第二十一話 取ってください
202X年十月六日、月曜日。
悠人の席は、フロアの窓側から、通路側に移った。
物理的な移動には意味がない、と沢渡は言った。フェーズ2の指揮を課長が直接執る以上、資料が課長の机の近くにあったほうが早い、というだけの話だった。
悠人にとっては、意味があった。
窓側の島は、リーダーの席が並んでいる。通路側は、担当者の島だった。四ヶ月前に彼が座っていた場所と、同じ列だった。
「相葉さん」
三隅が段ボールを持って立っていた。
「荷物、運びます」
「自分でやる」
「二箱あるじゃないですか」
「二箱くらい持てる」
「持てるのと、持たせないのは別です」
三隅は一箱抱えて、先に歩いていった。
◆
修正の設計は、三日でできた。
悠人は、更新処理の版番号の確認を、書き込みと同じ区間の中に入れ直した。〇・〇三秒の隙間をなくす。そのために、処理の呼び出し口を二つ作り直す必要があり、影響は十一本のプログラムに及んだ。
沢渡は設計書を三十分読んで、判を押した。
「これでいい。実装は誰がやる」
「私がやります」
「相葉。おまえは今、担当者だぞ」
「担当者だからやります」
沢渡は少しだけ口の端を動かした。
その日の午後、三隅が悠人の席に来た。
「相葉さん。実装、僕がやりましょうか」
「いや」
「でも、今の体制だと、僕のほうが手が空いて──」
「三隅」
「はい」
「これは、俺が入れたバグだ」
三隅は少し黙った。それから、言った。
「じゃあ、相葉さんが取ってください」
「そうする」
「僕、レビューやります。厳しくやります」
「頼む」
三隅はメモ帳を出して、レビューの観点を五つ書いて、悠人に見せた。五つのうち三つは、悠人が自分でチェックリストに入れているものだった。残り二つは、入れていなかった。
悠人はその二つを、自分のリストに書き加えた。
◆
十月八日、水曜日。
銀行への説明会があった。
場所は大手町の、十八階の同じ会議室だった。七月のキックオフでは四十七人が入った部屋に、この日は十九人しかいなかった。
冒頭、悠人の会社の部長が経緯を説明し、頭を下げた。沢渡が下げ、悠人が下げた。
銀行のシステム部の担当課長が、二十分ほど話した。話の内容は、悠人が予想していたものとほとんど同じだった。稼働日を優先した判断はこちらにも責任がある。ただし、テストで見つかったからいいという話にはできない。再発防止の体制を書面で出してほしい。
最後に、その課長が一つだけ質問をした。
「相葉さん。この前提を置いたとき、確認しなくていいと思ったんですか。それとも、確認する時間がなかったんですか」
部屋が静かになった。
悠人は立ち上がった。
「時間はありました」
沢渡が、横で少し動いた気配がした。
「確認すれば、たぶん『起きる』という答えが返ってくると思っていました。返ってきたら方式を戻すことになり、日程が二週間戻ります。私は、その答えを聞かないほうを選びました」
誰も何も言わなかった。
「時間がなかったのではありません。私が選びました」
悠人は頭を下げて、座った。
しばらくして、課長が言った。
「わかりました。そこまで書いてください、書面に」
「はい」
◆
帰りのエレベーターの中で、沢渡が言った。
「相葉」
「はい」
「あそこで正直に言うのは、うちの立場としては最悪だ」
「すみません」
「だが、あの課長は、たぶんあれで納得した」
沢渡はネクタイを緩めた。
「おまえ、この四ヶ月でいちばん正しいことを言った場所が、今日だったな」
「……はい」
「覚えとけ。正しいことを言う場所は、都合の悪いときにしか来ない」
◆
十月十四日、火曜日。
修正コードの実装が終わった。
悠人は三隅にレビューを頼んだ。三隅は二日かけて、指摘を二十三件出した。
二十三件のうち、悠人が「それは仕様どおりだ」と返したのが十一件、「直す」と返したのが九件、「わからないので調べる」と返したのが三件だった。
三件目の調べもので、悠人は半日使った。結果、三件のうち一件は、三隅の指摘が正しかった。
「三隅」
「はい」
「十九番、おまえが正しい」
三隅が顔を上げた。
