第十四話 虎ノ門
九月十六日、火曜日。十六時。
葵は、直営ショールームにいた。
用があったわけではない。企画部から降りてきて、棚を見ているふりをして、三十分立っていた。
インクの棚の前だった。
常磐文具は自社で万年筆用インクを作っていない。他社のものを仕入れて置いている。棚には十二色あって、名前がついている。「若竹」「紺青」「白練」。
葵は端から順に見て、いちばん右の濃い青の前で止まった。
『夜半』。
夜の半ばで、よわ、と読む。
三ヶ月前、神保町の店で、あの人は『時雨』を選んだ。選んだというより、彼女が話した色を、そのまま手に取った。理由は説明できないけれどわかる、と言った。
葵はその瓶をレジに持っていった。
店長が「藤井さん、これ社員割引きかないですよ」と言った。
「いいです。定価で」
「珍しいですね、企画の人が自社の店で買うの」
「渡す相手がいるので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
紙袋に入れてもらって、五階に戻った。
自席で、彼女はその袋を鞄に入れた。
入れながら、これをどうやって渡すつもりなのかを、まだ考えていないことに気づいた。
郵送では、変だ。次に会ったときに、では、いつになるかわからない。
十七時、彼女は退勤の打刻をした。
地下鉄のホームで、電車を二本見送った。
三本目に乗った。
202X年九月十六日、火曜日。十八時三十分。
葵は虎ノ門にいた。
自分でも、なぜここにいるのかうまく説明できなかった。会社を早めに出て、地下鉄を乗り継いで、明栄システムデザインの入っているビルの前に立っている。鞄の中には、常磐文具の紙袋が入っていた。中身は万年筆用のインクを一瓶。『時雨』ではない、もう少し濃い青。名前は『夜半』といった。
電話をすれば済む話だった。だが電話をすると、「今どこ」と聞かれて、「近くまで来た」と答えることになる。それが重い気がした。
葵はロビーに入った。受付は無人で、内線電話が置いてあるだけだった。
受話器に手を伸ばしたとき、エレベーターの扉が開いた。
降りてきたのは、写真の女性だった。
葵の手が止まった。相手は葵に気づいて、少し会釈をして、通り過ぎようとした。それから、足を止めた。
「すみません、どちらかお訪ねですか」
近くで見ると、目の下に濃い隈があった。ジャケットの肩に皺が寄っていて、鞄が重そうだった。
「あの、相葉さんに」
「相葉さん」女性は眉を寄せた。「今、大手町です。銀行の会議室に詰めてます。今日はたぶん戻りません」
「そうですか」
「ご用件、お伝えしましょうか。私、同じ現場の柏木といいます」
葵は紙袋の持ち手を握り直した。
「いえ、大丈夫です。個人的な用事なので」
柏木は葵を見た。それから、かすかに表情を緩めた。
「失礼ですけど、相葉さんの」
葵は答えられなかった。答えられないでいると、柏木は「すみません、余計なことを」と言った。
そして、続けた。
「相葉さん、無理してます。あの人、しんどいときに一人でやろうとするので。誰かがそばにいてくれないと、持たないと思います」
葵は柏木の顔を見た。
柏木は本当にそう思って言っていた。それが葵にはわかった。目の下の隈も、皺の寄った肩も、この人が悠人と同じ時間を過ごしてきたことを示していた。同じ現場で、同じ夜を、何日も。
誰かがそばにいてくれないと。
その誰かは、この三週間、自分ではなかった。
「ありがとうございます」と葵は言った。「お伝えいただかなくて大丈夫です」
ビルを出た。九月の夜の空気が、まだ生ぬるかった。
◆
地下鉄の駅までの道で、葵は紙袋をずっと持っていた。捨てるところがなかった。
途中、コンビニの前で足を止めた。
自動ドアの光が、歩道に長方形を作っている。その光の中に立って、彼女はもう一度、ビルのほうを振り返った。
九階建ての、灰色のビル。窓の三分の一に明かりがついている。あのどこかに、あの人の机がある。今日は戻らない机が。
