第二十三話 プレリュード
202X年十月十七日、金曜日。常磐文具、商品企画部の会議室。
◆
その日の会議室に入る前、葵は廊下で一度だけ立ち止まった。
三年前、この同じ廊下を、彼女は議事録用のノートを抱えて歩いた。あのときは、末席で、誰の発言かを追うのに必死だった。量産が決まった瞬間、部屋の空気が変わったのを、下を向いたまま感じた。
今日は、自分の企画を、自分で説明する。
葵は会議室の扉に手をかけた。
かけてから、ふと思い出して、鞄の中を確かめた。
手帳が入っている。布張りの、角の擦り切れた『アーカイヴ』の試作品。六月十七日に雨に濡らして、十数ページが読めなくなったままの手帳。
持ってきた理由は、自分でもよくわからなかった。使うわけではない。見せるわけでもない。
ただ、これがないと、今日の話は始まらない気がした。
彼女は扉を開けた。
会議室に集まったのは六人だった。
商品企画部から、部長の香川、課長の宮下、葵、一ノ瀬。営業部から田代。生産管理から川島。
この顔ぶれが一つの部屋に入るのは、葵の知るかぎり三年ぶりだった。三年前、『アーカイヴ』の量産を決めたときが最後だ。あのときは、葵は末席で議事録を取っていた。
今日は、正面に立っている。
プロジェクターは使わなかった。資料は紙で六部、それから試作が一冊。
葵は、机の上に一冊だけ置いた。
「今回は、一点です」
宮下課長が手を伸ばした。一ノ瀬と、営業部から呼んだ二人が、その手元を覗き込んだ。
A5サイズ。表紙は薄い灰色。開くと、見開きの左ページに罫線があるが、その罫線はほとんど見えないくらい薄い。右ページは白紙。
「まず、紙を変えました」葵は言った。「万年筆のインクが裏抜けしにくくて、乾いたあとに上から重ねても書ける紙です。滲みにくいのではなく、滲んでも読める方向で選びました」
宮下がページを撫でた。
「罫線も淡い灰色に落としてあります。書いた字のほうが前に出るので、あとから別の色で足したときに、どれが後から足した字か見分けられます」
「それと、ここです」
葵は見開きの右下を指した。日付欄が二つ並んでいる。
「上が『書いた日』。下が『読み返した日』です。読み返したときに、下の欄に日付を入れて、そのページに追記する。同じページに、二つの時間が乗ります」
「追記」と宮下が言った。
「はい。訂正でも、清書でもなくて、追記です。三年前に書いたことを消さずに、その横に今の自分の字で書き足す」
部屋が静かになった。
営業部の一人が口を開いた。
「藤井さん。それ、『アーカイヴ』とはコンセプトが逆になりませんか。あっちは保存でしょう」
「逆です」と葵は言った。
自分で言って、少し驚いた。用意していた答えではなかった。
「『アーカイヴ』は、その日をそのまま閉じ込めるための本でした。だから、あれを使う人は、書いたページを直せない。直さないほうが正しい、という設計にしてあったんです。私が、そう作りました」
葵は自分の手を見た。
「でも、三年前の自分と今の自分は違うので。同じページに両方あったほうが、たぶん、いいと思うんです」
宮下は、それから四十秒くらい黙っていた。
「名前は」
「『プレリュード』です」
「意味は」
「前奏曲です。まだ本編じゃないところ、っていう意味で」
宮下は表紙を閉じた。
◆
田代が口を開いた。
「営業からいいですか」
香川部長が「どうぞ」と言った。
「先週、藤井さんから数字をもらいました」田代は資料の二枚目を開いた。「初年度一万二千、二年目一万八千。乗り換え三割の想定です。数字自体は控えめで、俺はもう少しいけると思ってます」
「田代くん、それは営業の希望だろう」
「希望です。ただ、根拠は藤井さんが持ってきました。ショールームで三日立って、三十一人に聞いてます」
香川が老眼鏡をかけ直して、資料をめくった。
「藤井さん。売り場を移すというのは」
