第二十五話 目的地
202X年十二月十四日、日曜日。六時四十分。
『終わった』
葵がその二文字を見たのは、目が覚めてすぐだった。送信時刻は五時十二分。
『稼働、無事に済んだ』
『残高、合ってました?』
『合ってた。一円も』
葵はベッドの中で笑った。
『おめでとうございます』
『ありがとう。今から寝る』
『何時間寝ますか』
『……計算しない』
◆
十二月十九日、金曜日。
役員会を通った、と宮下から聞いたのは、夕方だった。
「来期の第二クォーターで出す。四月に量産の日程を組んで、六月に店頭」
「はい」
「藤井さん、顔」
「え」
「変な顔してる」
葵は自分の頬を触った。たしかに、力が入っていた。
そのあと、宮下が机の下から紙袋を出した。
「これ、川島さんから」
中に、A5の本が二冊入っていた。
表紙は薄い灰色。手に取ると、想像していたより少し重い。開くと、左ページに、ほとんど見えないくらい薄い罫線。右ページは白紙。見開きの右下に、日付欄が二つ。
試作ではなかった。三番工場で、量産と同じ工程で刷った第一号見本だった。
「二冊あるんですけど」
「一冊は藤井さんの。もう一冊は、川島さんが『予備』って言ってた」
宮下はそう言って、少しだけ口の端を上げた。
「あの人、予備を二冊出す人じゃないの」
◆
その夜、悠人から連絡が来た。
『二十七と二十八、空いた』
葵は画面を二度見た。
『二日ですか』
『二日だ』
『どうやって空けたんですか』
少し間があって、写真が一枚来た。
社用のスケジューラの画面だった。土曜と日曜に、終日の予定が入っている。件名の欄に、四文字だけ書いてある。
「藤井さん」
『先輩』
『なんだ』
『それ、会社の人に見えてます?』
『見えてる』
『恥ずかしくないんですか』
『予定は入れておかないと、埋まる』
葵は電車の中で、また笑った。周りの人が見ていたが、今度は気にしなかった。
◆
十二月二十七日、土曜日。
新宿を九時二十分に出る特急に乗った。
窓際に悠人、通路側に葵。座ってすぐ、悠人は鞄を膝に載せた。
「先輩」
「なんだ」
「パソコン、出さないんですか」
「持ってきてない」
葵は目を丸くした。
「本当に?」
「本当だ。鞄の中は、着替えと、充電器と、本が一冊だ」
「何の本ですか」
悠人は少し口ごもって、それから出した。
文具の会社が出している、万年筆のインクの図録だった。
「……先輩」
「藤井の会社のじゃない。他社のだ」
「浮気ですね」
「勉強だ」
葵は声を出して笑った。前の座席の人が振り返った。
多摩川を渡り、住宅地が畑に変わり、山が近づいてくる。八月に来たときと、窓の外の色が全部違っていた。枯れた色と、その上の高い空。
悠人は眠らなかった。図録を最初のページから順に見ていた。ときどき指を止めて、色の名前のところを読んでいた。
◆
美術館の芝生は、冬枯れて茶色になっていた。
人は八月より少なかった。空気が澄んでいて、彫刻の輪郭が近く見えた。
「これ、素材が青銅と書いてある」
「知ってます」
「錫の比率で色が変わる」
「それも八月に聞きました」
「そうか」
「先輩、四ヶ月前と同じこと言ってます」
「覚えていたということだ」
葵は笑った。
斜面を登ったところに、ステンドグラスの塔がある。
入口の手前で、葵は自分から立ち止まった。
「先輩」
「うん」
「ここ、前に来たことがあるって、八月に言えなかったんです」
悠人は振り返った。
「知ってる。九月に聞いた」
「はい」
「それを、今日また言うのか」
「言います」
葵は自分の靴の先を見て、それから顔を上げた。
「言わなかったことを、言えるようになったかどうか、確かめたくて」
悠人は少しのあいだ黙っていた。
「確かめられたか」
「はい」
「じゃあ、行くか」
葵は頷いた。
「あと、一つだけ」
「うん」
「今日は、二回目じゃないです。先輩と来るのは、一回目なので」