柏木という人は、あそこで彼と同じ夜を、何日も過ごしている。
その事実自体は、何でもない。同じ現場にいれば当然だ。
何でもないことが、こんなに効くとは思わなかった。
葵は歩き出した。
効いているのは嫉妬ではなかった。もっと単純なことだった。あの人の今の生活の中に、自分の居場所がない。柏木という人には、ある。同じ部屋にいて、同じ時刻に疲れていて、缶コーヒーを渡せる距離にいる。
自分は、三時間待って、店に入らずに帰る側だ。
駅の階段を降りながら、葵は、自分の中で何かの重心が動くのを感じた。
動いたことは、はっきりわかった。どちらへ動いたかも、わかっていた。
わかっていて、彼女は止めなかった。
◆
電車が三駅走ったところで、葵は自分の手元を見た。
左手にトートバッグ、右手に紙袋。紙袋の口が折れて、しわが寄っている。ずっと握っていたせいだった。
彼女は紙袋を膝の上に置いた。
中のインクの瓶が、車両の揺れに合わせて、かたん、と小さく鳴った。
この瓶を買ったのは、五時間前だ。五時間前の自分は、これを渡すつもりでいた。渡して、少し話して、それで元に戻れると思っていた。
戻れなかったのは、あの人が大手町にいたからではない。
葵にはわかっていた。もし今日あの人がビルにいて、下りてきて、驚いた顔をして「どうした」と言ったとしても、たぶん自分は「近くまで来たので」と言って、五分で帰っただろう。そして帰り道に、五分しかもらえなかったと思っただろう。
そういう場所に、自分は立っている。
もらえるものの量ではなく、もらえなかったものの量を数えている場所に。
葵は目を閉じた。
智也とのやりとりは、その反対だった。何ももらっていないから、数えなくて済む。期待していないから、減らない。
楽なほうって、大事にされてるのと違いますよね。
一ノ瀬の声が、耳の奥で聞こえた。
違う、と葵は思った。それは違う。
違うとわかっていることを、人はやる。
電車の中で、彼女はスマートフォンを開いた。
悠人からのメッセージが一通、未読で残っていた。十七時四十分。
葵はそれを開かなかった。
代わりに、別のアプリを開いた。
そして、自分から打った。二年半ぶりに、自分から。
『智也、次に日本に帰ってくるのっていつ?』
返事は、二分で来た。
『実は来週から。二週間、東京出張になった』
『言おうか迷ってた。会える?』
葵は電車の窓に映る自分を見た。トンネルの黒い壁が、その後ろを流れていた。
彼女は打った。
『会いたい』
送信した。
送信してから、悠人の未読のメッセージを開いた。
『今日、少しだけ声が聞きたい。時間あるか』
十七時四十分。彼女が虎ノ門に向かう電車に乗っていた時刻だった。
葵はスマートフォンを鞄に入れた。両手で顔を覆った。
その日、彼女は悠人に返事をしなかった。
◆
部屋に着いたのは、二十時半だった。
葵は鞄を床に置いて、コートも脱がずに、床に座り込んだ。
紙袋を膝に載せたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼女は袋からインクの瓶を出した。
箱を開けて、瓶を取り出した。ラベルに、濃い青の丸が印刷してある。ガラス越しに見ると、色は黒に近い。光にかざすと、青が出る。
葵はそれを、部屋の照明にかざした。
夜の半ばの色だ、と思った。名前をつけた人は、たぶんこの時間帯にこれを見た。
彼女は瓶を机の上に置いて、その横に手帳を置いた。
二つを並べて、しばらく眺めた。
この二つが並んでいる意味は、今日、なくなった。
いや、と葵は思い直した。なくしたのは自分だ。
電車の中で、彼女は自分から智也に送った。「会いたい」と送った。それは、送らされたのではない。誰にも強制されていない。悠人が忙しかったことは理由になるが、原因ではない。
彼女は瓶に蓋がついているのを確かめて、箱に戻した。箱を紙袋に入れて、机の引き出しの、いちばん下に入れた。
捨てはしなかった。
捨てないことが、その夜の彼女にできた唯一のことだった。




