第十八話 雨の中の三人
軒下は、幅が二メートルもなかった。
葵はビルのエントランスの庇の下に立って、車寄せの向こうの雨を見ていた。タクシー乗り場には五人ほどの列ができていて、その全員が誰も来ない車を待っていた。
二十一時十四分。
雨は、まっすぐ落ちてこなかった。風で斜めになって、庇の下まで吹き込んでくる。葵の左肩はもう濡れていた。
彼女は、上に戻らなかった。四十一階に鞄を置いてきたままだった。智也からメッセージが来ている。『大丈夫? 迎えに行こうか』。返事はしていない。
車寄せの入口のほうから、走ってくる人影が見えた。
最初、葵はそれが誰だかわからなかった。傘もささずに車道の端を走ってくる男がいる、としか思わなかった。
その人影が、庇の下に飛び込んできた。
相葉悠人だった。
全身から水が滴っていた。コートは着ておらず、腕にかけたまま濡らしていた。シャツが体に張りついている。前髪から水が落ちて、顎を伝っていた。息が上がっていて、しばらく何も言えないでいた。
「先輩」
悠人は片手を上げた。待ってくれ、という意味らしかった。
三十秒ほど、彼は呼吸を整えていた。それから顔を上げた。
「藤井」
「はい」
「今日、俺のプロジェクトで、本番稼働したら客の預金残高が壊れるバグが見つかった」
葵は目を見開いた。
「原因は、俺が八月に置いた前提だ。同時に処理が走らないということを、確かめないまま設計に入れた」
悠人はそこまで一息に言った。あとが続かない。雨に打たれた顔を手のひらで拭い、呼吸を整えた。
「確認しろと言ってくれた人がいた。照会票も書きかけた。でも、出さなかった」
「それで、どうなったんですか」
「稼働は二ヶ月延びる。俺は今日、リーダーを外された」
葵は、返す言葉を見つけられなかった。
「……それを、どうして私に?」
「説明したかった」
悠人はすぐに首を振った。
「違う。謝りたかった」
「仕事のことを、私に謝るんですか」
「そうじゃない」
悠人は言葉を探すように、視線を足元へ落とした。
「俺は、藤井に会いたいと言った。また誘っていいかと聞いて、藤井はいいと言った。それなのに、忙しくなったら、行けないという事実だけを送った。会えないことを、俺がどう思っているかは言わなかった」
「私たち、まだ付き合っているわけじゃないですよね」
「わかってる」
悠人は即座に答えた。そのあとで、小さく息を吐いた。
「わかっていたつもりだった。でも、藤井が離れていくのが怖かった。今日、それがわかった」
葵の喉が詰まった。
「あの写真の女の人は、柏木さんですか」
「そうだ。打ち上げに一時間だけ出て、またオフィスに戻った」
「疑っていたわけじゃないんです」
「ああ。藤井が見ていたのは、そこじゃないんだろうな」
悠人はいったん口を閉じた。
「三週間会っていなかった。それで俺は『今はオフィスに戻ってる』と書いた。事実だけで話を終わらせた。本当は、藤井があの写真を見てどう思ったのか、聞くべきだった」
悠人はそこで一度、言葉を切った。
「先週の火曜、うちのビルに来ただろう」
葵の肩が跳ねた。
「柏木さんから聞いた。同じ日の十七時四十分に、俺は声が聞きたいと送っている。あの日、俺は大手町にいて、二十三時まで戻らなかった。……藤井が来たことを、俺は今日まで知らなかった」
雨の音が、二人の間を埋めた。
葵は、自分の指が震えているのに気づいた。
「先輩」
「うん」
「私も、言わないといけないことがあります」
悠人は黙って待った。
「箱根に行ったとき」葵は言った。「あそこ、私、前に行ったことがあったんです。三年前に。……智也と」
悠人の表情は変わらなかった。
「ステンドグラスの塔の入口で、私、足が止まったんです。先輩は気づいてなかったと思うけど。あのとき言えばよかった。言わなかったのは、言わないほうが楽だったからです」
「そうか」
「それと」葵は息を吸った。ここから先が本題だった。「先週の火曜、先輩のビルを出たあと、私、電車の中で智也にメッセージを送りました。自分から。次に日本に帰ってくるのはいつって」
葵の視界がぼやけた。雨のせいではなかった。
「そのとき、先輩からのメッセージが未読で残ってました。私、それを開かないで、先に智也に送ったんです。そのあとで開きました。順番を、わざとそうしました」
悠人は動かなかった。
「智也に、会いたいって送りました。今日は、そういう日です。私は今日、上の階で、元の恋人と食事をしてました」
言い終わって、葵は下を向いた。
罰されるのを待つ子どもみたいだ、と思った。実際、そうだった。
悠人の声がした。
「藤井」
「はい」
「顔を上げてくれ」
葵は顔を上げた。
悠人は殴られたような顔をしていた。ごまかしていなかった。痛い、という表情をしていた。
「痛い」と彼は言った。
「はい」
「痛いが、聞いてよかった」
葵は口を開いて、何も言えなかった。
「俺が二ヶ月空けた場所に、藤井が誰かを入れたなら、それは俺の──」
