第十二話 待つ側
202X年九月三日、水曜日。二十二時。
葵は風呂上がりの髪を乾かしている途中で、電話に出た。
ドライヤーを止めると、部屋が急に静かになった。スマートフォンの向こうから、かすかに反響のある音が聞こえた。階段か、廊下か、とにかく人のいない場所だった。
「もしもし」
「藤井。この前は悪かった」
「大丈夫ですよ」
葵は自分の声が、必要以上に明るく出たのがわかった。
この前、というのは一昨日のことだった。九月一日、恵比寿で十九時。一時間半近く経ってから電話が来て、行けないと言われた。待っていたわけではない、と自分に言い聞かせていたが、実際は十九時に店の前に立っていた。三十分待って、店に入らずに帰った。
「仕事、どうだ」
「うーん」葵は息だけで笑った。「この前、企画会議でまた駄目でした」
「そうか」
「なんか、私、同じところをぐるぐる回ってるみたいで」
言ってから、葵は自分が何を求めてこれを言ったのかを考えた。
答えは単純だった。しんどいですね、と言ってほしかった。それだけだ。三ヶ月前、この人は井の頭公園のベンチで、それを言い直してくれた。言い直せる人だと知っている。
少し間があった。
「藤井」
「はい」
「それ、企画の切り口を変えるより、まず通す相手を変えたほうがいいかもしれない。課長に通らないなら、その上か、他部署から先に賛同を取る。順番の問題だ」
葵は、髪から手を離した。
正しい、と思った。田代が言ったことと、宮下が言ったことと、根っこは同じだった。この人は、営業部にも生産管理にも会ったことがないのに、二分で同じ場所にたどり着いている。
正しかった。
正しくて、そして、何も温まらなかった。
「……そうですね」
「参考になったか」
「はい。ありがとうございます」
自分の声が、平たいのがわかった。
悠人は気づかなかった。気づかないまま、「じゃあ、また連絡する」と言った。
「はい。おやすみなさい」
通話が切れた。
葵はスマートフォンをベッドの上に置いた。濡れた髪が首筋に張りついていて、冷たかった。
あの人は疲れている。声でわかった。非常階段か、それに似た場所から、わざわざかけてきた。それだけの余裕を作って、かけてきた。
わかっている。
わかっているのに、通話が切れたあとに残ったのは、感謝ではなく、置いていかれた感じだった。
葵はドライヤーを持ち直して、電源を入れた。音が部屋を埋めた。
◆
九月四日から十日までの一週間で、葵は悠人に四回、連絡をした。
木曜。『お疲れさまです。今週はどうですか』── 返信は翌日の朝、『まだ山の中だ』。
土曜。『今日、少しだけでも会えませんか』── 返信は夜、『すまん。会社にいる』。
月曜。『来週の土日、どこか空いてますか』── 返信は火曜の未明、『たぶん無理だ』。
水曜。『体だけは壊さないでくださいね』── 返信は水曜の夜、『ありがとう』。
四回とも、返事は来た。来ない日はなかった。
それが、いちばんきつかった。
完全に無視されているなら、腹を立てられる。腹を立てて、こちらから距離を取ることができる。だが返事は必ず来る。短いが、来る。だから彼女は待ち続けることになる。
金曜の夜、一ノ瀬に飲みに誘われて、断った。断ってから、なぜ断ったのかを考えた。誘われた時間が二十時で、その時間なら悠人から連絡が来るかもしれないと思ったからだった。
自分の一週間が、他人の返信の時間割で組み立てられていることに、葵は気づいた。
気づいて、嫌になった。
◆
九月十日、水曜日。二十三時。
葵は、悠人からの『ありがとう』という四文字を、ベッドの中で見ていた。
その日の夜に送った『体だけは壊さないでくださいね』への返事だった。
四文字。
