第八話 二冊目の途中
202X年八月十二日、火曜日。
お盆前の会社は、人が半分しかいなかった。
商品企画部で出社していたのは葵と一ノ瀬と、もう一人だけだった。エアコンの設定が二十六度から動かせないので、フロアの奥のほうは蒸していた。
葵は午前中に企画書のフォーマットを直し、午後は倉庫に降りて過去三年分の試作品の棚卸しをした。段ボールを開けて、中身を数えて、リストと突き合わせる。頭を使わない作業だった。
頭を使わない作業をしていると、別のことを考えてしまう。
スマートフォンが、作業着のポケットで震えた。
『お盆って、日本だと会社休みだっけ』
榊智也からだった。
箱根の日から三日おきに来ていた連絡は、八月に入って二日おきになり、先週から毎日になった。葵は自分でその頻度を数えていない。数えていないふりをしていた。
『部署によります。私は明日から』
『いいなあ。こっちは普通に平日』
『シンガポールってお盆ないんだ』
『ない。旧正月がでかい代わりに、夏は何もない。八月九日が建国記念日で、それだけ』
『花火とか上がるの?』
『上がるよ。マリーナベイのところで。今年も見た』
三分後に、写真が一枚送られてきた。
高層ビルの群れの上に、白い花火が開いている。手前に人の頭がたくさん写り込んでいて、誰かのスマートフォンの画面が光っていた。
『きれい』
『でも、一人で見ると三分で飽きる』
葵は段ボールの縁に手をかけたまま、その一行を読んだ。
智也のメッセージには、こういうものが混ざる。自慢話の最後に、必ず小さく穴が開いている。その穴が本当なのか、そう見せているのかを、葵は判断できなかった。判断できないまま、返信を打っていた。
『次は誰かと見なよ』
『誰と?』
葵は返さなかった。
十分後、智也から次が来た。
『ごめん、変なこと言った。忘れて』
その引き際も、うまかった。
◆
倉庫から上がってきたとき、一ノ瀬が自販機の前にいた。
「藤井さん、埃だらけですよ」
「倉庫にいたから」
「なんか、最近スマホよく見てません?」
葵は手を止めた。
「見てる?」
「見てます。今日だけで三回くらい、作業しながら」
葵は肩をすくめようとして、やめた。
「昔の知り合いから、急に連絡が来てて」
「元カレですか」
「なんでわかるの」
「顔です」
一ノ瀬はミルクティーのボタンを押した。
「で、どうなんですか」
「どうも。ただの近況報告だよ」
「藤井さん、その言い方は、なんかあるときの言い方です」
「ない」
「ないならいいんですけど」一ノ瀬は缶を取った。「私、恋愛には口出さない主義なんで。でも、これだけは言っときます」
「なに」
「近況報告なら、頻度が上がらないです」
葵は答えられなかった。
一ノ瀬は「じゃ、お先です」と言って、フロアに戻っていった。
葵は自販機の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
やましいことは何もない、と自分に言い聞かせた。実際、何もしていない。昔の知り合いと、メッセージのやりとりをしているだけだ。悠人とは付き合っていない。まだ何も約束していない。
言い聞かせているという時点で、それが答えだった。
◆
八月十七日、お盆休みの最終日。
葵は実家に帰らなかった。理由は特にない。三日間、部屋の掃除をして、映画を二本観て、あとは寝た。
二日目の夜、智也から長いメッセージが来た。
『こっちに来て三年経つけど、いまだに休日の使い方がわからない。日本人の駐在員のコミュニティはあるんだけど、全員が全員、二年後にはいない前提で付き合ってるから、深くならないんだよね。当たり前だけど』
『職場も同じで、僕の下に六人いるけど、うち四人は現地採用で、二年で辞める。名前を覚えたころに辞める。それが普通だから誰も気にしてない』
『葵と話してると、自分がちゃんと三年前とつながってる気がする』
葵はその文面を三回読んだ。
三年前とつながっている。その言葉が、体温のある手のように、彼女の肩のあたりに置かれた気がした。
彼女はベッドに横になったまま、天井を見た。
悠人から最後に連絡が来たのは、二日前だった。『今週は無理そうだ』の一行。
比べてはいけない、と思った。悠人は今、崖のふちにいる。智也は暇なのだ。忙しさの差を、気持ちの差だと読んではいけない。
そう考えられるだけの理性が、葵にはあった。
あったが、理性は文章の温度に勝たなかった。
彼女は返信を打った。
『私も。三年前の私は、今より元気だった気がする』
送ってから、これは言いすぎた、と思った。だが取り消さなかった。
智也の返事は、五分後に来た。
『今の葵は元気じゃないの?』
葵は画面を見つめた。
悠人には、同じ質問を、七月に一度されている。井の頭公園のベンチで、汗を拭きながら。あのとき彼女は「三年間同じものを作ってる」と答えて、彼は解決策を出そうとした。
智也は、そうしないだろう。
彼女はそれがわかっていて、打った。
『元気じゃないかも』
◆
202X年八月二十三日、土曜日。
悠人とは、三週間ぶりに会った。
場所は品川で、理由は「そこなら一時間で会社に戻れるから」だった。
カフェの二階の窓際で、悠人はアイスコーヒーを飲んだ。ストローを使わずに、氷ごと傾けて飲む。彼が座ってから、テーブルの上のスマートフォンは一度も伏せられなかった。画面が三回光った。三回とも彼は見た。
「先輩、寝てます?」
「寝てる」
「何時間」
「……計算しないことにした」
「前は計算するって言いました」
「計算すると、寝ないほうがいいという結論になる」
葵は笑おうとした。うまくいかなかった。
悠人の顔は、七月の井の頭公園のときより、明らかに削れていた。頬の線が出ていて、髭を剃った跡が青い。座り方も違った。背もたれに触れず、いつでも立てる角度で座っている。
「仕事、そんなに大変なんですか」
「大変だ」
「どういうふうに」
悠人は少し考えた。
「予定より、遅れてる」
「どのくらい」
「二週間ぶんだ。それを、五日で取り戻す方法を考えてる」
「取り戻せるんですか」
「取り戻せる」悠人は言った。「来週、提案する。ただ、先に一つ確認しないといけないことがある。それが済めば問題ない」
「それ、いつ済むんですか」
「来週中だ」
葵はその言い方に、少し安心した。数字と期限が入っている話し方は、彼が制御できている話し方だと思った。
あとから思えば、それは逆だった。制御できていないから、数字にすがっていた。
一時間ちょうどで、悠人は立ち上がった。
「すまん。戻る」
「はい」
「今日、来てくれてありがとう」
そう言って、彼は伝票を持ってレジへ行った。階段を降りていく背中を、葵は窓から見た。彼は駅のほうへ、少し速く歩いていった。
葵はテーブルに残って、氷の溶けたグラスを見ていた。
嫌な気持ちではなかった。ただ、なんとなく、自分が「予定の一つ」だったような感じが残った。一時間の枠に入れられて、きっちり一時間で終わった。
その感じを言葉にしないまま、彼女は鞄からスマートフォンを出した。
智也からのメッセージが二件、たまっていた。
『今日、土曜だね。何してる?』
『前に葵が言ってた、鎌倉の喫茶店の名前なんだっけ。同僚に聞かれて思い出せなかった』
葵は指を止めた。
鎌倉の喫茶店の話を、彼女が智也にしたのは四年以上前だ。あの店はもうない。二年前に閉店したことを、葵はインターネットで知っていた。
それでも、覚えていた人がいる。
彼女は返信を打った。打ちながら、自分がさっきまでの一時間のことを、もう考えていないことに気づいていた。




