第十一話 九月一日
202X年九月一日、月曜日。十四時二十分。
テスト環境のデータベースが壊れた。
最初の兆候は十四時二十分だった。夜間バッチの結果を検証していた三隅が、「相葉さん、テーブルが見えないです」と言った。
悠人が確認すると、確かに見えなかった。三つのテーブルが、存在しないことになっていた。
十四時四十分、原因の見当がついた。前日に流したデータ移行のスクリプトが、想定外の順序で走って、一部のテーブルを落としていた。落としたのは移行の手順書どおりの動作で、手順書のほうが間違っていた。
手順書を書いたのは、悠人だった。
「相葉さん、僕が確認すべきでした」と三隅が言った。
「違う。書いたのは俺だ」
「でも、レビューしたのは僕です」
「三隅。責任の取り合いは、あとにしよう。今はリストアだ」
バックアップは前日の二十三時のものがあった。戻せば、その日の作業が一日ぶん消える。消えるが、戻る。
十五時十分、リストアを開始した。所要時間は二時間から四時間と表示された。表示は当てにならない。
悠人は待った。
待つあいだ、彼は復旧後にやるべきことのリストを作った。整合性チェック、再投入、影響を受けた検証項目の洗い出し。三十七項目になった。
十七時、リストアの進捗は四十一パーセントだった。
十八時、六十三パーセント。
十九時、八十四パーセント。
悠人は自分のスマートフォンを一度も見なかった。
◆
二十時十四分。
悠人は自席で、スマートフォンの画面を見ていた。
『今日、十九時に恵比寿でしたよね?』
葵からのメッセージだった。三時間前に届いていた。
悠人は椅子の背に体重を預けた。約束していた。確かに、先週の水曜に、九月一日の夜に食事に行くと決めた。カレンダーにも入れた。今日の午後、テスト環境のデータベースが壊れて、復旧作業が始まったとき、彼はそれを見ていなかった。
彼は電話をかけた。三コールで葵が出た。
「もしもし」
「すまん。今日、行けない」
一拍あった。
「……はい」
「テスト環境のDBが落ちて、復旧してる。今、リストア待ちで、終わるのが何時になるかわからない」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ。データは戻る。バックアップは取ってある。ただ、戻したあとに整合性チェックをかけないと、次の工程に進めない」
「……そうですか」
「本当にすまん。埋め合わせる」
また一拍あった。今度は先ほどより長かった。
「先輩」
「うん」
「今、どこにいるんですか」
「会社」
「ごはん、食べました?」
悠人は机の上を見た。ペットボトルが三本と、開いていないゼリー飲料が一つ乗っていた。
「食べる」
「食べてないですね」
「これから食べる」
葵が小さく笑った気配がした。だがその笑い方は、井の頭公園のときのものとは違っていた。
「わかりました。無理しないでください」
「ああ」
通話が切れた。
悠人はスマートフォンを机に置いた。十秒ほど、それを見ていた。
何かを言い忘れた気がした。何を言い忘れたのかがわからなかった。事実は全部伝えた。行けない理由も、いつ終わるかわからないことも、埋め合わせることも。伝えるべき情報に漏れはなかった。
◆
その日の午後三時、悠人は沢渡に呼ばれた。
場所は前と同じ会議ブースだった。沢渡は座らずに、立ったまま言った。
「相葉。先週の数字、元請けが半分に削って上に出した」
悠人は動きを止めた。
「三週間が、一・五週間になってます」
「なった」
「それは、無理です」
「無理だと言ってきた。向こうは『相葉さんの見積りは慎重すぎる』と言っている」
「慎重ではありません。実測です」
「知ってる」
沢渡は天井を見た。
「相葉。今日から、進捗が芳しくないという扱いになる。上にはそう報告が上がる。おまえのせいじゃない。だが、おまえのところに来る」
「わかりました」
「一つだけ言っておく。ここから先、おまえは削られる側だ。削られる側は、削れるものを自分で探しに行く癖がつく。それが一番危ない」
悠人は顔を上げた。
「課長」
「なんだ」
「削れるものの中に、確認の工数が入っていたら、どうすればいいですか」
沢渡は少しのあいだ、悠人を見た。
「入れるな」
「はい」
沢渡はブースを出ていった。