「はい。『手帳・ダイアリー』ではなく、筆記具とインクの棚の隣に置かせてください。あの棚は通年で動きます」
「そんな売り方、うちはしたことないよ」
「していないだけで、できないわけではないと思います」
香川は「うーん」と言った。
その「うーん」が長引きそうになったとき、川島が言った。
「作れます」
全員が川島を見た。
「原紙は、この銘柄なら三番工場で扱ってます。年間三万冊ぶんのロットは、二年で届く計算です。届くまでのあいだは、単価が乗ります。乗ったぶんは、一冊あたり四十二円」
川島は自分のメモを見ながら続けた。
「綴じは、背の設定を変えます。変えると、その日は他の商品が流せません。だから、月に一度、まとめて流す形にします。在庫の持ち方が変わるので、営業と調整が要ります」
「調整します」と田代が言った。
「じゃあ、作れます」
川島はそれだけ言って、口を閉じた。
香川が二人の顔を交互に見た。
「営業と生産管理が、両方いいと言ってるの」
「言ってます」と田代が言った。
部屋が静かになった。
葵は、宮下のほうを見た。宮下は葵を見ていなかった。香川を見ていた。
「香川さん」宮下が言った。「これ、上に上げてください」
「うん……まあ、この形なら」
「今日中にお願いします」
「今日中?」
「今日中です。来期の企画枠の締切が来週です」
香川は少し困った顔をして、それから、判子を持った。
◆
会議が終わって、六人が出ていったあと、葵は会議室に残って試作を片づけた。
一ノ瀬が戻ってきた。
「藤井さん」
「うん」
「私、議事録取ってて、途中から手が止まりました」
「なんで」
「川島さんが『作れます』って言ったとき、みんなの顔が変わったの、面白くて」
葵は笑った。
「あれ、川島さんが先に言ってくれたから通ったんだよ」
「藤井さんが先に川島さんのところに行ったからじゃないですか」
葵は試作をケースに戻した。
「順番の問題だって、言われたの」
「誰にですか」
「課長に。それと、もう一人」
一ノ瀬は「へえ」と言って、それ以上聞かなかった。
廊下に出ると、宮下が壁にもたれて待っていた。
「藤井さん」
「はい」
「さっき、名前の説明をしたでしょう。前奏曲だって」
葵は立ち止まった。
「はい」
「本編、いつ来るの」
「来ないかもしれないです」葵は言った。「来ないまま、ずっと前奏曲でもいいと思ってます」
宮下は笑わなかった。笑わないまま、頷いた。
「いい名前」
◆
その日の夕方、香川部長から連絡が来た。
役員会の企画枠に、来期の新規三点のうちの一つとして上げる、という内容だった。正式な決定ではない。ただ、枠に入るかどうかが最初の関門で、そこは越えた。
葵は自席で、その短いメールを二度読んだ。
嬉しい、という感じは、思っていたよりも薄かった。
三年前、『アーカイヴ』が量産決定になったとき、彼女はトイレの個室で泣いた。あのときは、自分の作ったものが世界に出ることが、まだ信じられなかった。
今は、違う感じがした。
これは、ここから始まる。原紙の手配、工場の日程、色の決定、価格の最終調整、販促の設計。決めることが百以上残っている。そのどれか一つでも間違えれば、この企画は棚に並ばない。
彼女は嬉しさよりも先に、やることの数を数えていた。
それが少しおかしくて、葵は笑った。
「藤井さん、何笑ってるんですか」
一ノ瀬が通りかかった。
「なんでもない」
「気持ち悪いですよ」
「うん」
葵はパソコンを閉じて、鞄を持った。
外に出ると、日が落ちていた。十月の夕方の、乾いた空気だった。
会議室を出るとき、一ノ瀬が小声で言った。
「藤井さん、今日、声が違いましたよ」
「そう?」
「速かったです。すごく」
帰りの電車で、葵は悠人にメッセージを送った。
『今日、企画、来期の枠に入りました』
返事は、二駅過ぎたころに来た。
『おめでとう』
それだけだった。
それだけで、足りた。




