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雨上がりのプレリュード  作者: 久遠 睦


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第十七話 根本原因

時間を、二日戻す。


 202X年九月二十四日、水曜日。十四時。


「差分は」


「四十七万八千円。入金が一件、消えてます」


 悠人は自席から立ち上がって、テスト担当者の後ろに立った。画面を見た。


 最初は、テストデータの作り方の問題だと思った。二時間後、そうではないとわかった。四時間後、同じ現象が他の口座でも三件見つかった。


 条件はすべて同じだった。給与振込の一括処理が走っている最中に、窓口からの入金が同じ口座に来る。二つの処理が同時に残高を読んで、それぞれ自分の計算結果を書き込む。後から書いたほうが勝つ。先に書かれた入金は、記録上、存在しなかったことになる。


 悠人は、そのデータがどこから来たのかを確かめた。


 前夜のバッチで流れた検証パターンの、十四番だった。三隅が「時間が余ったので」と言って回した、優先度の低いパターン。


 起きない想定のものが、起きていた。


 その日、悠人は帰らなかった。


 二十三時、三隅が横に立った。


「相葉さん。これ、テストデータの不備じゃないですよね」


「違う」


「じゃあ」


「設計だ」悠人は画面から目を離さずに言った。「どこかは、まだわからない」


 三隅はしばらく黙っていた。それから、自分の席に戻って、椅子を引きずってきて、悠人の隣に座った。


「僕も見ます」


「帰れと言ったはずだ」


「この前、命令は聞きました。今日はまだ聞いてません」


 二人は朝までログを見た。


◆


 202X年九月二十六日、金曜日。十七時。


 オフィスの空気が淀んでいた。誰かが朝に淹れて放置したコーヒーの、酸っぱくなったにおいがする。エアコンが効きすぎていて、悠人の指先は冷たかった。


 彼は四十八時間、家に帰っていなかった。


 モニタには、六百行のログが表示されていた。悠人はそれを、上から下まで、四回読んだ。


 そして、五回目の途中で、見つけた。


 処理が残高を読む瞬間と、書き込む瞬間の間に、〇・〇三秒の隙間がある。その隙間に、もう一つの処理が入ってくる。版番号を確認する仕組みは入っている。だがその確認自体が、隙間の外側で行われていた。


 悠人は椅子の背にもたれた。


 周りの音が遠くなった。フロアの誰かが電話をしている声、キーボードの音、空調の唸り。それらが薄い膜の向こうに行った。頭の中には、六百行のログと、設計書のページと、〇・〇三秒だけがあった。


 久しぶりの感覚だった。二十四歳のころ、彼はよくこの状態になった。世界がコードだけになって、余計なものが全部落ちる。この状態のとき、彼はいつもより速く、正確だった。


 彼は設計書を開いた。該当箇所を探した。


 三ページ目にあった。


 「同一口座への同時更新は業務時間帯に発生しないものとする」


 その一行の横に、彼自身の判子が押してあった。日付は八月二十六日。


 悠人は、その一行から目を離せなかった。


 膜が破れた。音が戻ってきた。


 八月二十六日、大手町の会議室。ホワイトボードに四角を二つ描いて、二週間を五日に縮める代替案を説明した。柏木遥が手を挙げた。「その前提、確認取れてますか」。彼は「今週中に照会票を出します」と言った。


 出さなかった。


 三行の下書きが、まだテキストエディタの中に残っている。四行目を書こうとした夜、赤いアラートが出て、彼はエディタを閉じた。


 悠人は両手で顔を覆った。


 誰のせいでもなかった。スケジュールのせいでも、仕様変更二十七件のせいでも、稼働日を先に決めた役員会のせいでもなかった。彼は自分で前提を置き、自分で確認すると言い、自分で確認しなかった。