悠人は椅子に座ったまま、その質問を自分でした理由を考えた。答えは、もう自分の中にあった。彼はすでに一つ、確認を後ろに送っている。
彼が伝えなかったのは、今日の午後三時に沢渡課長から「進捗が芳しくない」と言われたことだった。それを言うと、心配をかけると思った。
三十分後、リストアが終わった。悠人は整合性チェックのスクリプトを回した。エラーが四十七件出た。彼は一件ずつ潰し始めた。
二十二時を過ぎたころ、三隅がまだ残っているのに気づいた。
「三隅。帰れ」
「相葉さんが帰ったら帰ります」
「命令だ」
「じゃあ、命令として聞きます」三隅はモニタを見たまま言った。「相葉さん、今週、何時間寝てます?」
悠人は答えなかった。
「僕、この現場に来る前、前の案件で先輩が一人倒れたんですよ」三隅は続けた。「その人、倒れる三日前まで、誰にも『きつい』って言わなかったです。言ったのは、救急車の中でした」
「三隅」
「はい」
「帰れ」
「はい」
三隅は鞄を持って立ち上がった。エレベーターホールのほうへ行きかけて、振り返った。
「相葉さん。きつかったら、きついって言っていいですからね。僕、聞きますよ」
悠人は「わかった」と言った。言ったが、そのとき彼が考えていたのは、四十七件のエラーのうち十九件が同じ原因かもしれない、ということだった。
◆
二十二時四十分、四十七件のエラーのうち二十九件が片づいた。
残り十八件のうち、十六件は同じ原因だった。データの投入順序を一箇所直せば、まとめて消える。
悠人はその一行を直して、再実行のボタンを押した。
処理が走っているあいだ、彼は椅子に深く座って、天井を見た。
天井の蛍光灯が、一本だけ切れかけていて、二秒に一度ちらついている。三ヶ月前からそうだ。誰も総務に言わない。言わないまま、全員が慣れた。
彼は目を閉じた。
閉じた瞬間、恵比寿の店の前に立っている葵の姿が、勝手に浮かんだ。
浮かんでから、そんなはずはない、と思った。連絡を入れたのは二十時過ぎで、彼女は「大丈夫ですよ」と言った。十九時に店の前まで来ていたなら、そう言うはずだ。
言うはずだ、と彼は思った。
その「はずだ」が、どこから来ているのかを、彼は検証しなかった。仕様の前提なら三度確認する男が、人については一度も確認しなかった。
再実行が終わった。エラーは二件に減っていた。
二十三時を過ぎたころ、柏木遥がフロアを通りかかった。彼女も残っていた。
「相葉さん、まだですか」
「あと少しです」
「少しじゃないでしょう」
柏木は自販機で買ったらしい缶コーヒーを、悠人の机に置いた。
「これ、経費で落としてないので、気にしないでください」
「……すみません」
「照会票、出しました?」
悠人の手が止まった。
「まだです」
柏木は黙って悠人を見ていた。
「出したほうがいいですよ」
彼女はそう言って、自分の席に戻っていった。
悠人はエディタを開いた。三行書いてあった下書きが、そのまま残っていた。
◆
九月二日、火曜日。
昼休み、悠人は社員食堂に降りた。
降りたのは五日ぶりだった。券売機の前で、彼はしばらくボタンを見ていた。何が食べたいかがわからず、いちばん左上を押した。
窓際の席で、日替わりの生姜焼きを食べた。味は普通だった。
半分ほど食べたところで、スマートフォンを出した。
昨夜の葵とのやりとりを、上から読み返した。
『今日、十九時に恵比寿でしたよね?』
その一行を、彼は今になってもう一度読んだ。
「でしたよね」という語尾に、彼は初めて引っかかった。
確認の語尾ではない。確認なら「ですよね」でいい。「でした」は過去だ。過ぎたことについて聞いている。
つまり彼女は、その時点でもう、今日は流れたと判断していた。判断したうえで、それでも一度、確かめてきた。
悠人は箸を置いた。
三時間前に届いていたメッセージだ。三時間、彼はそれに気づかなかった。
彼はトーク画面を開いて、打った。
『昨日は本当に悪かった。今度、必ず時間を作る』
送信した。
既読は、十二分後についた。返事は来なかった。
悠人はそれを、忙しいのだろうと解釈した。実際、平日の昼だった。彼女も働いている。
解釈としては妥当だった。妥当な解釈が、いつも正しいわけではない。
四行目を書こうとして、モニタの端に赤いアラートが出た。彼はエディタを閉じた。




