第二十四話 夜半
会社を出たのは十八時半だった。
葵は日比谷線に乗って、恵比寿で降りた。西口を出て、駒沢通りのほうへ歩く。十月半ばの夕方は、日が落ちるのが早くなっていて、六時を過ぎると街の色が青に寄る。
店を選んだのは悠人だった。「静かなところがいい」と言われて、彼女が三つ候補を出し、彼がその中から選んだ。
選んだ理由を、あとで聞いた。
「窓が大きいところがよかった」
「なんでですか」
「四ヶ月、窓のない部屋にいたから」
◆
同じ日の、二十時。恵比寿。
バーは、駅から歩いて七分の、看板の小さい店だった。天井が高くて、窓が大きい。ジャズが小さく流れていて、グラスを拭く音のほうが少し大きいくらいだった。
入口で、店の人が「お二人様は、窓際のお席もございますが」と言った。
葵は悠人を見た。悠人は「カウンターで」と言った。
「並びのほうが、話しやすい」
二人は端から二番目と三番目の席に座った。
最初の一杯が来るまで、どちらもあまり話さなかった。それは、気まずい沈黙ではなかった。
「プロジェクト、どうなりました?」
葵が聞くと、悠人はグラスを置いて答えた。
「稼働は十二月にずれた。二ヶ月。先方の役員会で、うちの部長が頭を下げた。俺も出た」
「怒られました?」
「怒られた。一時間半」
「……そうですか」
「修正のコードは、俺が書いた」悠人は言った。「三隅っていう後輩がいるんだが、あいつが『相葉さんが入れたバグなんで、相葉さんが取ってください』と言った。正しい」
葵は少し笑った。
「先輩、その人のこと好きでしょう」
「好きだ」
悠人はグラスの縁を指で回した。
「今期の評価は下がる。給料も、来期は据え置きだと思う。ただ、それは金額の話で、俺が困ってるのはそこじゃない」
「じゃあ、どこですか」
悠人は少し考えた。
「八月二十六日に、俺は自分で確認すると言って、確認しなかった。あのとき、何が起きてたかというと、他にやることが多すぎたわけじゃない。優先順位をつける時間が惜しくて、目の前のアラートから順に潰していた。三ヶ月それをやると、ああいうことになる」
「それ、仕事の話だけじゃないですね」
「ああ」悠人は頷いた。「藤井にもそれをやった」
葵はグラスを持ち上げて、少し飲んだ。
「私も、報告があります」
「うん」
「智也と、先週メールしました。最後に一回だけ。二人で決めた、ちゃんとした終わり方でした」
「そうか」
「あの人、三冊目のノートを買ったそうです。うちの商品じゃないやつ」
「浮気だな」
「そうですね」
葵は笑った。悠人も笑った。
「先輩、十二月の稼働は立ち会うんですか」
「立ち会う。担当者だから、当日は現地だ」
「何時からですか」
「土曜の夜から、日曜の朝まで。切り替えの作業がある」
「じゃあ、その週末は無理ですね」
「無理だ」
葵はグラスの縁を指でなぞった。
「私も、十一月は無理です。試作の立ち会いで、二回工場に行きます」
「工場はどこだ」
「静岡です。川島さんと行きます」
「遠いな」
「遠いです」
二人とも、それ以上は言わなかった。会えない予定を並べているだけの会話なのに、不思議と、暗くならなかった。
◆
「藤井」
「はい」
「今日、企画の会議だっただろう」
葵はグラスを持つ手を止めた。
「なんで知ってるんですか」
「先週、金曜だと言っていた」
「言いましたっけ」
「言った」
葵は少し黙って、それから話した。
田代が数字を読み上げたこと。川島が「作れます」と言ったこと。香川部長が判子を持つまで、宮下が黙って待っていたこと。話し始めると、思っていたより長くなった。
悠人は口を挟まなかった。一度も。
葵が話し終えると、彼は少し考えてから言った。
「それ、藤井が三つ動かしたということだな」
「三つ?」
「営業と、生産管理と、部長だ。三つとも、藤井が順番に会いに行った」
「先輩が、順番の問題だって言ったからです」
「言ったのは俺だが、歩いたのは藤井だ」
葵は、グラスに映った自分の手元を見た。
