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馬車から足を出す。靴底が石畳に当たると、こつんと音を立てた。橙色の衣装がふわりと風をはらんだ。
イレイェンは、舞踏会場となる夜闇と星屑の城館を見上げながら、道中を思い起こした。
*
当主である父からその話を告げられたのは、イレイェンがまさにガット(パン)とキリエ(人参のような根菜)を頬張った時だった。ソーニャと共に、目を丸くする。思わずイレイェンは口に含んでいるものを吹き出してしまった。見ていたソーニャが「はしたないわ」と顔を歪める。
「公爵家で舞踏会?」
紅茶で、口の中の咀嚼物を流し込んでから、確認のために尋ねた。香辛料のぴりりとした味が、目覚めにちょうどいい。ちらりと横にいるソーニャを窺ってみると、朝食を取らない妹は、父の言葉に眉ひとつ動かさない。自分と同じ橙色の瞳は、口から食べ物を飛ばした姉の所業のほうが、気に食わない様子だった。
「それも、マルヌーシュ公爵家での舞踏会だ」
「マルヌーシュ公から? リュメール公ではなく?」
父——リリエーシュ伯は「そうだ」と肯きながら、赤金色の髪をかいた。
父が治めるリリエーシュ伯領は、リュメール公領のなかに位置している。東のリュメール、中央のマルヌーシュ、西のカリカース。マルヌーシュ公というのは、隣の公爵領の当主のことだ。
イレイェンはひどく驚きながら、鏡を見るような心地でソーニャと顔を見合わせる。父譲りの髪色に、ゆるくうねる髪質、夕陽をたたえた瞳、立ち居や後ろ姿まで、イレイェンとソーニャは見紛うほど似ている。違うのは、分け目だけ。ふたりは、双子だった。
「ねえ、お父さま、ほんとうにお父さまだけの名前だけじゃなくて、わたしの……名前が入ってるの?」
「信じられないのなら、自分の目で確かめてみなさい」
父は懐から封筒を取り出し、イレイェンに手渡した。
封を検めると、宛名にはリリエーシュ伯ヤンヌ家、と記されている。封蝋には、マルヌーシュ公イングヴァル家の紋章が捺されているのを確かめて、イレイェンは唾を飲みながら、封書を取り出した。一通り目を通してから、ソーニャに渡し、妹が読み終えるのを確認すると、溜息がもれた。
マルヌーシュ公から、というのは本当らしい。父が舞踏会の招待状を受けるとしたら、当然リュメール公からだ。隣の公爵領から手紙が舞い込んでくることでさえ珍しいというのに、それが舞踏会の招待状となると、イレイェンは初めて目にした。
「デビュタントでさえ参加していないのに、どうして招待状なんか……」
そもそも、自分たちヤンヌ家は貴族とはいえ、つましい家だ。使用人は、家令と侍女、料理師と庭師の四人しかおらず、その全員が屋敷内の仕事を兼務して、成り立っている。わざわざ隣の公領からお呼びがかかるとは思えないのが、ヤンヌ家だった。
「マルヌーシュ公とは旧知の仲だからな。私に娘がいるのを知っている。特段理由はあるまい。純粋に……社交季を楽しもうという意味合いが一番強いと思うよ」
旧知というのをイレイェンは初めて知った。
そうだったのか、と不思議に思う。
「——どうだ、ふたりが良ければ、どちらか私と参加してみないか?」
父とマルヌーシュ公の関係について、ぼんやりと考えていたら、父の言葉に反応が遅れた。耳の中の残響が、何か言われたということだけを示している。ソーニャは悠然としていて、イレイェンは没我していた意識を引き上げて、聞き返した。繰り返された父の提案に、イレイェンは大仰に喫驚した。
「ただの招待状の話だけかと思えば、寝言はやめてよね、お父さま。もう一度顔を洗ってきたらどう?」
「今朝はラタムと共に庭仕事をしたから、目はしっかり覚めているよ、イレイェン。
私と舞踏会に行ってくれるのは、どちらかな?」
卓上で手を組むと、父は顎を乗せた。イレイェンとソーニャを交互に見ながら楽しげにしている様子に、軽く手を振った。
「行けるわけないでしょ」
「ここに招待状があるから、行けるに決まっておろう?」
「あのね、お父さま。わたしたちは双子なの。それを、わかってる?」
「だから、イレイェンかソーニャのどちらかと言ってるではないか」
「わたしたちは、目立つわけにはいかないのよ? それをわかってるの?」
小さな苛立ちを覚えた。
「だが、お前たちも年頃の娘だ。舞踏会には興味があるだろう?」
なおも食い下がって、話を続けようとする父に、イレイェンは自分の中の苛立ちが、燃え立つように変容を遂げたことがわかった。
この父は荒唐無稽にも何を言っているのだろう。できないから言っているのに、親しい人から招待状が来たことで、知人と会うことしか頭にないのではないだろうか。
「それでも。無理だってわかってるでしょ? お父さまだけで行ってきてください!」
「落ち着きなさい。どうして、急にそんなに怒るのだ?」
父は、自分の怒る理由も察することができないのか。頭のなかで糸が切れる音がした。
イレイェンは、食卓に音を立てて手をつくと、父をぎろりと睨んだ。
「マルヌーシュのあまい麦酒でもお土産にしてきてくれたら、わたしはそれだけで満足だから! もうこの話はしないで!
