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雨上がりのプレリュード  作者: 久遠 睦


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第四部 二つ目の日付欄  第十九話 翌朝

202X年九月二十七日、土曜日。七時四十分。


 葵は、自分の部屋のベッドで目を覚ました。


 カーテンの隙間から、白い光が入っていた。雨は上がっていた。


 しばらく天井を見ていた。体のどこかがまだ濡れているような感覚があって、確かめると、そんなことはなかった。髪も服も乾いている。昨夜、帰ってすぐ風呂に入って、ドライヤーもかけずに寝た。


 起き上がって、床に落ちていたものを拾った。


 智也の傘だった。折り畳みの、黒い、骨が八本のもの。閉じ方が雑で、生地が斜めにねじれている。


 葵はそれを丁寧に開いて、風呂場に吊るした。


◆


 九時、悠人からメッセージが来た。


◆


 十時ごろ、葵は窓を開けた。


 昨日の雨で洗われた空気が入ってきて、部屋の中の眠っていたにおいと入れ替わった。ベランダの手すりに、まだ水滴が並んでいる。


 彼女はそこに肘をついて、外を見た。


 道の向かいのアパートの前で、人が布団を干していた。その隣の家では、子どもが自転車の練習をしていて、何度も同じところで転んでいた。


 なんでもない土曜日の午前だった。


 昨日、彼女は雨の中で人生の選択をしたはずだった。四十一階のレストランを出て、庇の下で、二人の男の前で。


 それなのに、今日は、なんでもない土曜日だった。


 葵はそれが少しおかしくて、そして、少しありがたかった。


 物語の中なら、あのあと何かが劇的に変わるのだろう。実際には、朝が来て、傘を干して、パンを買いに行くだけだ。


 部屋に戻って、彼女はもう一度、テーブルの上の手帳を開いた。


 三年前の九月のページに、こう書いてあった。


 『成田。十一時発。見送り』


 それだけだった。


 あの日、彼女は空港から帰る電車の中で、この六文字を書いた。それ以外に書けることがなかった。


 葵はペンを持った。


 書いた日の欄の下に、もう一つ日付を書ける場所があったら、と思った。そこに今日の日付を入れて、その横に、こう書ける。


 『三年かかったけど、ちゃんと終わりました』


 書けないので、彼女は代わりに、白いコピー用紙を一枚出した。


『昨日はすまなかった。今日は寝る』


 葵は笑ってしまった。


『寝てください』


『十四時間寝る』


『計算しました?』


『した』


 それだけのやりとりだった。


 葵はスマートフォンを置いて、部屋を見回した。


 昨日の鞄が、椅子の上に投げ出されたままだった。中身を出す。財布、鍵、化粧ポーチ、それから、手帳。


 布張りの、角の擦り切れた『アーカイヴ』の試作品。


 葵はそれをテーブルに置いて、椅子に座った。


◆


 六月十七日から前の十数ページは、まだ読めない。


 三ヶ月経っても、青い染みは動かなかった。乾いてしまえば、あとは変わらない。ページを開くと、光の角度によって、字だった場所の凹凸だけが見える。書いた圧の跡だ。何を書いたかは思い出せないのに、書いた力だけが残っている。


