあまり聞かれたくないという様子だったが、あえて尋ねれば、案の定、娘は苦い顔をしながら答えた。
「……体調を崩しておりましたので」
「なるほど。では、すでに一曲踊られたということか?」
今の会話のなかで、すでに一曲踊ったという推察をする根拠など何もなかったが、断定して問いかければ、こちらが引き出したい話題に持っていけると思った。
「……いいえ」
否の答えに、クラエスは喜びを顔に表した。こういう顔をすれば、令嬢に受けないわけがないと思ってのことだ。
思惑通りイレイェンが瞳を小さく揺らすのを見て、クラエスは内心で満足した。
同時に、つまらなく感じている自分が裏側にいた。
「では、もしよろしければ、この緑の季節を共に祝っていただけないであろうか?」
「……えっ」
「貴女のデビュタントの代わりが、この私に務まるようであれば」
持っていきたい話題に持って行くことができて、ほっとする。そうすると、赤金色の娘は、その髪と同じくらい顔を赤くして、俯いた。
不思議な感覚が首をもたげた。
これほど分かりやすく、気持ちをあらわにする娘を目にするのが初めてだったからだろう。扱いやすさに安心する自分と、そんな様子で社交界を渡っていけるのかという不安を覚える自分が、その場を寛げさせる発言を促した。
「私は銀色の令嬢たちにひっぱりまわされずにすむし、ね」
「そっちが本音ですわね!」
言えば、イレイェンは辺りに凛とした声を響かせた。うっかり口にしてしまったといった様子で慌てて口を塞ぐ様子に、クラエスは思わず声を上げて笑った。
ほんとうに、思わず。
「貴女は思っていることがすぐに顔に出るな」
指摘せずにはいられなかった。けれど、なぜか喜びを覚える自分がいる。悪くない心地だった。
「今日はじめてデビューする女性に対する口説き方としては、あんまりですわ!」
「すまない、すまない。では、言い直そう。
——私と踊ってはくれぬか、イレイェン嬢?」
「喜んで虫よけになって差し上げますわ、クラエスさま」
思い通りにしようと思っていた一瞬前とは打って変わっていた。久方ぶりに、踊ってみたいと、好奇心からそう思った。
イレイェンとリリエーシュ伯が、父公に挨拶して退場するのを見届けてから、クラエスは、シェレーヌとその周りのリュメールの貴族たちに合流した。
招待に応じたリュメールの貴族は、全部で六家。そのうち三家は、南部の貴族たちだ。北部はリリエーシュ伯爵家とタルーシャ子爵家しかいない。これが、マルヌーシュとリュメールのあいだの溝の深さを物語っている。
通行税ののちの穀類などの買い占め、そして起きた飢饉で一番影響を受けたのは、リュメール北部の地域だ。だから、北部の人間の恨みは深い。出席している二家のほうが異様と言えるほどに。
タルーシャ子爵は、気のいい男だった。大きく髭をたくわえて溌剌と話す様子は、悪い気持ちにさせないものを持っていた。シェレーヌからの前評判では、領主としても息子ともども領民に慕われているという。
出席の礼を言えば、むしろ招待の礼を返された。今後の付き合いをそれとなくにおわせたところ、
「堅苦しいことはなしでお願いします。昔はどうあれ、それを恨んで領民を扇動するのはいい領主とは思いませんのでね。それを近隣にも分かってもらえるように、協力していきたいのですよ」
ずばりと言われて、クラエスはありがたく協力を仰いだ。
それから十二ノ時が過ぎ、招待客が徐々に会場からはけていくと、時宜を見はからったと思われるシェレーヌから声をかけられた。
「きれいな娘だったな」
「だれが?」
唐突すぎて問うと、シェレーヌが紅唇をにやりと歪めた。
「リリエーシュ伯の娘イレイェンのことだ」
「……話したのか?」
「いや、ちらりと見ただけだったがね。あの髪はともかく、面立ちはミリェル姫によく似ている。磨けば光るだろうよ」
わたしのほうが美しいが、という一言は忘れずシェレーヌは去っていった。
その後の社交のほうが忙しかったから頭の隅に追いやられていたが、黄昏色を思い起こした。
リリエーシュ伯は、王都に上る可能性があると言っていた。ということは、彼女も一緒に上がる可能性がある。
また、会えるかもしれない。
思えば、視界に陽炎が揺らいだ気がした。




