第二十話 白紙の見開き
第二十話 白紙の見開き
202X年十月三日、金曜日。常磐文具、商品企画部。
葵は宮下の机の横に立って、A4の紙を六枚差し出した。
手描きの図面と、コンセプトの文章が一枚。試作はまだない。
宮下は六枚を順に見た。三枚目でいったん止まり、四枚目に戻り、それからもう一度三枚目を見た。
三枚目は、見開きの図だった。右下に日付欄が二つ並んでいる。
「これ、下の欄は何」
「読み返した日です」
「読み返した日を、書く」
「はい。読み返したときに、その欄に日付を入れて、同じページに追記します。訂正でも清書でもなくて、追記です」
宮下は紙を机に置いた。
「藤井さん。これ、『アーカイヴ』の逆だね」
「逆です」
「あなた、自分の商品を否定することになるけど」
「否定ではないと思います」葵は言った。「『アーカイヴ』は、その日をそのまま閉じ込めるための本でした。それは間違ってないです。ただ、閉じ込めたものを、あとから開けたくなる人がいる。私が作らなかったのは、そっちです」
宮下はしばらく黙っていた。
「名前は」
「まだです」
「早く決めて。名前がないと、人は覚えない」
宮下は椅子を回して、葵のほうを向いた。
「藤井さん。これ、企画部だけで通すのは無理」
「はい」
「紙を変えるでしょう。原紙が変われば、製造原価が上がる。私が部長に持っていっても、価格の話で止まる。香川さんは価格の話になると決めない」
「はい」
「だから、営業と、それから生産管理の川島さんに、先に説明して。二人が『これなら売れる』『これなら作れる』って言ってから、部長に上げる」
葵は顔を上げた。
「……順番を、変えるということですか」
「そう。順番の問題」
葵は、九月のある夜の電話を思い出した。ひどく疲れた声で、あの人が言ったことを。
「わかりました」
◆
十月八日、水曜日。
葵は、原紙の単価を調べるところから始めた。
川島に見せられたバインダーの銘柄をメモしてきて、それを製紙会社の代理店に問い合わせた。担当者は親切で、三十分電話に付き合ってくれた。坪量ごとの価格帯と、ロットの刻みと、納期。
電話を切って、彼女は数字を表にした。
一冊あたりの紙代は、四十二円上がった。
次に、綴じの工程を調べた。三番工場の作業標準書を、生産管理から借りた。二百ページあった。関係のあるところは十四ページで、それを見つけるのに二時間かかった。
背の厚みが二ミリ増えると、綴じ機の調整に四十分かかる。四十分ぶんの停止は、他の商品の生産を二千冊ぶん押し出す。
葵はそれも表に入れた。
夜、フロアには彼女しかいなかった。
電卓を叩きながら、彼女はふと、自分がこの三年間、原価計算をほとんどしてこなかったことに気づいた。
やっていなかったわけではない。企画書の末尾に、原価の欄はあった。ただ、その数字は経理からもらったものを転記していただけだった。どこから来た数字なのか、彼女は知らなかった。
知らないまま、三年、企画を書いていた。
二十二時、彼女は表を印刷した。A3で二枚になった。
その二枚を見て、葵は、少しだけ笑った。
三年前、『アーカイヴ』の企画書を書いたとき、彼女は徹夜をした。あのときの興奮に、今のこれは似ていなかった。数字を積むのは地味で、時間がかかり、面白くない。
面白くないのに、手が止まらなかった。
十月七日、火曜日。生産管理部。
二階の奥に、そのフロアはあった。
商品企画部よりも机が少なく、代わりに書棚が多い。壁一面に、工場から送られてくる仕様書のバインダーが年度ごとに並んでいる。フロア全体が紙のにおいがした。
川島は窓際の席にいた。
五十代半ばの、痩せた男だった。白髪を短く刈っていて、老眼鏡を額に上げている。葵が名乗ると、彼は「ああ」とだけ言って、椅子を回した。
「企画の藤井さん。『アーカイヴ』の人だね」
