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雨上がりのプレリュード  作者: 久遠 睦


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第二部 置いた前提  第七話 言わなかったこと

202X年八月九日、土曜日。箱根。


 箱根の野外美術館に行こうと言い出したのは、葵のほうだった。


 言ってしまってから、後悔した。だが撤回する理由を思いつかなかった。「そこは前に別の人と行ったので嫌です」と言えば済む話だったのに、それを言うためには、別の人が誰なのかを説明しなければならなかった。


 新宿から特急で一時間半。悠人は座席に着いてすぐ、ノートパソコンを開いた。


「すまん。三十分だけ」


「どうぞ」


 葵は窓の外を見ていた。多摩川を渡り、住宅地が畑に変わり、山が近づいてくる。悠人のキーボードの音が、規則正しく続いていた。


 三十分きっかりで、彼はパソコンを閉じた。


「終わった」


「早いですね」


「三十分と言ったからな」


 悠人は蓋の上に手を置いたまま、長く息を吐いた。目の下に薄く影ができていた。七月の終わりから、彼のメッセージは短くなっていた。時間も遅くなっていた。深夜一時に「今から帰る」というのが二度あった。


「先輩、寝てます?」


「寝てる」


「何時間」


「……計算していない」


「計算してください」


「今度する」


 葵は笑った。笑いながら、彼が窓の外に目をやったとき、その横顔がひどく薄いことに気づいた。


◆


 美術館は、山の斜面をそのまま使った広い野外展示だった。八月の日差しの下、芝生の上に彫刻が点々と立っている。


 二人はゆっくり歩いた。悠人は作品より先に解説板を読む人だった。


「これ、素材が青銅と書いてある」


「そうですね」


「青銅というのは、銅と錫の合金だ」


「知ってます」


「錫の比率で色が変わるらしい」


「先輩、絵を見てください」


 悠人は素直に絵のほうを向いた。それから五秒くらい見て、「わからん」と言った。葵は声を出して笑った。


 昼は、園内の木陰の階段に座って食べた。売店で買ったサンドイッチと、瓶のラムネ。芝生の向こうで、小学生くらいの子どもが彫刻の周りを走り回っていて、母親らしい人が三回呼んでいた。


 葵はスマートフォンを構えた。


「先輩、そのままで」


「撮るのか」


「撮ります」


「やめてくれ」


「もう撮りました」


 画面を見ると、悠人がラムネの瓶を持ったまま、口を半分開けて抗議している写真が撮れていた。葵は声を出して笑った。


「消してくれ」


「消しません」


「藤井」


「先輩、部室でも同じこと言ってましたよ」


 悠人は答えるまでに間を置いた。


「……そうだったか」


「そうです。撮られるの嫌いなくせに、現像は誰よりうまかったです」


「暗室が嫌いだっただけだ。狭いところが駄目でな」


 葵は写真を見返しながら、ふと気づいた。


 今日、彼女がスマートフォンを構えたのは、これが初めてだった。この三年、旅行に行っても、彼女はほとんど写真を撮らなくなっていた。撮ってどうするのか、と思ってしまうからだった。撮った写真を貼るためのノートを作る仕事をしているのに、自分は何も貼っていない。


「藤井」


「はい」


「その写真、あとで送ってくれ」


「え、嫌がってたのに」


「嫌だが、いる」


 葵はまた笑った。


 斜面を登ったところに、ステンドグラスの塔がある。円筒形の建物で、中に螺旋階段が通っていて、壁一面が色ガラスになっている。


 入口の手前で、葵の足が止まった。


 三年前の十月にも、彼女はここに立っていた。同じ入口の、同じ位置に。あのときは榊智也が先に階段を上がっていって、途中で振り返って「早く」と言った。葵は追いかけながら、この人と結婚するんだろうな、と思った。理由はなかった。ただ、色ガラスを通った光が彼の白いシャツの上を滑っていくのを見て、そう思った。