——行こう、ソーニャ」
我関せずとばかりに本を読み進めていたソーニャの手を取ると、イレイェンは憤然として、茫然とする父を尻目に、食堂をあとにする。ちょうど、食後のくだものを運びにきた侍女のスエラと、ぶつかりそうになって驚かれたが、無視した。妹の手を引っ張って、階段を駆け上がる。ドレスの裾が足先にまといつくのが、煩わしい。たくしあげたい気持ちだった。
階段をのぼりきった先が、イレイェンたちの居室だった。勢いのまま自室に飛び込むと、寝台に転がった。
「はしたないわ、姉さま」
「誰も見てないもの」
ソーニャの声は、淡々としていた。舞踏会や、さきほどの会話など、意に介していない様子だった。気にしているのは、自分だけなのだ。
「ソーニャは、興味ないの?」
「何が?」
「舞踏会」
ほとんどないわ、というのがソーニャの答えだった。
「どんなものなのか多少興味はあるけれど、賑やかな場所は好きではないもの。ここでゆっくり本を読んでいるほうが、好ましいわ」
言いつつ、寝椅子に腰を下ろしたかと思うと、小脇にはさんでいた本を取り出して、背筋を伸ばして頁をめくりはじめる。令嬢らしい絵になる姿だった。
開かれた窓から、パドイユ山を下ってきた初夏の薫りが入り込む。険しく厳しい山々を通り、おさない緑をふくんだ風は、少しつめたい。あたたかな陽射しは、春の訪れを報せ、けれど、夜になればいつものように冷えるだろう。
涼やかな風に当たっていると、イレイェンの中で沸々とした火が、おさまっていく。目を閉じれば、風を通して森閑とした山々の様子が、瞼の下にうつった。残雪のあいだから若芽が顔を出し、冬の眠りから覚めた動物たちが、輪になって踊る。とけ出した雪が川を作って、せせらぎが木霊する。雪どけの水は、下へ下へと流れていって、やがてサユール川となり、リュメールの土地に脈を張って、新しい命の糧となる。
まざまざと浮かぶ春の景色が、まどろみにいざなう。心地よさにたゆたう。深く沈み込んでいこうとしたところで、
「姉さまは、舞踏会に興味があるの?」
ソーニャの問いで、急速に意識を取り戻した。
森の中や牧草地の情景は霧散し、変わらぬ自室の様子に、喪失が漂泊した。舞踏会のことで父と口論したことなど、ちっぽけなできごとのような気がした。
少し、怒りすぎたかもしれない。あとで、お父さまに謝ろう。
「——そりゃあ、あるわよ」
イレイェンはソーニャに答えた。
「社交をしたいの?」
「社交をしたいというよりは……、一度でいいからリリエーシュの土地を出て、きれいな衣装を着て、越冬を祝ってみたいの」
目の奥で、動物たちが踊っていた。冬の眠りから目覚め、春の訪れを歓ぶ姿は、この国の人々そのものだった。
「それなら、毎年家族で祝っているじゃない」
「大勢の人と祝ってみたい。あの寒くて、外に出ることもままならない日々を堪え抜いたことを、大勢の人とがんばったねって祝ってみたいわ」
冬は、全土を通して長く、そして厳しい。南のほうに行けば、多少は寒さが和らぐものの、用もなく出歩く者はまずいない。冬が訪れると、すべての者が家にこもり、備蓄した食料で耐え凌ぐ。だから、冬が終わり春が訪れ、社交季になると、誰もが喜び、祝うのだ。つつがなく冬を越せたことを。
「でも、無理な話だけどね」
イレイェンの返答を聞いて、俯いていたソーニャが顔を上げた。
「わたくしたちが、双子だから?」
「うん、そう」
イレイェンは、控えめに微笑む。
この国では、双子は忌まわしい存在。
かつて——二百年もむかしのことだ。帝王位の継承権を巡って、双子の王子たちが争った。十数年に渡った骨肉の争いは、国土を荒らし、食を育む土地が荒れれば、人心もまた荒れた。冬を越すための食糧がないことで人が死に、すさんだ人々によって、村々や街の秩序は乱れた。