「違います」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「先輩が忙しかったことと、私が智也に連絡したことは、別です」
悠人は目を閉じた。雨音の中で、その言葉を飲み込んでいるようだった。
「……そうだな」
「私が決めて、連絡しました」
「そうだ。すまん。また言い方を間違えた」
悠人は葵を見た。
「俺は今、すごく嫌な気持ちだ。でも、責めたいわけじゃない。藤井が自分から言ってくれたことのほうが、今は大事だ」
葵は両手で口を押さえた。
◆
「葵」
背後で声がした。
振り返ると、エントランスの自動扉が開いていた。智也が立っていた。片手に葵のトートバッグを、もう片手に折り畳んだ傘を持っている。
彼は雨に濡れた男を見て、それから葵を見た。状況を理解するのに、三秒もかからなかった。彼は昔からそういう人だった。
「鞄、置いていったから」
「……ありがとう」
智也は葵にバッグを渡した。その場を動かなかった。
三人のあいだで、雨だけが音を立てていた。
「葵」
智也が言った。声は低かったが、はっきりしていた。
「僕は今日、三年前に言えなかったことを言うって決めてきた。だから言う」
彼は一歩前に出た。
「一緒に来てほしい。シンガポールに」
葵は息を止めた。
悠人は動かなかった。何も言わなかった。彼はそこに立って、水を滴らせながら、葵を見ていた。
智也が続けた。
「三年前、僕は君を試さなかった。今度は試す。断られてもいい。断られるほうが、言わないよりましだって、この三年でわかった」
その言葉には、嘘がなかった。
葵にはそれがわかった。今日の四十一階で、彼が言ったことも本当だった。彼のノートの丸い字も、三年間擦れた背表紙も、全部本当だった。
だからこそ、葵は答えられた。
「智也」
「うん」
「あのノート、私が作ったんだよ」
智也が、わずかに首を傾げた。
「思い出を保存するためのノート。半券貼っても背が壊れないように綴じ方を変えて、糊で膨らんでも開くようにして。私が二十四のときに設計したの」
「……知ってる」
「今日、見せてもらって、わかったことがある」
葵は自分の声が震えないように、ゆっくり話した。
「三年分あったのに、書いてあるのはほとんど三年前までの日本のことだった。智也がシンガポールでどんな三年を過ごしたのか、あのノートからは何もわからない」
智也の顔から、表情が少しずつ抜けていった。
「私、あなたに、そこに住むための箱を渡しちゃったんだと思う」
「葵」
「そして私も、同じ箱の中にいた。三年間ずっと、あの商品の続きばっかり作ってた。課長にそう言われたとき、腹が立ったのは、そのとおりだったからだよ」
葵は雨のほうを向いた。斜めに落ちてくる線が、街灯の下だけ白く光っていた。
「智也の言ってくれたことは、嬉しい。嘘じゃない。三年前の私だったら、たぶん行ってた」
「今は」
「今は、行かない」
葵は智也を見た。
「私、書いてないほうのページに行きたいの。あそこには何もないけど、まだ何も書いてないから」
雨の音が続いた。
智也は長いあいだ黙っていた。やがて、ゆっくり息を吐いた。
「そっか」
「うん」
「……そう言われると思ってた気もする」
彼は笑おうとして、うまくいかなかった。それは葵が知っている中で、いちばん正直な彼の顔だった。
「智也」
「なに」
「シンガポール、楽しい?」
智也は少し黙った。
「わからない。仕事はできてる。でも、休みの日に、誰かに電話しようと思って、電話帳を開いて、結局誰にもかけずに閉じることが、たまにある」
それは、いつもの彼の話し方ではなかった。自慢話の底に、聞く側が見つけられる程度の小さな穴を用意しておく、そのやり方ではなかった。ただ、そのまま置かれた話だった。
「今日、初めてそれ、言った気がする」
「うん」
雨の音だけが、しばらく続いた。
智也は傘を開いた。開いてから、少し考えて、葵のほうに差し出した。
「使って」
「いいよ、私」
「使って。僕、タクシー乗るから」
葵は受け取った。
智也は数歩先で振り返った。
「葵」
「うん」
「あのノート、三冊目は自分で買うよ。……今度は、こっちのこと書く」
彼は答えを待たずに、雨の中へ歩いていった。タクシー乗り場の列の最後尾についた背中が、すぐに雨に溶けた。
◆
葵は傘を持ったまま、しばらく動けなかった。
隣で、悠人が小さく震えていた。九月の終わりとはいえ、全身濡れたまま十五分立っていれば、体温は下がる。
「先輩、寒いですよね」
「寒い」
「傘、入りますか」
「入る」
葵は傘を開いた。二人には少し小さかった。
悠人が、腕にかけていたコートを広げて、葵の肩にかけた。
「濡れてます」
「濡れてる。だが、風は防ぐ」
「理屈っぽい」
「そうだな」
葵は笑った。笑ったら、涙が出た。
悠人は、大げさなことも、綺麗なことも、一つも言わなかった。ただ、傘の下に立っていた。
二人はそのまま、雨が少し弱くなるまでそこにいた。それから、タクシーを探して歩き出した。
沈黙が続いていたが、葵はもう、その沈黙を埋めなくていいと思っていた。




