6−3
ランスリー婦人は五年という約束を大きく翻した。
わずか二年のあいだにクラエスに出資金を返上し、さらに、アストリーゼ通りに店を構えるための資金作りにも成功したのだ。これには、クラエスも驚いた。
「いったい、どうやった?」
「仕事は手抜かりなく丁寧に。顧客を大切にする。このふたつを怠らなかっただけですわ」
三年近い付き合いになると、はじめは気難しいだけの女性だと思っていたランスリー婦人は、うちとければ気配り上手な女性であることがわかった。以前は、クラエスを見るたびに疑わしく眉間にしわを寄せていたが、今では朗らかに接してくれる。互いへの信頼が積み重なっていた。
「俺は何も役に立たなかったな」
苦笑して言えば、とんでもないと婦人は言った。
「サロワ伯が出資してくださらなければ、ここまでは来られませんでした。ほんとうに、頭が上がりません」
「貴女の実力だな」
そこで言葉を切ってから、今後のことを打ち合わせた。翌年にアストリーゼに店舗を出せるように王宮に申請すること、婦人と同じような職人を見出して、マルヌーシュの職人組合を作ることを話すと、ランスリー婦人は了承の意を示した。
「この二年のあいだに作った人脈や、サロワでの人脈を使って、伯に尽力いたしますわ」
「感謝する。——ではまた、来年の春に」
社交季の終わりを告げる〈冬の訪れの風〉が吹くと、クラエスはマルヌーシュ委任領のサロワ領内へと戻った。
クラエスがこの数年をかけて着手してきたことは、少しずつ芽が出てきている。カンプラード中を見て回ったことは徒労ではなかった。自分が歩いた道のりを思い返すと、横たわる寝椅子に疲れが滲み出るようだった。そして、さらなる時間をかけて培っていく道のりを思うと、果てのない気持ちになった。
「——お疲れでございますね」
「アルンか」
平生、無駄口の叩かないアルンが入室早々に声をかけるのだから、自分はそうとう疲れて見えたらしい。思わず溜息がもれた。
「わかるか?」
「五年前と比べると、ですが。あの時は伸びやかでいらっしゃいました」
そうだろう。視察して歩き回っていた頃はほとんど好奇心のかたまりだった。カリカースの民であったアルンを従者に、というわがままを通すことができたのも、あの頃だからできたのだ。
「シェレーヌさまがおっしゃる通り、少しは遊ばれたらどうです?」
「あいつと同じ真似はしたくない……」
シェレーヌといえば、浮いた噂しか聞かないが、男女問わず悪評が立たないのだから不思議なものだった。
女に困ったという経験はなかった。異性から好まれる姿をしていることも自覚している。遊んだことがないといえば嘘になるが、一夜の刹那的なあたたかさよりも、思索にふけっている時や領地のことを考えている時のほうが、風が凪いだように落ち着くのだ。
中毒のように領主を務めながら、いずれどこかの令嬢と婚姻関係を結ぶのだろうと漠然と思っていた。もし、結ぶのなら、マルヌーシュにとっての良縁——できれば、リュメールに住む令嬢だと都合が良い。そうすれば、マルヌーシュとリュメールの関係をさらに改善させることができる。祖父がばらまいた諍いの種を摘んでいくことができる、と。
だから、クラエスにとって、越冬を祝う春の舞踏会はまたとない機会だった。
冬が開ける少し前、父公より、次の舞踏会の招待客を選ぶように言い渡された。
「私が、ですか?」
「そうだ。お前に任せる。マルヌーシュにとって良き相手を選べ」
麦酒を呷る父は、顔が赤くてもその目は酔っていなかった。
「ただし、わしから必ず招待状を送って欲しい相手がおる」
「父上から? イリギール侯ですか?」
ちがうと言って、父は首をふった。
「リリエーシュ伯だ」
「リリエーシュ伯といえば……」
たしか、毎年、招待状を送っている相手だ。リリエーシュ伯領は、リュメール委任領の北西に位置している。サロワ伯領とも近い。
