第二十二話 数字を持ってきた人
202X年十月十四日、火曜日。
一週間で、葵は三つのことをした。
一つ目。過去三年ぶんの『アーカイヴ』の販売データを、営業部から借りた。借りるのに二日かかった。フォーマットが売り場別・月別で、商品別に組み替えるのに、さらに一日半かかった。
二つ目。直営ショールームのレジデータから、『アーカイヴ』と一緒に買われた商品の組み合わせを抜き出した。上位に来たのは、万年筆用のインク、付箋、それから写真用の粘着コーナーだった。
三つ目。ショールームの店頭で、三日間、立った。
◆
立つ、というのは葵が自分で決めたことだった。
企画部の人間が売り場に立つ習慣は、この会社にはない。ショールームの店長に頼み込んで、開店から二時間だけ、レジの横に置かせてもらった。
置いたのは、手作りの見本だった。
既製のノートに、罫線を薄い灰色で印刷した紙を貼り込み、右下に日付欄を二つ手描きで足しただけの、みっともないものだった。その横に、A5のカードを立てた。
『使い終わったのに、捨てられない手帳はありますか』
三日間で、三十一人が足を止めた。
二十三人が「ある」と答えた。
そのうち十九人が、理由を聞かれて、似たことを言った。読み返さないけど捨てられない。あのとき書いたことを、今なら違うふうに書くと思う。でも、書けない。
四十代の女性が一人、こう言った。
「上から書いたら、なんか、負けた気がしちゃって」
葵はその言葉を、その場でメモした。
◆
ショールームに立った三日目の午後、葵は一人の男性客に声をかけられた。
六十代くらいの、紺のポロシャツを着た人だった。
「これ、あんたが作ったの」
「まだ作ってないです。案だけです」
「案か」
男性は見本を手に取って、日付欄のところを指で押さえた。
「これ、下は何を書くの」
「読み返した日です」
「読み返した日ねえ」
男性はしばらくそれを見ていた。
「うちの女房が、十年前に亡くなってな」
葵は言葉を止めた。
「家計簿を三十年つけてたんだ。捨てられなくてね。押し入れに三十冊ある」
「はい」
「たまに開くんだよ。何が書いてあるかっていうと、大根が百二十八円とか、そんなことしか書いてない」
男性は見本を棚に戻した。
「でも、たまに一行だけ、余計なことが書いてある。『今日は暑い』とか、『息子が帰らない』とか。そういうのは、家計簿には要らない行だ」
「……はい」
「その横に、俺が書けたらいいのにな、とは思うよ。今なら返事ができるから」
男性は「がんばって」と言って、店を出ていった。
葵は、その場を動けなかった。
あとでメモに書いた言葉は、一行だけだった。
『今なら返事ができる』
◆
三日目の夜、駅までの道で、葵はスマートフォンを開いた。
悠人からだった。
『今日は何してた』
『ショールームに立ってた。お客さんに聞き取り』
『聞けたか』
『聞けた。四十代の女の人が、いいこと言ってくれた』
『どんな』
葵は少し迷って、それだけ打った。
『上から書いたら、負けた気がする、って』
既読はすぐについた。返事は、少し間があった。
『わかる気がする』
それだけだった。それだけで、その日の疲れが半分になった気がした。
十月十五日、水曜日。
朝、葵はいつもより早く出社して、企画書を書き直した。
書き直したのは、いちばん最初のページだった。
これまで彼女が書く企画書の一枚目には、必ずコンセプトが書いてあった。「思い出を保存する」「日々を記録する」。きれいな言葉が並んでいた。
今回、彼女は一枚目に、一行だけ書いた。
『使い終わったのに、終わった気がしない』
その下に、三十一人に聞いた結果と、六十代の男性の言葉を、そのまま引いた。
『今なら返事ができる』
書き終えて、彼女は印刷した。
印刷したものを、宮下の机に置いた。
宮下は一枚目を見て、しばらく黙った。
「藤井さん」
「はい」
「これ、答えが書いてないね」
「はい」
「一枚目に質問だけ置くの、勇気いるよ」
「三年前も、そうだったので」
宮下は二枚目をめくった。
「半券は捨てられないのに、なぜ貼る場所がないのか」
彼女はそう言って、少し笑った。
「戻ってきたね」
「戻ってはないです」葵は言った。「三年ぶん、遠回りしました」
「遠回りしないと、二つ目の日付欄は思いつかないよ」
宮下は企画書をクリアファイルに入れた。