 彼はゆっくり手を下ろして、内線を取った。


「課長。相葉です。原因が出ました。設計に起因します。私の判断です」


◆


 十九時二十分。会議室。


 沢渡課長は、悠人の書いた一枚の紙を三分かけて読んだ。読み終わってから、天井を見上げた。


「客先には、俺が説明する」


「私も出ます」


「出なくていい」


「出ます」


 沢渡は視線を戻した。


「相葉。これは、本番稼働したら客の預金残高が壊れる事故だ。壊れたあとに気づくパターンだ。テストで出たのは幸運だが、幸運だったで済ませてもらえる話でもない」


「はい」


「稼働は延びる。最短で二ヶ月。それでも先方が納得するかはわからん」


「はい」


 沢渡は紙を机に置いた。


「フェーズ2のリーダーは、今日付けで外す。来週から俺が直接見る。おまえは、この修正だけをやれ」


 悠人は膝の上で手を握った。


「わかりました」


「不服か」


「いえ」悠人は顔を上げた。「妥当です」


 沢渡は少し黙ってから、椅子を引いて立ち上がった。


「相葉。一つだけ言っておく。おまえがやったのは、設計判断のミスじゃない。判断はしていい。判断したあとで、確認しなかったのがミスだ。そこは分けて覚えとけ」


 沢渡は会議室を出ていった。


 悠人は、すぐには椅子から立てなかった。


 紙が一枚、机の上にあった。彼は自分の名前が印刷された欄を見ていた。


 修正案はもう頭の中にできていた。実装は五日、テストを含めて三週間。技術的には、これは解ける問題だった。彼は解き方を知っていた。


 解けなかったものが、もう一つある。


◆


 フロアに戻ると、柏木遥がコートを着ているところだった。


「相葉さん」


「柏木さん。ご迷惑をおかけしました」


「聞きました」柏木は鞄を肩にかけた。「あの日、私、もっとしつこく言えばよかったです」


「いえ。あなたは言いました。二回」


 柏木は少し黙った。それから、思い出したように言った。


「そういえば、先週の火曜、ロビーに女性の方が来てましたよ」


 悠人は動きを止めた。


「私に?」


「相葉さんに、個人的な用事だと。紙袋を持ってらっしゃいました。うちの受付、無人だから、たまたま私が下りてきて」


「……いつですか」


「十六日の、十八時半くらい」


 悠人は自分のスマートフォンを取り出した。九月十六日。十七時四十分に、彼は葵に『今日、少しだけ声が聞きたい。時間あるか』と送っていた。


 既読は、翌日の朝についていた。返事は来なかった。


 そのあと十日間、彼は葵に三通しか送っていない。すべて『遅くなる』だった。


「相葉さん」柏木が言った。「私、余計なことを言ったかもしれません。あの方に、あなたが無理してるって」


「……それは」


「言うべきだったのは、私じゃなかったですね」


 柏木はエレベーターのほうへ歩いていった。


 悠人はスマートフォンを見た。時刻は二十時四十六分。


 彼は葵に電話をかけた。


 六コール。七コール。


 繋がった。


「もしもし」


 背景に、水の音がした。強い雨の音だった。


「藤井。今、どこにいる」


 間があった。


「……汐留です」


 悠人は歩き出していた。


「そこにいてくれ。今から行く」


「先輩、私」


「頼む」


 電話を切って、彼は自分の椅子の背からコートを掴んだ。


 エレベーターを待つ時間が惜しかった。彼は非常階段の扉を開けて、九階から一階まで駆け下りた。


 外に出た瞬間、雨が全身を叩いた。


 九月の終わりの、季節外れの豪雨だった。歩道に落ちた水が跳ね返って、膝から下がすぐに濡れた。悠人は大通りでタクシーを止めた。


 車は二百メートル進んで、止まった。前方の交差点まで、テールランプが赤く連なっていた。


「お客さん、この雨だと十五分は動かないかも」


 悠人は財布から千円札を出して、助手席の後ろに置いた。


「ここで降ります」


 扉が開いた。彼は雨の中に出た。


 アスファルトが濡れて、信号とヘッドライトの光を跳ね返していた。街全体が水の膜をかぶって、輪郭を失っていた。空気は、乾いた土が急に濡れたときのにおいで満ちていた。


 悠人は走った。


 二十八年生きてきて、彼が何かに向かって走ったのは、これが二度目か三度目だった。前の二回は、電車と、締切だった。




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