第九話 その前提、確認取れてますか
202X年八月二十六日、火曜日。大手町、幸和銀行システム部の会議室。
◆
その会議に至るまでの二週間を、悠人はほとんど大手町で過ごした。
銀行の会議室は三つ押さえてあって、一つが元請け、一つがフェーズ1、一つがフェーズ2に割り当てられていた。悠人の部屋には十四人が入り、朝九時から夜八時まで、誰かが誰かに何かを確認し続けていた。
力関係は、部屋に入って三日でわかった。
いちばん上に銀行のシステム部がいる。その下に元請けの統括がいて、彼らは実装を一行も書かない。悠人の会社を含む二次請けが三社、実際に設計と製造をする。パートナー企業は、そのさらに下に位置づけられていた。
ただし、この現場には一つだけ例外があった。
柏木遥が、その例外だった。
彼女はパートナー企業の所属だが、前の勘定系の案件に五年いた。この銀行の業務の癖を、部屋の中で誰よりも知っている。銀行の担当課長ですら、業務要件の細かいところは彼女に確認していた。
悠人が最初にそれに気づいたのは、八月の第二週だった。仕様の解釈で二次請け同士がもめて、三十分議論して結論が出ず、誰かが「柏木さん、これどうでしたっけ」と言った。柏木は「その口座区分は、旧システムだと二番と七番が同じ扱いです。移行表の四ページ目に例外が書いてあります」と言った。それで終わった。
以来、悠人は彼女の発言だけは必ずメモを取ることにしていた。
この二週間で、彼女が発言したのは三回だった。
悠人は、ホワイトボードの前に立っていた。
「口座残高の更新処理について、方式の見直しを提案します」
部屋には十四人いた。銀行側のシステム部が五人、元請けのSIerが三人、悠人の会社が二人、パートナー企業が四人。四社の名刺が机の上に並んでいる。
「現行案では、更新の際に口座単位でロックを取り、他の処理を待たせます。整合性は最も高い。ただし、この方式で組むと、実装とテストにあと二週間かかります」
悠人はマーカーで四角を二つ描いた。
「代替案として、更新前に版番号を確認して、変わっていなければ書き込む方式があります。ロックを取らないぶん、実装は五日で済みます。前提として、同一口座への同時更新が業務時間帯に発生しないことが必要です」
誰も何も言わなかった。銀行側の担当課長が腕を組んで、ホワイトボードを見ている。
悠人は言葉を続けた。喉が渇いていた。
「フェーズ2の遅れはすでに九日です。この二週間を吸収する方法は、現時点でこれ以外にありません」
「相葉さん」
声が上がった。パートナー企業の側だった。
柏木遥。三十代前半の、口数の少ないプロジェクトマネージャーだった。この二週間、彼女が発言したのを悠人は三回しか聞いていない。
「その前提、確認取れてますか」
悠人は彼女を見た。
「どの前提でしょうか」
「同一口座に同時更新が来ない、という前提です。給与振込の一括処理と、窓口からの入金が同じ口座に同時に走る可能性は、業務側に確認しましたか」
会議室が静かになった。
悠人は一瞬、答えを探した。確認していなかった。設計書のレビューで自分が引いた線であり、そこまでは自分の頭で詰めたが、業務部門への照会はまだ出していない。
「確認します」と彼は言った。「今週中に、業務要件の照会票を出します」
柏木は頷いた。それ以上は言わなかった。
銀行側の課長が口を開いた。
「方式は代替案でお願いします。日程が優先です。確認は並行でお願いします」
議事録の担当者がキーボードを叩いた。悠人はホワイトボードの四角を消した。
◆
会議が終わって、廊下に出たところで、柏木が横に並んだ。
「相葉さん」
「はい」
「さっきの方式、私は反対じゃないです」
悠人は少し驚いて、彼女を見た。
「反対だと思っていました」
「方式は合理的です。あの日程なら、私も同じ提案をします」
柏木はエレベーターのボタンを押した。
「私が気になったのは、方式じゃなくて、前提のほうです」
「同一口座の同時更新ですね」
「はい。あれ、旧システムでは起きてました」
悠人の足が止まった。
「起きて、いたんですか」
「月に二、三件です。給与振込の一括処理が遅れた日に、窓口が開いてしまう。運用でカバーしてました。銀行のシステム部は、たぶん覚えてないと思います。担当が二回替わってるので」
エレベーターが来た。柏木は先に乗って、扉を押さえた。
「だから、業務部門に聞いてください。システム部じゃなくて、事務統括の人に。あそこの、たしか山根さんという方が長いはずです」
「わかりました。照会票を出します」
「お願いします」
箱の中で、二人はしばらく黙っていた。
悠人はメモ帳を開いて、「事務統括/山根」と書いた。
書いたことで、彼はそれが済んだような気になった。
人はときどき、書くことと出すことを混同する。
◆
八月二十七日、水曜日。
悠人は朝一番で、フェーズ2の工程を引き直した。
実装五日、単体テスト三日、結合の一部を前倒し。ロックを取らない方式にしたことで、二週間ぶんの余裕が生まれた。生まれた余裕を、彼はそのまま遅延の穴埋めに充てた。
紙の上では、日程が戻った。
九日の遅れが、二日になった。
彼は工程表を沢渡に送り、沢渡は「わかった」とだけ返した。元請けの統括にも共有され、その日の夕方の定例で「フェーズ2、回復基調」と読み上げられた。
部屋の中で、悠人は少しだけ息をついた。
三ヶ月ぶりに、彼は数字の上で勝っていた。
その日の夜、彼は自席でテキストエディタを開いた。事務統括部宛の照会票の下書きを、書き始めた。
一行目に宛先。二行目に件名。三行目に、確認したい内容の書き出し。
そこまで書いて、彼は手を止めた。
次に書くのは、こういう文章になるはずだった。
「現行システムにおいて、同一口座に対する同時更新が業務時間帯に発生した事例の有無をご教示ください」
彼はその一文を、頭の中で三度読んだ。
読みながら、返ってくる答えを想像した。
柏木は「月に二、三件は起きていた」と言った。彼女の記憶が正しければ、答えは「ある」だ。「ある」と返ってきたら、この方式は使えない。使えなければ、二週間が戻ってくる。今朝、二日にまで縮めた遅れが、また十六日に戻る。
悠人はキーボードから手を離した。
自分が今、何をためらっているのかは、はっきりわかっていた。
わかっていて、彼は「明日にしよう」と考えた。
明日にすれば、状況が変わるわけではない。ただ、明日の自分に判断を渡すと、今日の自分は判断しなくて済む。
その瞬間、モニタの端に通知が出た。テスト環境のジョブが落ちていた。
彼はエディタを閉じて、ログを見に行った。
閉じたとき、少しほっとしたのを、悠人は自分で自覚していた。
◆
照会票は出さなかった。
正確には、下書きを作った。八月二十八日の夜、二十三時過ぎに、悠人はテキストエディタを開いて、業務部門宛の質問文を三行書いた。書いている途中で、テスト環境のジョブが落ちたという通知が来た。彼はエディタを閉じて、ログを見に行った。
翌日、先方から新しい仕様変更が二十七件届いた。画面のボタンの位置が四件、帳票の項目が十九件、そして残りの四件は、悠人のフェーズの処理順序を根本から変えるものだった。
彼はチームの八人を集めて、影響範囲の洗い出しを指示した。丸二日かかった。
その二日のあいだに、照会票のことは彼の頭から抜け落ちた。




