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北部の貴族たちが帝都に上がりはじめる前に、クラエスは領主館を出立した。
マルヌーシュの街道を逸れて、東に向かい、リュメールに入る。アルンだけを連れた馬上の旅は気が楽だった。
車の中で座りつづけるよりも、馬の体の上で揺られているほうが、クラエスは好きだ。前方につづく雄大な景色を視界に入れることや、風が直接顔にぶつかっていく心地は、領主という荷駄から解放されるような気分になる。望むことができるなら、延々と旅を続けていたいと思う。
だが、ばかばかしい望みだ。
マルヌーシュのイングヴァル家に、嫡子として生を受けた時から、向かう道のりは決まっている。選択の余地はない。
ふと、王都に永住している母と弟のことを思った。彼らには、自らの道のりを選ぶ権利があった。心底、うらやましいと思う。一方で、昔ほど、血に爪を立てたくなるような抵抗を覚えることはなくなった。むしろ、領主という立場に楽しみさえ覚えている。自分のなかのゆるやかな変化だ。
時折、こうして解放されたいという衝動が首をもたげるのは、調律のようなものだ。そういう時はひたっていたほうが塩梅がよい。
「——セデレール領に入りました」
「予定どおり、ここで宿を取るぞ」
御意、というアルンの返事をきくと、クラエスは馬の速度をあげた。
セデレール伯領は、帝都に続く街道に沿っているので、南北に長い。古くから、宿場街を多く有していることで、栄えてきた。
以前の視察では、リュメール全体を回ることに注力していたため、じっくりと見ることができなかった場所だ。
人と物が行き交う場所は栄える。マルヌーシュにも、南北や東西を結ぶ街道がある。リュメールの街道を見ることで、自領に活かせる何かを発見することが目的だった。
セデレール第一の宿場街に入ると、クラエスは適当な馬屋に馬を預け、アルンと共に目抜き通りを巡った。
通りに沿って、多くの露店が立ち並んでいる。路地に目を向けると、食堂や宿屋が立ち並び、どこもかしこも人々の頭が見えた。
くすんだ色の簡素な衣に身を包んでいるのは、旅人だ。鮮やかな色の衣を着ているのは貴族たち。そして、白の上衣に、黒や赤の中衣や衣裙をまとっているのは、街の者たちだろう。身に付ける色はマルヌーシュと同じだ。
けれど、よく見てみると、施されている刺繍がちがう。模様や細密さがリュメールとマルヌーシュではまるで異なることに気が付いたのは、ランスリー婦人と関わったからだろう。
今見ているリュメールの衣服には、小麦や林檎、羊や山羊が大ぶりに縫われている。一方でマルヌーシュに描かれているのは、根菜や大麦が主だ。それらが、繊細に繰り返して小さく細かく刺繍されている。
手工芸は、こんな身近なところにも差異として表れている。
気が付いたことに、湧き立つような思いを踏みしめた。
早く。早く、マルヌーシュの職人工芸を普及させたい。そうすれば、人々が抱くどうしようもない飢餓のような諦念を、払拭させることができる。リュメールやカリカースに並び立つような、委任領としての矜持を取り戻すができる。
それを成すのが、クラエスに定められた務めなのだ。
没我の思考から浮き上がると、再び街を見渡した。釣り看板や訛りのちがいが脳裏をかすめた。
そして、やにわのことだった。
視界の隅を、陽炎がたち揺らいだのは。
目を向ければ、赤金の色が小路に消える寸前だった。引っ張られるような力を感じて、足を進める。
そして、視界の中央に入った娘——イレイェンは、空虚な揺らぎを横顔にたたえていた。いつ切れるとも知らぬ細い糸を手繰りよせていくような、あの危うさだ。
彼女が一人でいるという事実に、いい知れぬ焦燥が、よりあらわになった。
巾着切りや狼藉者がいるような街中で、一見して貴族の妙齢の女がひとり。襲ってくれと言って、歩いているようなものだ。