「はい」
「あれの綴じ、うちの三番工場でやってる。あれ、大変なんだよ」
葵は言葉に詰まった。
「……すみません」
「謝らなくていい。売れたから」
川島は老眼鏡を下ろした。
「で、今日は何」
葵は六枚の紙を出した。今度は説明用に清書してある。
川島は一枚目から順に、指で押さえながら読んだ。読むのが速かった。三分で最後まで行って、また一枚目に戻った。
「藤井さん。この紙、何を想定してる」
「万年筆のインクが裏抜けしにくくて、乾いたあとに上から重ねても書ける紙です。滲みにくいのではなく、滲んでも読める方向で選びたいです」
「坪量は」
「八十から九十のあいだで考えています」
「今の『アーカイヴ』は」
「七十です」
「うん」
川島は紙を置いた。
「無理だね」
葵は息を止めた。
「藤井さん、この紙、いくらか知ってる?」
「……調べます」
「調べてから来て」
川島は書棚のほうに手を伸ばして、バインダーを一冊抜いた。開いて、あるページを葵のほうに向けた。
原紙の単価表だった。銘柄が縦に並んで、坪量ごとに数字が入っている。
「うちが今使ってる原紙は、ここ。あなたが言ってる紙は、たぶんこの辺。単価で一・六倍」
葵はその数字を見た。
「でも、一冊あたりの紙の重さは、そんなに──」
「増える。坪量が上がるんだから」川島は言った。「一冊の原価に乗るのは、紙代だけじゃない。厚くなれば背が太る。背が太れば、今の綴じ機の設定を変える。設定を変えれば、その日は他の商品を流せない」
「はい」
「それと、ロット。この原紙は、うちが今取ってる量だと、単価が下がる帯に届かない。届かせるには、最低でも年間で三万冊ぶん買う」
「三万」
「『アーカイヴ』の初年度が二万八千。二年目が一万一千。三年目が七千」
葵は、その三つの数字を、初めて聞いた気がした。
いや、聞いたことはある。営業の数字として、会議で読み上げられたことがある。だが、彼女はそれを、自分の紙の量として考えたことがなかった。
「川島さん」
「うん」
「私、その数字を、今まで自分の企画の数字だと思ってませんでした」
川島は、少しだけ目を上げた。
「そう」
「すみません。出直します」
葵は紙を鞄にしまって、頭を下げた。
立ち去ろうとしたとき、川島が言った。
「藤井さん」
「はい」
「この日付欄、二つあるやつ。俺は好きだよ」
葵は振り返った。
「工場の日報も、これなんだ。書いた日と、確認した日が別で入る。あとから見ると、誰がいつ気づいたかがわかる」
川島は老眼鏡をまた額に上げた。
「数字を持ってきて。そしたら、作り方はこっちで考える」
◆
その夜、帰りの電車で、葵は悠人にメッセージを送った。
『先輩、質問していいですか』
返事は、十五分後に来た。
『いい』
『原価の話です。うちの商品で、紙を変えると一冊四十二円上がるんですけど、その四十二円をどう説明したら通りますか』
『相手は誰だ』
『営業と、生産管理と、最後は部長です』
少し間があって、長い返事が来た。
『四十二円を説明しようとしないほうがいい』
『え』
『四十二円は、下げるべきコストとして見られてる。下げられない理由を説明しても、相手の見方は変わらない。見方を変えるには、四十二円を別の欄に移す必要がある』
『別の欄』
『その四十二円で何が増えるかだ。売れる冊数か、売り場か、単価か。増えるものが四十二円より大きければ、それはコストじゃなくて投資になる。同じ数字でも、置く欄が違えば結論が変わる』
葵は、電車の窓に額をつけるようにして、その文面を三度読んだ。
『先輩』
『うん』
『それ、仕事の話ですか、それとも私の話ですか』
返事は、しばらく来なかった。
『仕事の話をした』
『はい』
『……あと、少しだけ藤井の話もした』
葵は笑って、口元を手で押さえた。前の席の人が、こちらを見ていた。




