第十話 二十七件
202X年八月二十九日、金曜日。九時十分。
仕様変更の一覧が届いたのは、朝のメールだった。
件名は「【幸和銀行】追加要件のご連絡(8/29版)」。添付の表計算ファイルを開いて、悠人は行数を数えた。
二十七件あった。
彼は最初の五分で、それを三つに分けた。
画面のボタンの位置が四件。これは影響が小さい。帳票の項目が十九件。数は多いが、出力の定義を直すだけで済む。
残りの四件。
悠人は四件目まで読んで、椅子から立ち上がった。
「三隅。堀川さん。尾形さん。会議室行きます」
◆
小会議室のホワイトボードに、悠人は四つの箱を描いた。
「口座の登録から利用開始までの処理順序が変わります。今の設計は、登録と与信チェックを同時に走らせて、両方通ったら開始。変更後は、与信チェックを先に完了させてから登録に入ります」
「なんでですか」と堀川が言った。「同時のほうが速いですよね」
「速い。だが、監督官庁の指針が変わったらしい。先方の法務からの要請です」
「らしい、って」
「今、確認中です」
堀川が肩をすくめた。
「相葉さん、それ、うちのフェーズの心臓ですよ」
「知ってます」
「今から直すと、設計書が何枚死にます?」
悠人は資料をめくった。前の晩に数えてある。
「三十一枚。うち完成が十八枚、レビュー済みが九枚」
部屋が静かになった。
尾形が初めて口を開いた。
「相葉さん。俺、指示にないことはやらん主義だから聞くけど、これ、断れないの」
「断れません」
「断らない理由は」
「稼働日が動かないからです」
尾形は「ふうん」と言って、腕を組んだ。
「まあ、そうだろうな」
悠人はマーカーを置いた。
「影響範囲の洗い出しを、今日中にやります。三隅は帳票の十九件、堀川さんは画面の四件、尾形さんは処理順序の上流、私が下流。十八時に集まって突き合わせます」
「今日中?」堀川が声を上げた。「今日、金曜ですよ」
「だから今日中です。土日で先方が動かないうちに、月曜の朝一で影響と工数を返します。返さないと、先方は『できる範囲』だと思ったまま週明けを迎えます」
三隅が手を挙げた。
「相葉さん。僕、帳票の定義書がどこにあるか、まだわかってないです」
「共有フォルダの、設計/03_帳票の下です。旧版と新版があります。新版だけ見てください」
「はい」
「三隅」
「はい」
「わからないところは、想像で埋めずに、赤で残してください。あとで私が見ます」
三隅はメモを取って、走っていった。
◆
その日、悠人が最後に会社を出たのは翌朝の四時だった。
十八時の突き合わせで、影響範囲が想定の一・四倍あることがわかった。二十時に工数を積み直し、二十二時に沢渡へ一次報告を出し、二十三時に沢渡から電話が来た。
「相葉。この数字、そのまま出すのか」
「出します」
「出したら、フェーズ2が三週間延びる。全体の稼働に響く」
「響きます」
「元請けは受けないぞ」
「受けないと言われたら、こちらは受けられませんと返します」
電話の向こうで、沢渡が長く息を吐いた。
「相葉。おまえの言ってることは正しい」
「はい」
「正しいことを、正しいまま通せる現場だと思うか」
悠人は答えなかった。
「月曜の朝、俺も出る」沢渡は言った。「数字は変えるな。ただ、出し方は俺に任せろ」
「わかりました」
電話が切れたあと、悠人はフロアを見回した。
三隅がまだいた。尾形は二十一時に帰った。堀川は二十三時に「明日やります」と言って帰った。どちらも正しい。
「三隅。帰れ」
「もう終わります。あと二枚です」
「二枚は明日でいい」
「明日やると、明日が二枚ぶん減ります」
悠人は少し黙った。
「……そうだな」
「相葉さん、コーヒー飲みます? 下のコンビニ、まだ開いてます」
「いい」
三隅は行って、二本買ってきた。悠人の机に一本置いて、自分の席に戻った。
◆
八月三十日、土曜日。十一時。
悠人は会社にいた。無人のフロアで、エアコンだけが動いていた。