◆
中に入ると、光が降ってきた。
冬の日差しは八月より低い角度で入ってきて、色の柱が斜めに立っていた。赤も青も、夏より濃かった。
二人は螺旋階段の途中で足を止めた。
「上から降りてくる青、あれ」
「うん」
「藍鉄です」
悠人が葵のほうを見た。
「色の名前だな」
「はい」
「八月は言わなかった」
「言えませんでした」
悠人は天井を見上げたまま、頷いた。
「今日は聞けた」
◆
宿は、坂の途中の小さな旅館だった。
夕食のあと、部屋の窓を開けると、風呂の湯気のにおいと、冷えた空気が一緒に入ってきた。
葵は鞄から、紙袋を出した。
「これ、渡そうと思って」
悠人が受け取って、中を見た。
薄い灰色のA5の本が、二冊入っている。
「これが」
「『プレリュード』です。第一号見本」
悠人は一冊を取り出して、開いた。左の薄い罫線を指でなぞって、右の白紙を見て、それから右下の日付欄で止まった。
「二つある」
「はい」
彼はしばらくそこを見ていた。
「一冊は俺にか」
「はい」
「俺は書かないぞ」
「知ってます」
葵は自分のぶんを取って、膝の上で開いた。
「でも、持っててください。書かない人が持ってるところが見たいので」
「意味がわからん」
「私にもわかりません」
葵は鞄から万年筆を出した。自分の一本だった。
最初の見開きの、右下。「書いた日」の欄に、今日の日付を書いた。
十二月二十七日。
悠人が横から覗き込んだ。
「下は」
「まだです」
「いつ書くんだ」
「読み返したときに書きます」
葵はペンのキャップを閉めた。
「いつになるかは、決めてません。それでいいんです。そういうふうに作ったので」
悠人は自分の一冊を、鞄の内側にしまった。しまい方が、少し丁寧だった。
窓を閉めて、灯りを落とした。
◆
十二月二十八日、日曜日。
夜半に雨が降ったらしい、と葵が知ったのは、朝、障子を開けたときだった。
庭の石が濡れて黒くなっていて、その上に朝の光が当たっていた。空はもう晴れている。雨は上がったあとだった。
冷たい空気が、部屋の中に流れ込んできた。
「先輩、雨降ってたみたいです」
布団の中から、返事が来た。
「聞こえてた」
「起きてたんですか」
「三時ごろに一回。屋根に当たる音がしていた」
「なんで起こしてくれないんですか」
「起こす理由がない」
「見たかったです」
悠人はしばらく黙って、それから言った。
「じゃあ、次は起こす」
◆
帰りの特急に乗ったのは、十五時過ぎだった。
乗って七分で、悠人は寝た。
葵は数えていた。八月と同じだった。あのときは新宿で起こしたが、今日は起こさないことにした。
窓の外を、冬の陽が流れていく。彼の頭が、少しずつこちらに傾いてきて、肩に触れた。触れてから、そこで止まった。
小田原を過ぎたあたりで、悠人が目を覚ました。
「……寝た」
「寝ましたね」
「起こしてくれ」
「起こしません」
「なぜだ」
「今日は起こす理由がないので」
悠人が黙った。葵は笑った。
しばらくして、彼が言った。
「藤井」
「はい」
「三月に、三日続けて休める週がある。連休だ」
葵は彼のほうを向いた。
「調べたんですか」
「調べた。会社の年間カレンダーと、稼働後の保守の当番表を突き合わせた」
「先輩、そういうところ」
「褒めているのか」
「褒めてます」
悠人は座席のテーブルを指で二回叩いた。
「そこ、空けておく」
「私も空けます」
「どこに行く」
葵は少し考えて、それから言った。
「私が決めます」
「決めていいのか」
「決めましょう」
彼女は鞄から手帳を出して、ペンのキャップを外した。
「決めたほうが、先輩は楽しそうなので」
悠人が何か言いかけて、やめた。
葵は三月のページを開いて、日付の上に線を引いた。それから、まだ何も書いていない余白に、ペンを下ろした。
悠人が横から覗き込んできたので、彼女は手帳を少しだけ傾けて、見せた。