彼女はその四文字を悪く取らないようにする方法を、いくつか知っていた。忙しいから短いのだ。短いのは冷たさではない。この人はもともと言葉が少ない。全部そのとおりだ。
そのとおりだと自分に言い聞かせる作業を、この二週間で、何度やっただろう。
葵は寝返りを打った。
問題は、悠人が冷たいかどうかではなかった。
問題は、自分が毎晩、他人の四文字の意味を測る側にいることだった。測る側にいると、人は少しずつ小さくなる。三年前の智也との最後の一年も、同じ形をしていた。
同じ形をしている、と気づいた瞬間、彼女は少し怖くなった。
三年前、彼女は待つ側で終わった。
今度も、待つ側で終わるのだろうか。
葵は起き上がって、水を飲んだ。
台所の窓から、隣のマンションの明かりが見えた。二十三時なのに、まだ半分ついている。
この街には、待っている人と、待たせている人が、同じくらいいるのだろうと思った。
九月十一日、木曜日の昼休み。
葵は一ノ瀬と、会社の近くの定食屋にいた。
一ノ瀬が生姜焼きを半分食べたところで、唐突に言った。
「藤井さん。私、余計なこと言っていいですか」
「だめって言っても言うでしょ」
「言います」
一ノ瀬は箸を置いた。
「藤井さん、最近、二つの顔があります」
「二つ」
「はい。スマホ見て笑ってるときと、スマホ見て黙ってるとき。全然違う顔なんですよ。で、黙ってるほうの回数のほうが多いです」
葵は味噌汁の椀を持ったまま、動きを止めた。
「それ、どっちが本命ですか」
「一ノ瀬さん」
「あ、すみません。言い方が」
「ううん」葵は椀を置いた。「聞き方は正しいと思う」
彼女はしばらく考えた。
「たぶん、笑ってるほうが楽なだけだと思う」
「楽なほう」
「うん。返事がすぐ来るから、待たなくていいの。待たなくていいって、こんなに楽なんだって、最近わかった」
一ノ瀬は箸を持ち直して、キャベツを口に運んだ。
「藤井さん」
「うん」
「楽なほうって、大事にされてるのと違いますよね」
葵は答えなかった。
答えられなかったのではなく、答えると、その先を認めることになるからだった。
一ノ瀬もそれ以上は言わなかった。会計は割り勘で、店を出て、二人は会社に戻った。
午後、葵は倉庫に降りて、また段ボールを開けた。
三年ぶんの試作が九冊、並んでいる。生成り、深緑、藍。去年の分と、おととしの分。
葵はその九冊を、じっと見た。
どれも、悪いものではなかった。丁寧に作ってある。紙も選んである。角も丸めてある。
ただ、九冊とも、同じ質問に答えていた。三年前の自分がした質問に。
彼女は段ボールの蓋を閉じて、ガムテープを貼った。
その一週間、榊智也からは十七回連絡が来た。
葵は数えていない。あとから数えたわけでもない。ただ、返事を打つ回数が、明らかに増えていた。
智也のメッセージには、待つ時間がなかった。送れば返ってくる。返ってきたものに返せば、また返ってくる。会話が途切れない。
九月八日の夜、彼女は自分の部屋で、二つのトーク画面を並べて見た。
片方は、四回のやりとりで一画面に収まる。
片方は、指を三回滑らせても上に届かない。
葵は画面を閉じた。
閉じて、手帳を開いた。九月のページには、予定が三つしか書いていなかった。企画会議の予備日と、歯科の予約と、母の誕生日。
三ヶ月前、この手帳には「時雨」と書いた日があった。
彼女はそのページを探した。六月二十八日。青い字で、二文字だけ。
あの日、彼女は喫茶店で「動いてないです」と言った。あの人は「そうか」と言って、それ以上聞かなかった。
葵はペンを持って、九月のページに戻った。
何も書けなかった。
書けないまま、彼女はペンをキャップにしまって、手帳を閉じた。
閉じたとき、スマートフォンが震えた。
智也からだった。
『来週、ちょっと動きがあるかも。決まったら言う』