だが、クラエスが覚えているかぎり、一度として出席の返礼があった覚えはない。
「なぜ、と訊いても?」
頷いて、ごくりと杯を飲み干してから父は答えた。
「わしとやつは旧知の仲でな。若い時分はよく酒を飲み交わした。お前は知らぬかもしれぬが、わしらがリュメールの地に足を踏み入れることができるほど関係を回復できたのは、リリエーシュ伯の活躍によるところが大きい」
つまり盟友だ、と父は言った。
父であるマルヌーシュ公が長く力を入れてきたのが、リュメールとの関係改善だった。数十年という月日をかけて、領民から貴族まで互いの領土に足を踏み入れることができるほど、軋轢を解消することができた。今でもたまに領民同士で小競り合いが起きるが、そこまでに労した力は尋常ではない。
「リリエーシュ伯はどんな方なのですか?」
「一言で言えば、調停人、であろうな。あらゆる揉めごとに直接赴いて、熱心に話を聞き、沙汰になる前に片付ける。問題は火種のうちに根から消していく。そういう男だ」
「調停人」
父にそこまで言わしめるということはよほどの人だったにちがいない。だが、四年前から参加している王会でも社交の場でも、出会ったことがなかった。
クラエスの考える疑問に、父はすぐに答えた。
「そこまで言われるようになったのは、奥方の影響が強いのだがな……。十年前にその奥方を病で亡くしてから、ほとんど領地から出てこなくなったのだ」
父は、執務机の抽斗から一通の封書を取ると、クラエスの前に出した。
「この十年、文でのやり取りしかなかったのだがな。そんな男から、今までの招待の礼と共に、ひとつ頼みをされた」
「頼みとは?」
「曰く、今年はぜひとも出席したいと考えているが、娘も共に招待をして欲しい、と」
「リリエーシュ伯には娘がいるのですか?」
「おそらく今年、十八になるか、なったかの娘だ。病弱と聞いている」
自分のふたつ下。となると、社交界に顔見せを行っていれば、知らないはずがない。ということは、伯と同様、領地に引きこもっていたのだろう。
「デビュタントの代わりに出席させたいのだそうだ」
では、デビュタントの場には出ていないのだ。娘たちの憧れである緑の衣装を着られなかったのか。
それは憐れだった。
あのシェレーヌでさえ、寿ぎの色である緑をまとうことには浮かれていたくらいだ。年頃の娘だったなら、よほど口惜しかったにちがいない。
「なるほど……理解しました。では、私はリリエーシュ伯とその娘を招待するのを忘れなければ良いということですね?」
「そうだ。わしの代わりに、よろしく頼むぞ」
肯きながらクラエスは、自分のなかで生じた冷えた考えに思いを巡らせていた。
これは利用できる、と。
ちょうどいいのではないか。調停人であるリリエーシュ伯の娘。リュメールとマルヌーシュの関係改善に尽力した男の令嬢ならば、願ってもない良縁ではないか。
イレイェン、という名の娘がどういった娘かは知らないが、父と共に十年も引きこもっていたのなら、世間知らずな娘にちがいない。自分が少し優しい顔を見せれば、すぐになびくだろう。
そんな考えを巡らす自分に、ぽっかりと空いた虚が苦笑した。
デビュタントを行っていない不憫な令嬢に対して、なんて人情のない男だと。
だが、クラエスは自分のなかで誰が笑おうとどうでも良かった。それが、領地や領民のためなら、仮面を貼り付けようと、自らの暗い血潮に言い聞かせるのだった。
冬の終わりに招待客を精査し招待状の送付を終えた。春が訪れると、続々と招待状の返礼が届き、そのなかにはリリエーシュ伯とその娘の出席が含まれていた。
その返礼には、娘イレイェンが踊る時には、その先導をご令息にお願いできないか、と控えめな願いがしたためられていた。
クラエスが計算せずとも、向こうが願っているのだ。これを利用しない手はないと、まだ見ぬ娘に悪く思いながら、当日の自分の動きを頭で描いた。