 葵はそのページを、長いあいだ見ていた。


 いつもなら、ここで閉じる。この三ヶ月、何度もそうしてきた。読めないものを見ても仕方がないからだ。


 今日は閉じなかった。


 彼女は、右下の余白に指を置いた。


 ここには、何も書いていない。日付欄の下、二行ぶんくらいの空きがある。


 もし、と葵は思った。


 もし、ここに今日の日付を書いて、その横に、六月十七日に何があったかを書いたら。


 それは、上書きではない。修正でもない。読めなくなったページを、読めるようにするのでもない。滲んだままの字の隣に、今の自分の字を並べるだけだ。


 同じ見開きに、二つの時間が乗る。


 葵は立ち上がった。


 部屋の隅の棚から、白いA4のコピー用紙を五枚出した。定規を出した。会社から持ち帰っていた製図用のシャープペンシルを出した。


 テーブルの上のものを全部どけて、紙を一枚置いた。


 見開きの図を描いた。左に薄い罫線、右は白紙。右下に、日付欄を二つ。


 上に「書いた日」。


 下に、何と書くか。


 「直した日」ではない。直していない。


 「読み返した日」。


 葵はその五文字を書いた。書いて、線を引いて、囲った。


◆


 十一時、一ノ瀬に電話をした。


 三コールで出た。背景に人の声がした。どこかの店にいるらしい。


「藤井さん? どうしたんですか、土曜に」


「ごめん、休みなのに」


「いいですけど。なんかありました?」


「一ノ瀬さん、去年の手帳って持ってる?」


「え。去年のですか」


「うん。使い終わったやつ」


 一ノ瀬は「ちょっと待ってください」と言って、しばらく黙った。


「……あります。実家じゃなくて、部屋にありますね」


「なんで持ってるの」


「なんでって」一ノ瀬は困ったように言った。「捨てられないからです」


「見返す?」


「見返さないです。全然」


「見返さないのに、捨てられないんだ」


「捨てられないです」


 葵は目を閉じた。


「一ノ瀬さん。それ、なんでだと思う?」


 電話の向こうで、一ノ瀬が少し考える気配がした。


「……なんか、まだ終わってない感じがするからですかね」


「終わってない」


「はい。使い終わったのに、終わった気がしないっていうか。あのとき書いたこと、今の私だったら違うこと書くのになあ、って思うページがあるんです。でもそれ、書けないじゃないですか。終わっちゃってるから」


 葵は、テーブルの上の紙を見た。


「一ノ瀬さん」


「はい」


「ありがとう。それが聞きたかった」


「え? 私、何か言いました?」


「言った」


 通話を切って、葵は紙にもう一行書き足した。


 『使い終わったのに、終わった気がしない』


 三年前、彼女は「半券は捨てられないのに、なぜ貼る場所がないのか」と書いた。あれは質問だった。


 これも、質問だった。


◆


 夜、葵は智也にメッセージを送った。


 長い文章を三度書いて、三度消して、最後に残ったのは四行だった。


『昨日はごめん。ちゃんと言えてなかったことがあるから、書きます』


『三年前、私も何も言わなかった。行かないでとも、待ってるとも言わなかった。智也だけが言わなかったんじゃない』


『だから、昨日のことは、智也が悪いんじゃないです』


『傘、ありがとう。返せないので、使わせてもらいます』


 送信して、彼女はスマートフォンを裏返した。


 返事は、一時間後に来た。


『読みました。ありがとう』


『こっちも一つだけ言わせて。あのノート、葵が作ったって聞いて、正直かなり効いた』


『三年間、僕は葵の作ったものの中にいたわけだ。自分では前に進んでるつもりだったのに』


『でも、たぶん、それを教えてくれたのも葵だから、おあいこにしておく』


 葵は、その四行を二度読んだ。


『元気で』


『そっちも』


 それが最後のやりとりになった。


 葵はトーク画面を閉じた。消しはしなかった。消すのは、なかったことにすることだと思った。


 残しておいて、いつか読み返す。読み返した日には、その下に何か書き足すかもしれない。


 そう考えたところで、彼女は自分がさっき紙に描いた図のことを思い出した。


 午後、葵は近所のスーパーに行って、卵と牛乳とパンを買った。


 帰り道、空が高かった。九月の終わりの、雨上がりの空だった。アスファルトはもう乾いていて、昨日の豪雨の跡は、道路の端の泥だけだった。


 部屋に戻って、彼女はテーブルの前に座り直した。


 紙は五枚とも埋まっていた。


 罫線の濃度。紙の坪量。インクの重ね書き。日付欄の位置。表紙の色は、まだ決めていない。


 彼女は六枚目を出して、いちばん上に、まだない商品の名前を書く欄を作った。


 空欄のまま、その日は終わった。




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