第十五話 未読
202X年九月十七日、水曜日。
葵からの返事が来なかった日を、悠人は正確には認識していなかった。
九月十六日の十七時四十分に『今日、少しだけ声が聞きたい。時間あるか』と送った。既読は翌朝についた。返事はなかった。
それに気づいたのは十七日の昼で、気づいたときには、彼はもう別のことを考えていた。
その日、悠人のフェーズは並行更新処理の先行検証の準備に入っていた。本来は総合テストの中でやる工程だが、日程を詰めた結果、単体テストと並行で回すことになった。環境を二つ作り、本番相当のデータを流し込み、二つの処理を同時にぶつける。
準備に四日かかる見込みだった。実際には六日かかった。
◆
九月十八日、木曜日。
「相葉さん」
三隅が横に立っていた。時刻は二十二時を回っている。
「なんだ」
「これ、見てもらっていいですか」
三隅が出したのは、A4の紙一枚だった。手書きで、箱と矢印が描いてある。
「先行検証の、テストパターンです。僕が考えました」
悠人は受け取って、上から見た。
十八パターンあった。うち十五は妥当で、二つは冗長で、一つは──
「三隅」
「はい」
「この十四番はなんだ」
「給与振込の一括処理と、窓口入金を、同じ口座に同時に入れるやつです」
悠人の指が止まった。
「これは、起きない想定だ」
「そうなんですか」
「設計上、業務時間帯には発生しないことになってる」
「あ、そうか」三隅は頭を掻いた。「じゃあ消します」
悠人は紙を見ていた。
消せ、と言えばよかった。あるいは、残せ、と言えばよかった。
彼が言ったのは、こうだった。
「時間があったら回してくれ。優先度は低い」
「わかりました」
三隅は紙を持って戻っていった。
悠人はモニタに向き直った。その日、彼はそのことをもう思い出さなかった。
◆
九月十九日、金曜日。
柏木遥が、悠人の席の横に立った。
「相葉さん。事務統括の山根さん、来月から異動だそうです」
悠人は顔を上げた。
「そうですか」
「照会票、出しました?」
三度目だった。
悠人は口を開いて、答えを探した。
「まだです」
柏木は、今度は「出したほうがいいですよ」とは言わなかった。
彼女はしばらく悠人を見て、それから言った。
「相葉さん。私、これ以上は言いません」
悠人は柏木の顔を見た。
「言っても、出ないからです。出ないのは、相葉さんが出したくないからじゃなくて、出す順番が来ないからでしょう。私が三回言っても、順番は変わらない」
「……はい」
「順番を変えられるのは、相葉さんだけです」
柏木は自分の席に戻っていった。
悠人はその夜、エディタを開いた。
三行の下書きが残っていた。彼は四行目を書いた。書いて、五行目を書いた。宛先を入れ、件名を入れ、期限を書いた。
最後に、送信先の部署を確認しようとして、社内ポータルを開いた。
開いたところで、テスト環境から通知が来た。夜間バッチが異常終了していた。
彼は原因を追った。二時間かかった。原因は、データの投入順序の間違いで、こちらの手順ミスだった。
三時前に片づいて、彼は帰り支度をした。
エディタは開いたままだった。宛先の欄は、まだ空白だった。
◆
九月二十日、土曜日。
悠人は昼過ぎに一度だけ家に帰り、洗濯機を回して、三時間寝た。
起きて、洗濯物を干して、冷蔵庫を開けた。何も入っていなかった。
彼は部屋を見回した。
二月に引っ越してきて、七ヶ月経つ。段ボールが二つ、まだ開いていない。中身は本と、大阪で使っていた食器だった。開けなくても困らないので、開けていない。
カーテンは、入居のときに家電量販店で買った既製品のままだった。色は選ばなかった。いちばん安いものを買った。
悠人は、その灰色のカーテンをしばらく見ていた。
三百色のインクの話を、彼は思い出していた。
黒で足りるはずだ、と自分は言った。彼女は、足りるかどうかで選ばないから、と答えた。
この部屋には、足りるものしかない。
彼は冷蔵庫を閉じて、会社に戻った。
九月二十二日、月曜日。
先行検証の環境が、ようやく立ち上がった。
予定より二日遅れていた。遅れた理由は、本番相当のデータの受領が銀行側で止まっていたからで、こちらの責任ではない。ないが、日程は戻らない。
悠人は環境の構成図を、ホワイトボードに描いた。
「二系統作ります。一号機で給与振込の一括処理、二号機で窓口業務。同じデータベースを見にいく形です」
「相葉さん」堀川が手を挙げた。「これ、本番と同じ構成じゃないですよね」
「同じではありません。本番は三系統です。ただ、同時更新の挙動を見るには二系統で足ります」
「足りますか?」
「足ります。三つ目を足しても、増えるのは組み合わせの数だけです」
堀川は「ふうん」と言って、引き下がった。
尾形が資料を見ながら言った。
「相葉さん。この検証、何を確認するの」
「性能です。同時に処理が走ったときの応答時間を測ります」
「整合性は」
悠人は一瞬、答えるのが遅れた。
「整合性は、設計で担保しています」
尾形は「そう」と言って、それ以上聞かなかった。
悠人は自分の言葉を、頭の中でもう一度聞いた。
設計で担保している。それは正しい。設計書にそう書いてある。書いたのは自分だ。
書いたものが正しいかどうかは、書いた本人には確かめられない。それを確かめるために、確認という工程がある。
彼はマーカーを置いて、席に戻った。
九月二十三日、火曜日。二十三時四十分。
その夜、悠人は珍しく、日付が変わる前に会社を出た。
虎ノ門の駅までの道で、彼はスマートフォンを開いた。
葵とのトーク画面を出した。
最後のメッセージは、九月十六日の自分のものだった。『今日、少しだけ声が聞きたい。時間あるか』。既読の文字がついている。その下は空白だった。
一週間。
悠人は歩きながら、その空白を見ていた。
彼はこの一週間に三通送っている。『今週も遅くなる』『すまん』『今週も遅くなる』。全部自分から送っていて、全部返事が来ていない。
彼は初めて、それを一つの事実として認識した。
立ち止まった。
歩道の脇で、彼はしばらく画面を見ていた。何を打てばいいのかを考えた。
考えて、彼が最初に組み立てたのは、こういう文章だった。「連絡が滞っていて申し訳ない。現状を説明すると──」
それを打ちかけて、消した。
説明ではないものを打たなければならない、ということだけは、彼にもわかった。
だが、説明ではないものの書き方を、彼は知らなかった。
結局、その夜、彼は何も送らなかった。
◆
九月二十四日、水曜日。八時五十分。
その朝、悠人はいつもより早くフロアに着いた。
先行検証は前日の夜から回っている。夜間バッチの結果が、朝には出ているはずだった。
三隅が先に来ていた。
「相葉さん、おはようございます」
「結果は」
「性能は問題ないです。応答時間、目標値の六割です」
「そうか」
「あと、十四番も回しました」
悠人は資料から目を上げた。
「十四番」
「はい。優先度は低いって言われたやつです。夜、時間が余ったので」
「そうか」
「結果、まだ見てないです。午後に見ます」
悠人は「わかった」と言った。
その時点で、彼はまだ、その一言の重さを知らなかった。
午前中は、元請けとの調整に費やされた。昼をはさんで、十三時から二時間、フェーズ間の連携仕様の打ち合わせがあった。
打ち合わせから戻って、悠人が席についたのは十四時少し前だった。
その直後に、テスト担当者が振り返って言った。
「相葉さん。口座番号0034729の残高が合いません」