嬉しい、と思った。それから、もう一つ気づいたことがあった。
今日、会議が終わってから今まで、彼女がこの話をした相手は、一ノ瀬でも母でもなく、この人が最初だった。誰に話したいかで、その日の意味が決まる。そういうことが、たぶんある。
「先輩」
「なんだ」
「今日、これを話す相手がいてよかったです」
悠人は返事に困ったような顔をした。困ったまま、「そうか」と言った。
◆
二杯目が来たところで、葵は鞄から紙袋を出した。
「これ」
「なんだ」
「九月十六日に渡すはずだったやつです」
悠人が紙袋を受け取って、中を見た。ガラスの瓶が一つ入っている。ラベルに、濃い青の丸が印刷してあった。
「『夜半』っていいます。夜の半ばと書いて、『よわ』です」
「……ありがとう」
悠人は瓶を明かりにかざした。それから、内ポケットから万年筆を出した。神保町で買った、あの一本だった。
「入ってるのは」
「時雨だ。まだ一本目だ」
「三ヶ月で使い切らないんですか」
「そんなに書かない」
葵はもう一度鞄に手を入れて、今度は手帳を出した。
布張りの、角の擦り切れた『アーカイヴ』の試作品。六月十七日に雨に濡らして、社史の本で三日間押さえて、それでも十数ページのインクが滲んだまま戻らなかった手帳。
葵はそのページを開いて、カウンターの上に置いた。
青い染みが横に流れて、行の境目が溶けている。かろうじて「打ち合わせ」の四文字だけが残っている。
「これ、読めなくなったページです」
「ああ。あの日のか」
「ここ、まだ余白があるので」葵は右下の空いたところを指した。「書いてもらえませんか」
悠人は万年筆のキャップを外した。考えをまとめてから書いた。
葵が覗き込むと、そこには一行だけあった。
『6/17 藤井の傘が壊れた日』
葵はその一行を見つめたまま、動けなかった。
「藤井」
「はい」
「日付の欄が二つあるっていうのは、いい設計だと思う」
「……見たんですか」
「さっき、鞄から出したときに見えた。仕様は理解した」
「先輩、そういうところ」
「褒めている」
葵は手帳を閉じずに、そのまま置いておいた。
しばらくして、悠人が言った。
「俺は、また同じことをやると思う」
「はい」
「仕事が詰まると、一番近い問題から潰し始める。順番を間違える。それは性質で、直らないかもしれない」
「はい」
「だから、確認してほしい。俺が置いた前提が合ってるかどうか。おかしいと思ったら、二回言ってほしい。一回だと、俺は聞き流す」
葵は彼のほうを向いた。
「それ、口説いてます?」
「そういうつもりで言った」
「下手ですね」
「知っている」
葵はカウンターの木目を見た。よく磨かれていて、二人の手の影がぼんやり映っていた。
「じゃあ、私からも」
「うん」
「私、まだ何も書いてないページのほうが、ずっと多いので。……たぶん、失敗もします。この前みたいなことも、もう一回するかもしれない」
「するかもしれない」
「そこは否定してくださいよ」
「事実の確認をしただけだ」
葵は笑って、それから、少し姿勢を戻した。
「あと、一つだけ」
「うん」
「連絡が減ったら、減ったって言ってください。先に謝らないで、そのときに」
「わかった」
「言ってくれたら、待てます」
悠人はグラスを置いた。置いてから、「わかった」ともう一度言った。
葵は笑った。それから、少し息を吸って、言った。
「悠人さん」
悠人が固まった。
「……いま、なんて」
「悠人さん、って言ってみました」
「やめてくれ」
「気持ち悪いですか」
「気持ち悪い。背中がむずむずした」
「ですよね」葵は笑った。「先輩でいいです」
「頼む」
葵はカウンターの上に、右手を置いた。
置いてから、自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。ただ、置いた。
悠人がそれを見た。
三秒くらいかかった。葵は数えていた。彼はいつも、動く前に一度計算する人だった。
やがて、悠人の左手が、その上に重なった。