口承で伝えられてきたこの物語を知らない国民はいない。双子とわかれば、周囲からどんな態度を取られるのかわからなかった。だから、イレイェンとソーニャは、双子であることを隠して暮らしてきた。息を殺すように、ひっそりと。いかに仲の良い姉妹と言えど、知られれば凶兆だと言われるだろう。何をされるのかわからない、というのは嫌な想像を掻き立てた。
「お父さまもわかっているはずなのに、ひどいわよね。舞踏会なんて、たくさんの人がいる場に姿なんか現したら、いつ何時、秘密がばれてしまうことか。わたしたちだけじゃなくて、お父さまにも害が及ぶかもしれないのに、ちっとも考えてないんだから」
ほんと腹が立っちゃう。落ち着いていた怒りが、また湧き上がってくるのを感じる。食堂に戻って、父のしまりのない顔に一通りの罵声を浴びせようか。逡巡していると、軽やかな声が聞こえてきた。
「ばれなければ、いいんだわ」
「どういうこと?」
「マルヌーシュでの舞踏会、姉さまが行ってきてくださいな」
自分とそっくりな顔が、さらりと言った。妹が、名案だわと言わんばかりの満面の笑みを浮かべていると、鏡のなかの自分を見ているような気分になった。
イレイェンが絶句していると、そっくりな声音が語る。
「わたくしは家の中にこもっているのが好きだし、姉さまが外に出たいんだったら、出ればいいんだわ。たとえ、舞踏会に出席してお友達ができて、万が一我が家を訪ねてくることがあっても、わたくしがちょっとのあいだ隠れればいいのだし、今まで二人で屋敷から出ることもしなかったのだから、ばれるはずがないわ」
自信ありげに言われると、納得してしまいたくなる自分がいることにイレイェンは気づいた。言われてみればそうかもしれない、と。一時でも、ふたり並んで屋敷の外から出たことがないのだ。屋敷の者でなければ、ふたりが双子であることを知っている人物はいない。一度くらい社交の場に出たところで、双子であるという秘密が露見することはないのではないだろうか。
一方でイレイェンは、妹の言葉に素直に肯けない自分がいることにも気づいた。父や妹のように、安易に考えていいのだろうか、と。行きたいという欲に取り憑かれて、そのまま呑み込めば、自分たち家族に良くないことが降りかかるのではないだろうか。言い伝えのような不幸が訪れるのではないだろう。
いつになく饒舌な妹は、イレイェンの懊悩には気づかない。気づかぬまま、さらに続ける。
「舞踏会の招待状なんて、この機会を逃したら、もう来ないかもしれない。本当は行きたいのに行かなくて、いずれ後悔するのは姉さまだわ。——行くべきよ」
サユールの雪どけ水を、頭からかけられたような気分だった。滴る水が、イレイェンの悩みを洗っていくように、気持ちが傾いた。
行きたい。人と関わってみたい。春の祭りを祝いたい。
「ソーニャは……それでいいの?」
自分の名前だけが記されている招待状。ソーニャは、いないものとして扱われている招待状。リリエーシュ伯の娘は、イレイェンとソーニャなのに、公に知られている名は、姉である自分だけ。秘された妹は、人々に知られぬまま。
わずかに残るためらいを忖度したように、ソーニャはにっこりと笑う。
「ええ。これっぽちもなんとも思わないわ。だから、楽しんできて。姉さまはマルヌーシュの麦酒が楽しみなようだけど、わたくしはお土産話を楽しみにしているわ」
妹の言葉に、知らず目尻に涙が浮かんだ。気持ちを察して、後押しをしてくれているのだろう。
イレイェンは寝台から起き上がると、寝椅子に座るソーニャをそっと抱きしめる。
「ありがとう、ソーニャ」
「おやすい御用よ、姉さま」
「臨場感あふれる話を待っててちょうだい」
「期待してるわ」
お互いの額をこつんと重ねて、笑い合った。
姿見のなかで、風が揺れていた。




