第三部 読めなくなったページ 第十三話 証拠
九月に入って、榊智也とのやりとりは、葵の一日の骨組みのようになっていた。
朝、目が覚めて最初に開くのがそのアプリだった。昼休みに一度、帰りの電車で一度、眠る前に一度。返せば返ってくる。返ってきたものに返せば、また返ってくる。
内容は他愛のないものだった。向こうの気温、屋台で食べたもの、同僚の話。ときどき、彼が三年前の日本のことを持ち出した。葵が忘れていたことを、彼のほうが覚えていた。
九月八日の夜、彼はこう書いてきた。
『あのノート、まだ二冊目の途中。三年で二冊は少ないかな』
葵は、その一行を長いこと見ていた。
少なくない、と思った。三年で二冊なら、ほとんど毎日書いている。彼女が作ったノートを、彼は三年間、毎日開いている。
そのことを、葵は嬉しいと感じた。
嬉しいと感じたことに、後ろめたさはなかった。まだ、なかった。
◆
202X年九月十二日、金曜日。
その日、葵は定時で上がった。
金曜に定時で上がるのは、久しぶりだった。企画が止まっているあいだ、彼女の仕事は資料の整理と、既存商品の細かい改訂の対応だけになっている。忙しくはない。忙しくないことが、いちばん重かった。
帰りに、駅ビルの本屋に寄った。
文具のコーナーを一周して、他社の新商品を三つ手に取った。一つは表紙にリネンを使っていて、値段が二千円を超えていた。二つ目は、ページの端に小さな穴が開いていて、糸を通して自分で綴じ直せるようになっていた。
葵はその二つ目を、しばらく手に持っていた。
綴じ直せる、というのは面白い、と思った。思ってから、自分が最近こういう「面白い」を、何も思いついていないことに気づいた。
棚に戻して、店を出た。
二十時に部屋に着いて、シャワーを浴びて、コンビニで買ったサラダを食べた。テレビをつけて、内容を見ずに消した。
二十二時、ベッドに入った。
眠くなかった。
202X年九月十二日、金曜日。二十三時四十分。
葵は自室のベッドで、SNSを開いていた。悠人からのメッセージは、その日は一通だった。十九時に『今日も遅くなる』。それだけだった。
フィードを下に送っていく。友人の結婚式、誰かの猫、旅行先の海。
指が止まった。
知らない女性のアカウントの投稿だった。悠人がフォローしているから、おすすめとして流れてきたのだろう。
居酒屋の座敷の写真だった。八人ほどが写っている。机の上にビールのジョッキと大皿。全員が笑っている。
左から三番目に、悠人がいた。
葵は画面を拡大した。
悠人の隣に、投稿者の女性が座っていた。二人の肩が触れている。女性のほうがわずかに悠人へ体を傾けていて、悠人はカメラのほうを見ずに、彼女の方を向いて何か言っている。口が開いている。笑っている。
葵は指を離した。写真が元の大きさに戻った。
もう一度、拡大した。
キャプションには『長い一週間おつかれさまでした』と書いてあり、日付は今日だった。時刻は二十一時十二分。
葵はスマートフォンを胸の上に伏せた。天井を見た。
最後に会ったのは八月二十三日の品川で、一時間だけだった。今日で、ちょうど二十日になる。九月一日の約束は、直前に流れた。電話は二回。メッセージは、彼女が送った十六通に対して、悠人からは九通。そのうち五通が『遅くなる』だった。
その十一日のあいだに、悠人は打ち上げに行っていた。
葵は起き上がって、悠人のトーク画面を開いた。
打ち込んだ。消した。もう一度打ち込んだ。
『楽しそうだね』
送信した。
既読は、二十分後についた。返信は、その四分後だった。
『チームの打ち上げ。今はオフィスに戻ってる。このプロジェクト、本当に悪夢だ』
葵はその四十文字ほどから、目を離せなかった。
悪夢だ、と彼は書いていた。それは、彼が自分の状態を伝えようとした唯一の言葉だった。だが葵が読み取ったのは別のことだった。「今はオフィスに戻ってる」という一文が、まるで所在を報告することで話を終わらせようとしているように見えた。