昼過ぎ、スマートフォンが震えた。
『先輩、生きてますか』
葵からだった。
悠人は画面を見た。返信の文面を考えた。考えているうちに、テスト環境から自動送信されたエラー通知が三件、上に積み上がった。
彼は葵のトーク画面に戻って、打った。
『生きてる』
送信した。
送信してから、これでは足りない、と思った。
何かもう一行、と考えた。考えて、五秒くらい指を止めて、それから打った。
『今週は会社にいる。落ち着いたら連絡する』
これも足りない、と思った。だが、何を足せばいいのかがわからなかった。
彼が本当は書きたかったのは、こういうことだった。今、俺は五日で二週間を取り戻す方法を決めて、それが正しいかどうかを確かめる時間を持っていない。確かめないまま進むのが怖い。だが立ち止まると、八人が止まる。
その文章を、彼は頭の中で一度組み立てた。組み立てて、長すぎると思った。
長すぎる説明は、相手の時間を奪う。それが彼の職業上の作法だった。
彼は画面を消して、モニタに向き直った。
既読はすぐについた。返信は、三十分後に来た。
『わかりました。無理しないでください』
その七文字を、悠人は読んだ。読んで、いい返事だと思った。
彼はそのとき、葵がその七文字を打つのに何分かけたかを、考えなかった。
◆
九月三日、水曜日の朝。
悠人は五時に起きた。眠ったのは二時なので、三時間だった。
シャワーを浴びて、髭を剃って、家を出た。始発から二本目の電車は空いていて、彼は座って、膝の上でノートパソコンを開いた。
乗車時間は二十二分ある。二十二分で、レビュー依頼のメールを三本書いた。
虎ノ門に着いて、コンビニでおにぎりを二つ買った。一つを歩きながら食べて、もう一つは机の上に置いた。置いたまま、その日は食べなかった。
六時四十分にフロアに着いて、彼はその日いちばん最初に電気をつけた。
誰もいないフロアで、悠人はモニタの電源を入れた。
起動を待つあいだの二十秒、彼は何も考えなかった。
考えないでいられる時間が、一日でそこしかないことに、彼は気づいていなかった。
八月三十一日、日曜日。二十一時。
悠人はテキストエディタを開いた。
三行の下書きが残っていた。
『事務統括部 山根様
次期基幹系システムの口座残高更新処理につきまして、以下ご確認いただきたく』
三行目の途中で切れている。八月二十八日の夜に、ここまで書いた。
悠人は四行目を書こうとした。
書こうとしたところで、月曜の朝一に出す影響範囲の資料に、まだ表紙がないことを思い出した。表紙がないと、元請けの統括は中身を読まない。彼は何度もそれを見ている。
彼はエディタを最小化して、資料作成用のソフトを開いた。
表紙を作るのに、十二分かかった。作り終わったとき、二十二時になっていた。
最小化したエディタは、画面のいちばん下に、小さなアイコンになって残った。
悠人がそれをもう一度開くのは、九月二十六日のことになる。
◆
九月二日、火曜日。
月曜の朝に出した影響範囲の資料は、沢渡が別の形にして出した。
工数の数字は変えなかった。代わりに、影響を「必須対応」「次期対応可」「先方判断」の三つに分けた。分けたのは沢渡で、分け方の根拠は悠人が書いた。
結果として、必須対応は全体の四割に減った。残りは先方の判断に投げられた。
定例のあと、廊下で堀川が言った。
「相葉さん、あれ、うまいですね」
「課長がやりました」
「でも中身は相葉さんでしょう」
「中身は誰でも同じです。並べ方が違うだけです」
堀川は「そこが一番でかいんですけどね」と言って、笑った。
尾形が横を通りながら、短く言った。
「相葉さん。あんた、ちゃんと寝てるか」
「寝てます」
「嘘つくのは自由だけどな、あんたが倒れると俺の仕事が増える」
尾形はそれだけ言って、行ってしまった。
悠人はその背中を見送った。指示にないことはやらない人が、指示にないことを言っていった。