「金曜、会議室押さえて。田代さんと川島さんと、香川さんも呼ぶ」
十月十四日、火曜日。営業部。
田代の机に、葵は三枚の紙を置いた。
一枚目は、価格と原価の試算。二枚目は、需要の裏づけ。三枚目は、売り場の提案だった。
田代は一枚目を見た。
「千六百円」
「はい」
「前と同じ値段だ」
「はい。でも、前と理由が違います」
葵は二枚目を出した。
「『アーカイヴ』の三年間の推移です。初年度二万八千、二年目一万一千、三年目七千。落ちてます。落ちてる理由は、たぶん、二年目以降の買い替えが起きていないからです」
「ふうん」
「レジデータを見ると、『アーカイヴ』を買った人が次に買っているのは、リフィルでも二冊目でもなくて、インクと付箋です。つまり、一冊目をまだ使い続けている」
田代の指が止まった。
「続けてるのか」
「はい。使い終わったのに、捨てていない。ショールームで三日聞きました。三十一人中、二十三人が『捨てられない手帳がある』と答えています」
「三十一人は少ないな」
「少ないです。でも、ゼロよりは多いです」
田代が、初めて葵の顔を見た。
「それで?」
「『プレリュード』は、二冊目を売るための商品ではありません。一冊目を使い終わった人が、もう一度その一冊目を開くための商品です」
葵は三枚目を出した。
「だから売り場は、『手帳・ダイアリー』ではなく、インクと付箋の隣です。あの棚は、冬だけじゃなくて通年で動きます」
田代は三枚目を長く見た。
「藤井さん」
「はい」
「乗り換えは何割と読んでる」
「三割です。残り七割は、今のうちの『アーカイヴ』を持っている人と、万年筆を使う人です」
「その根拠は」
「弱いです」葵は言った。「レジデータの併売率からの推定で、実測ではありません。ただ、乗り換えが五割を超えたら失敗だと思っています。その場合は、翌年に『アーカイヴ』を落として、こちらに一本化してください」
田代は椅子の背にもたれた。
「自分の商品を落とす前提で持ってきたのか」
「はい」
しばらく、田代は天井を見ていた。
「三万冊の原紙、川島さんに言われたか」
「言われました」
「初年度で三万は出ない」
「出ません。だから、二年で三万にする案を作りました」
葵は四枚目を出した。用意していないふりをして、鞄に入れていたものだった。
田代はそれを受け取って、読んだ。読んで、鼻から息を出した。
「藤井さん」
「はい」
「五年ここにいて、数字を持ってきた企画の人は、あんたが初めてだよ」
葵は、返事ができなかった。
「川島さんには、俺から言っとく。あの人、俺が『売れる』って言えば、作り方は考える人だから」
「……ありがとうございます」
「礼はいい」田代は紙を揃えた。「ただ、一個だけ言っとく」
「はい」
「この商品、俺は好きじゃない」
葵は顔を上げた。
「使い終わった手帳をもう一回開くなんて、俺は絶対しない。過去を見返すのが嫌いなんだ」
田代は紙をクリアファイルに入れた。
「でも、好きじゃないものが売れるのは知ってる。それが仕事だ」
◆
その日の夜、葵は川島のところにもう一度行った。
二階のフロアは、もう半分暗かった。川島だけが窓際の席にいた。
「川島さん」
「ああ」
「数字、持ってきました」
葵はA3を二枚と、田代に見せた四枚を出した。
川島は老眼鏡を下ろして、順に見た。原紙の単価表を見て、綴じの停止時間の計算を見て、それから二年で三万冊に届かせる案を見た。
読み終わるのに、十二分かかった。
その十二分のあいだ、川島は一度も顔を上げなかった。葵は立ったまま待った。
「藤井さん」
「はい」
「この、綴じの停止時間。四十分って書いてあるけど、どこで見た」
「三番工場の作業標準書です。生産管理からお借りしました」
「読んだのか」
「関係あるところだけです。十四ページ分」
川島は老眼鏡を額に上げた。
「二百ページから十四ページ見つけるの、大変だったろう」
「二時間かかりました」
川島は、初めて笑った。目のところだけが動く、短い笑い方だった。
「四十分は、古い数字だ。今は二十五分でできる。去年、機械を替えた」
「え」
「標準書の改訂が追いついてない。うちの落ち度だ」
彼はペンを取って、葵の表の数字に線を引いて、二十五と書き直した。
「これで、一冊あたり十一円下がる」
葵は、その手元を見ていた。
「川島さん」
「うん」
「作れますか」
川島はペンを置いた。
「作れる」