声を出そうとして、その声に感情がにじむのが予測された。深く息を吸い、それから長く吐くと、つとめて穏やかに声をかけた。
「このような場所に、女性が一人でいるとは、あまり感心できぬな。——イレイェン嬢」
「……クラエスさま?」
言葉がけをした瞬間に、曖昧になっていた輪郭が線を描いたかのように、くっきりとした。こちらを振り向いた娘は、その夕陽色の双眸を丸くしている。
侍女とはぐれたという娘にそれとなく捜索を申し出て、アルンに頼んだ。宿まで送り届けるために、彼女と横並びになる。燻るような焦りは、娘が横にいることでなりを潜めていった。落ち着いていく自分の気持ちを眺めながら、早足にならないよう歩みを調整していると、問われた。
「クラエスさまは、どうしてリュメールに?」
マルヌーシュの人間であるクラエスが、リュメールの街道にいることが気になったのだろう。当然の問いだった。
「観光だ」
「観光? リュメールの領内を?」
小首をかしげるイレイェンにクラエスは肯いた。簡単に感想を述べると、イレイェンは聞いて当たり前の質問を発した。
「それで、どんな感想をお持ちになったのですか?」
「林檎の香りがする、おだやかな土地だな」
「それは良かったです。リュメールの林檎はとてもおいしいですからね」
「貴女も林檎を召し上がるのか?」
「好物です」
娘からさらりと出た答えに、思わず大笑していた。腹の底から出た笑いだった。
相手が期待をしている笑いではなく、沈んだ空気を変えるための笑いでもなかった。意図をしていない笑いというのは久しかった。
クラエスが笑っていると、いかにも不満といった具合でイレイェンが言う。
「わたし、変なことを言いました……?」
「いや。ふつうなら、はいと肯いて、適当に領地の名産について、語るだろうから」
大方の令嬢であれば、たとえそれが好物であっても、模範的に、自領の名産ですから嗜む程度です、と答えるだろう。あけっぴろげに好物であることを話す者はいない。相手の表情や声、仕草から言外の機微を読み取るのが、社交というものだ。
それを楽しむ者もいるだろう。だが、クラエスは窮屈だと感じる。本心を隠し、人の本心を読み取ろうとするのは、ひどく消耗をする。互いに言いたいことを言い合えばいい。
だから、ふつうではなく、例外だと言われたことに憤慨する娘の姿が、好ましく映った。磨り硝子がその曇りを晴らしたかのように、輝いて見えた。
その目で再び街中を見渡すと、鮮やかな絵画を見ているような心地で、新しい発見で満たされる気がした。
機嫌よく周囲に目を走らせていれば、イレイェンにもそれは伝わったらしい。不機嫌な様子をぱっと切り替えて、質問をするそのさまは、好奇心の強さが見て取れた。
木版の看板や、建造物の衣服の意匠、石畳の表面、言葉の訛りについてふれる。特に、刺繍のことを話していくうちに、イレイェンは見る見る目を大きく見開いていった。
「他にも、あるのですか?」
語り終えると、イレイェンは我慢ができない様子で訊いてきた。それはまるで、初めてマルヌーシュとリュメールの違いを目にした時の自分を見ているようだった。知ったことや他の可能性があるかもしれない、だから知りたいという衝動に突き動かされているのだろう。
「そうだな。俺が気づいたことなら、いくつか」
「ぜひ、教えてください!」
娘は、凛とした声を響かせて言った。その声にどきりとしながら、確認のために尋ねる。
「面白かったか?」
「はい、とても」
笑顔で返ってきた言葉に、クラエスは自然と笑みが出た。
「——それは良かった」
思い返せば、この頃からすでに彼女に惹かれていた。
感情を隠さず、自分の興味に関心を示す様子や、どこか揺れ立つような危うさに。もしかしたら、世間知らずの娘を守らねばならぬというつまらない庇護欲が働いたのかもしれない。
けれど、姿を見つけたら何気なくその首筋や手先に目を向けてしまうような、そんな心地が働くのもたしかだった。
そうして見ていたからこそ、彼女の違和感に気付いていくようになったのだろう。




