第十六話 二冊目
202X年九月二十六日、金曜日。汐留。
レストランは四十一階にあった。エレベーターの中で耳が詰まって、抜けたところで扉が開いた。
案内された窓際の席から、東京の夜が全部見えた。首都高のオレンジの筋、汐留の高層ビルの窓明かり、その向こうに黒い帯があって、それが海だった。柔らかい照明が、テーブルの上のグラスの縁だけを光らせていた。
榊智也は先に来ていた。
三年ぶりの彼は、髪が短くなっていた。糊の利いたシャツの襟は、きれいに形を保っている。時計も変わり、肌は日焼けしていた。顔立ちそのものは、記憶とほとんど変わらなかった。
「久しぶり」
「久しぶり」
智也は葵の椅子を引いた。そういうことを自然にする人だった。三年前もそうだった。
最初の三十分は、驚くほど楽だった。
智也はシンガポールの話をした。屋台の話、雨季のスコールの話、日本人学校の前で毎朝渋滞ができる話。彼は話の運びがうまかった。落ちのある話を落ちの手前で一度止めて、葵が「それで?」と言うのを待つ。
葵も笑った。本当におかしかった。
この人と話すのは楽だ、と葵は思った。三年前もそうだった。彼と一緒にいるとき、彼女は自分の話し方を調整しなくてよかった。文具の話をしても、彼は「うん、うん」と聞いた。聞き方がうまいので、話しているほうは自分が面白いことを言っている気になれた。
運ばれてきた前菜の皿には、白い皿の真ん中に小さく盛り付けがされていて、周りにソースで線が引いてあった。葵はそれをしばらく見た。きれいだと思った。きれいだと思って、それから、味を覚えていないことに気づいた。
二皿目が来たころ、智也が言った。
「葵、変わってないね」
「そう?」
「うん。笑い方が同じ」
葵はグラスに手をやった。
「智也は変わったよ」
「そう?」
「なんか、ちゃんとしてる」
智也は少し笑って、それから、笑いを消した。
「葵」
「うん」
「三年前のこと、謝りたくて」
葵は顔を上げた。
智也はナイフとフォークを置いていた。窓の外を見ずに、まっすぐこちらを見ていた。
「あのとき、僕は君に、一緒に来てほしいって言わなかった」
「……うん」
「言えなかったんだ。断られるのが怖かった。葵は仕事が楽しそうだったし、あのノートの企画がちょうど動き出してた。ついてきてくれって言って、断られたら、僕は自分がその程度だって知ってしまう。それが怖くて、言わないまま行った」
智也は一度、息を吸った。
「それで、連絡がだんだん減っていったとき、僕はそれを、そういうものだって処理した。距離が離れたら自然にそうなるものだって。処理すれば、自分が何も言わなかったことを考えなくて済むから」
葵の指先が冷たくなった。
三年間、彼女は何度もあの終わり方を思い返した。どちらも悪くない終わり方だった、と自分に言い聞かせてきた。誰かが何かを言い忘れたわけではなく、ただ距離が二人を溶かしたのだと。
そうではなかった。彼は言わなかった。彼は、言わないことを選んだのだ。
そして今、それを認めている。
「なんで今、それを言うの」
「言わなかったことを、もう一回やりたくないから」
葵は窓の外を見た。ビルの明かりが揺れて見えた。
この人は本気だ、と思った。それは疑いようがなかった。三年前の彼にはできなかったことを、彼は今、やっている。
だからこそ、葵は自分の胸の中に、期待とは違うものが広がっていくのを感じた。
◆
デザートの前に、智也が鞄から何かを出した。
「これ、見せたくて」
テーブルの上に置かれたのは、布張りのノートだった。
『アーカイヴ』の二冊目。表紙の色は生成り。角が丸く擦れていて、背に薄く傷が入っている。三年間持ち歩いた本の顔をしていた。
葵は息を呑んだ。
「本当に使ってくれてたんだ」
「言ったでしょ。見る?」
「いいの?」
「葵になら」
葵はノートを手に取った。開いた。