『そっか。がんばってね』
そう返して、葵はアプリを閉じた。
閉じてから、もう一つのアプリを開いた。
智也からのメッセージが来ていた。
『今日、金曜だ。日本は週末だね』
葵は返事を打たなかった。その代わり、写真をもう一度見に行った。
三度目に見たとき、彼女はもう、その写真の中に何が写っているかを判断していなかった。ただ、自分がその場にいないということだけを見ていた。
◆
九月十三日、土曜日。
葵は昼まで寝て、起きてから、もう一度その写真を見た。
三度どころではなかった。数えていないが、十回は見た。
拡大して、縮小して、キャプションを読んで、投稿時刻を見て、それからコメント欄を見た。コメントは四件ついていた。三件は同じ職場の人らしく、一件は「おつかれさま〜」とだけ書いてあった。
葵はプロフィールを開いた。
鍵はかかっていなかった。投稿は八十件ほどあって、大半が仕事帰りらしい風景と、飲食店の料理だった。人が写っているものは少ない。
その少ない中に、悠人が写っているものは、この一枚だけだった。
葵はスマートフォンを伏せた。
伏せてから、自分がしていることの名前を、頭の中で言った。
これは、探している。
何を探しているのかというと、安心する材料ではなかった。安心する材料なら、もう十分にあった。集合写真で、八人写っていて、投稿は職場のアカウントで、キャプションは「長い一週間おつかれさまでした」だ。
彼女が探していたのは、傷ついていい理由のほうだった。
葵はベッドの上に座り直した。
傷ついていい理由が欲しいのは、傷ついているからだ。傷ついているのは、写真のせいではない。二十日、会っていないからだ。
だったら、それを言えばいい。
彼女はトーク画面を開いて、打ち始めた。
『先輩、私、寂しいです』
打って、見た。
消した。
重い、と思った。付き合ってもいない相手に、これは重い。
もう一度打った。
『来週、十分でもいいので会えませんか』
打って、見た。
消した。
断られるのが怖い、と思った。断られたら、この二十日に説明がついてしまう。
三度目に打ったのが、送信されたものだった。
◆
九月十四日、日曜日。
葵は一日、部屋にいた。
昼過ぎに洗濯をして、夕方に掃除機をかけて、夜に録画していた番組を三本消化した。三本とも、内容を覚えていなかった。
二十一時、智也からメッセージが来た。
『日曜だね。何してた?』
『掃除』
『えらい。僕は今日、一日ホテルのジムにいた』
『ホテル?』
『出張が多いから、平日はホテル暮らしなんだよ。今はクアラルンプール』
『大変だね』
『慣れた。でも日曜は暇。国も違うし、話し相手もいない』
葵はスマートフォンを手に持ったまま、天井を見た。
この人も一人だ、と思った。
それは事実だったが、彼女が今その事実に安心していることは、たぶん健全ではなかった。
『葵は? 今日、誰かと会った?』
葵は指を止めた。
『会ってない』
『そっか』
それ以上、智也は聞かなかった。
聞かないところが、うまい。
葵はスマートフォンを充電器に挿して、電気を消した。
翌週の月曜、昼休みに、葵は一ノ瀬にその話をした。名前は伏せて、「知り合いが」という体で。
一ノ瀬は五秒で結論を出した。
「それ、ただの職場の飲み会じゃないですか?」
「……そうだよね」
「藤井さん、その人に直接聞きました?」
「聞いた。楽しそうだねって」
「うわ」一ノ瀬が顔をしかめた。「それ、聞いてないですよ。刺してるだけです」
葵は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
一ノ瀬の言うことは正しかった。正しいということと、そう思えるということは別だった。頭では十回わかっても、夜の一時に画面を見ると、また同じところに戻ってしまう。