「え、ほんとですか」
「ほんとうだ。境界値の扱いが、俺の書き方だと一件ずれる」
「やった」
三隅は本当に嬉しそうな顔をした。
悠人はそれを見ていた。
四ヶ月前、彼はこの男に「書いたことがないのは、書かせてもらってないからだ」と言った。あのときは、上から言っていた。
今は、この男の指摘で自分のコードが直っている。
「三隅」
「はい」
「レビュー、うまくなったな」
「相葉さんが赤で残せって言ったからです」
「そうか」
「自分でわかってないところに印をつけるの、最初は恥ずかしかったんですよ」
「今は」
「今は、印がついてないところのほうが怖いです」
悠人は少し笑った。
この四ヶ月で、彼が現場に残せたものがあるとすれば、たぶんこれだった。工程でも設計でもなく、二十五歳の男が自分の無知に印をつけるようになったこと。
それは、報告書のどの欄にも書けない。
十月十日、金曜日。
柏木遥が現場を離れることになった。
彼女の会社の契約が、フェーズ2の遅延にともなう体制見直しで、十月末までに切り替わる。実質的には、稼働延期の責任の一部を、どこかが形として引き受けた結果だった。
悠人はそれを、掲示された体制図で知った。
その日の夜、彼はエレベーターホールで柏木を待った。
「柏木さん」
「相葉さん」
「聞きました」
「はい」
「私のせいです」
柏木は首を振った。
「違います。私のところが降りるのは、単価の話です。相葉さんのバグは関係ないですよ」
「関係あると思います」
「思ってもいいですけど、事実は違います」
柏木はエレベーターのボタンを押した。
「相葉さん。私、最後に一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「あの日、私が三回言ったこと、なんで出さなかったんですか」
悠人は答えを用意していなかった。用意していなかったから、正直に言うしかなかった。
「出せば、こちらの遅れが確定するからです」
柏木が顔を上げた。
「確定する?」
「業務部門に聞けば、たぶん『起きる』と返ってくる。返ってきたら、方式を戻さないといけない。戻せば、二週間が復活する。……私は、その返事を、聞きたくなかったんだと思います」
しばらく、二人とも黙っていた。
エレベーターが来て、扉が開いて、また閉まった。柏木は乗らなかった。
「相葉さん」
「はい」
「私、それを言える人、この現場で三人くらいしか知りません」
柏木は鞄を肩にかけ直した。
「次の現場でも、それを言ってください。今みたいに、あとからじゃなくて」
「はい」
「じゃあ、お疲れさまでした」
彼女は次に来たエレベーターに乗って、降りていった。
悠人は、扉が閉まったあとも、しばらくそこに立っていた。
◆
その夜、悠人は二十時に会社を出た。
久しぶりだった。担当者になるというのは、こういうことでもあった。判断が減り、待つ時間が増え、そのぶん定時が近づく。
虎ノ門の駅までの道で、彼はスマートフォンを開いた。
『今日、二十時に出た』
葵からの返事は、すぐに来た。
『え。事件ですか』
『事件ではない。役職が減った』
『それ、笑うところですか』
『笑うところではない。事実だ』
少し間があって、次が来た。
『先輩、ごはん食べました?』
悠人は、その七文字を見た。
九月一日の夜にも、同じことを聞かれた。あのとき彼は「食べる」と答えて、食べなかった。
『食べてない』
『じゃあ、食べてください』
『食べる』
『ほんとに?』
『……ほんとうに食べる』
彼は駅に入る前に、道の途中の定食屋の暖簾をくぐった。
カウンターで焼き魚の定食を頼んで、待っているあいだに、写真を一枚撮った。
運ばれてきた皿を撮って、送った。
既読はすぐについた。
『えらい』
悠人は箸を割りながら、この一往復に、自分がどれだけ助けられているかを考えた。
考えてから、それを言葉にして送るべきかどうかで、三分迷った。
結局、送ったのはこうだった。
『藤井。近いうちに、ちゃんと会いたい』
返事が来るまでに、少し時間がかかった。
『はい。私も、話したいことがあります』