智也の字だった。丸くて、少し右上がりの、あまり上手ではない字。三年前と同じだった。
一ページ目。日付は三年前の九月。「チャンギ着。湿度がすごい」。
葵はページをめくった。
二ページ目。「葵と初めて行った蕎麦屋の名前、思い出せない。神楽坂の坂の途中」
三ページ目。「今日、部署の飲み会。日本の話ばかりした」
四ページ目。「葵の誕生日。連絡しなかった」
五ページ目。
葵の手が止まった。
六ページ目も、七ページ目も、そうだった。
三年分のノートだった。二冊目の途中まで、およそ百ページ。そこに書かれていることの、ほとんどが日本のことだった。三年前までの日本のことだった。
シンガポールで彼が何をしたのか。誰と会ったのか。どんな仕事をして、何がうまくいって、何に腹を立てたのか。それはほとんど書かれていなかった。書かれていても一行で、次のページではまた、三年前の神楽坂の坂に戻っていた。
葵はゆっくりとノートを閉じた。
背表紙に、指が触れた。三年間、擦れて薄くなった布の感触。
このノートは、葵が作ったものだった。
「思い出を保存するためのノート」。半券を貼っても背が壊れないように、糊で膨らんでも開けるように、彼女が綴じ方を設計したノート。
彼女は、この人が三年間この中に住み続けるための箱を、自分の手で渡していた。
そして自分は、三年間、その箱の続きばかりを作っていた。
「藤井さん、あなた三年間、同じものを作ってる」
宮下課長の声が、耳の奥で聞こえた。
「葵?」
智也が覗き込んでいた。
「あ、ごめん。ありがとう」
葵はノートを彼のほうへ押し戻した。手が震えているのが自分でわかった。
「智也」
「うん」
「今、仕事、どう」
「順調だよ。今の部署に移ってからは、数字も出てる」
「どんな仕事?」
「ん?」智也は少し笑った。「話しても面白くないよ。金の流れを見てるだけだから」
「聞きたい」
智也は一瞬、言葉を探すような顔をした。それから、また笑った。
「いいって。それより、葵の話が聞きたい。仕事は?」
葵はグラスを置いた。
「あんまり、うまくいってない。三年間、同じ企画ばっかり出してて、この前、課長にそう言われた」
「そんなことないよ」智也は即座に言った。「葵は昔からセンスあるから。焦らなくていいって」
葵は彼を見た。
彼は本気でそう言っていた。慰めるつもりで、励ますつもりで、言っていた。そこに嘘はなかった。
ただ、彼は「どんな企画なの」とは聞かなかった。
三ヶ月前、井の頭公園のベンチで、汗だくの男が言ったことを、葵は思い出していた。
──その三年前の商品は、なんで当たったんだ。当たった理由がわかってれば、次に何を変えればいいかも決まる。
あのとき、葵はそれを冷たいと感じた。共感してほしかったのに、と思った。
今わかった。あの人は、彼女の問題を見ていた。中身を見ないと出てこない質問をしていた。言い方は下手で、順番も間違えていて、そのあと「言い直す」と言って全部やり直した。
「葵、大丈夫?」
智也が心配そうにこちらを見ている。
葵は窓の外に目を移した。
完璧な夜景だった。四十一階から見る東京は、どの明かりも小さくて、どれ一つ音を立てなかった。宝石を敷き詰めたようだと思った。三年前の自分なら、この景色を、幸せの形そのものだと思っただろう。
葵は、今まで感じたことのないほどの孤独を感じた。
この景色の中に、生きている人間が一人もいない。ただの光だった。ここには汗も、湿度も、笑いすぎて漕ぐのをやめたスワンボートも、ない。
「ごめん」葵は立ち上がった。「ちょっと、外の空気を吸ってくる」
「え、あ、うん」
智也が何か言いかけたが、葵はもう歩き出していた。
エレベーターのボタンを押す手が、まだ震えていた。四十一階から一階までの数字が、ゆっくり減っていった。
一階に着いてエントランスを抜けたとき、外は激しい雨だった。