「藤井」


 悠人が振り返っていた。


「行くか」


「……はい」


 中に入ると、光が降ってきた。


 赤、青、黄、緑。ガラスを通った光が階段にも壁にも自分の腕にも落ちていて、上を見上げると天井まで色の柱が立っていた。葵は思わず息を止めた。三年前と同じだった。何ひとつ変わっていない。


 悠人が隣で天井を見上げていた。


「すごいな」


「はい」


「これは、わかる」


 葵は彼を見た。悠人は真顔で天井を見ていた。


「さっきの彫刻はわからなかったんだが、これはわかる。理由は説明できないが」


 その言い方が、神保町のインクのときの自分の言葉と同じ形をしていることに、葵は気づいた。


「先輩」


「うん」


「……いえ」


 言おうとして、やめた。


 ここに前に来たことがあります、と言えばよかった。誰と来たかまで言わなくても、それだけなら言えたはずだった。言わなかったのは、悠人が「誰と」と聞くかもしれないからではなかった。彼は聞かないだろう。聞かないだろうとわかっているのに言わないというのは、隠したということだ。


 葵は自分がいま、この色の中で、三年前の記憶と今日の記憶を重ねて持っていることを自覚した。そして、そのことを隣にいる人に知らせないと決めたことも。


 階段を降りるとき、悠人が言った。


「藤井、今日は色の名前を言わないんだな」


「え」


「神保町では、インクの色にいちいち名前をつけてただろう。時雨とか。今日はここまで一回も言ってない」


 葵は足を止めた。


「……言ってました?」


「言ってた。楽しそうだった」


 悠人は先に降りていった。葵はもう一度天井を見上げた。上から降りてくる青は、たぶん「藍鉄」に近い。三年前もそう思った。


◆


 帰りの特急で、悠人は眠っていた。乗って七分で寝落ちしたので、葵は数えていた。


 窓の外が暗くなっていく。葵はスマートフォンを開いた。写真フォルダに、今日撮った写真が四十枚ほど入っている。彫刻、芝生、悠人の後ろ姿。ステンドグラスの塔の中で撮った一枚は、光が強すぎて色が飛んでいた。


 写真を上げているSNSのアプリを開いて、その一枚を載せるかどうか迷って、やめた。


 そのとき、通知が一つ来た。


 個別のメッセージだった。差出人の名前を見て、葵は指を止めた。


 榊智也。


 二年半ぶりだった。


『久しぶり。元気にしてる?』


 葵は画面を見つめた。隣で悠人が小さく息をしていた。


 既読をつけないまま、アプリを閉じた。閉じてから、また開いた。もう既読はついていた。


 しばらくして、次のメッセージが来た。


『さっき仕事の資料整理してたら、昔の写真が出てきて。箱根の。急に思い出して連絡しちゃった。迷惑だったらごめん』


 葵は窓に映る自分の顔を見た。


 偶然だ、と思った。今日、自分が箱根にいたことを智也が知っているはずがない。どこにも上げていない。


 偶然だ。そう思ってから、その偶然が、あまりにも都合よくできていることに気づいた。


 それでも、葵の指は動いた。


『元気だよ。びっくりした』


 送信してから、鞄の中にスマートフォンを入れた。


 新宿に着いて、悠人を起こした。彼は一瞬何が起きたかわからないという顔をして、それから「すまん」と言った。


「寝てましたね」


「寝てた」


「何分か言いましょうか」


「言わなくていい」


 改札の前で別れた。悠人は「今日はありがとう。楽しかった」と言った。本当にそう思っている言い方だった。


 葵は電車に乗ってから、もう一度アプリを開いた。


 智也から返事が来ていた。


『よかった。葵、あのノートまだ作ってるの? 僕、シンガポールでも使ってるよ』


 葵の指が止まった。


 『アーカイヴ』の試作品を智也に渡したのは、彼が出発する二週間前だった。まだ発売前で、表紙の布地の色がひとつしかなかった頃だ。


 三年間ずっと同じものを作っている、と課長に言われた。誰も、その最初の一冊のことは覚えていない。


 葵は返事を打った。今度は、少し長い文章になった。



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