第六話 数字でしか見ない
202X年七月二十四日、木曜日。常磐文具、営業部。
三階に降りるのは、葵にとって気の重い用事だった。
商品企画部は五階にある。三階は営業部で、フロアの雰囲気がまるで違う。電話の声が大きく、机の上に段ボールが積んであり、壁のホワイトボードに得意先ごとの数字が手書きで並んでいる。企画部のフロアには数字が一枚も貼っていない。
宮下課長に言われて来た。
「藤井さん、あの三点、営業に見せてきて。田代さんに」
「意見をもらってこい、ということですか」
「ううん。断られてきて」
葵が意味を測りかねていると、宮下は付け足した。
「断られる理由を、あなたが自分の耳で聞いてきたほうがいい。私が伝言すると、あなたはたぶん納得しないから」
◆
田代は窓際の島にいた。四十代半ばの、日焼けした男だった。夏でもネクタイを締めていて、その締め方が少し緩い。
「ああ、企画の藤井さん。座って」
葵は三冊を机に置いた。田代は一冊目を手に取って、表紙を撫でて、開いて、閉じた。二冊目は開かなかった。三冊目は手に取りもしなかった。
「うん、いいと思うよ」
「ありがとうございます」
「で、これ、いくらで売るの」
「税抜き千六百円を想定しています」
「『アーカイヴ』が千四百円だよね」
「はい」
「二百円上がる理由は」
「表紙の布を三十六種類から選び直して、栞紐を二本に──」
「それ、店頭で言える?」
葵は言葉に詰まった。
「棚に並んでるとき、お客さんは説明を聞かないよ」田代は椅子の背にもたれた。「隣に千四百円の『アーカイヴ』があって、こっちが千六百円。表紙の布の話は書いてない。どっちが売れると思う?」
「……『アーカイヴ』です」
「そう。しかも、うちが自分で自分の首を絞めることになる。新しいほうが売れないだけならまだいいんだ。棚の面積は決まってるから、これを入れると『アーカイヴ』の面が減る。合計で下がる」
葵は膝の上で手を握った。
「じゃあ、どうすれば」
「値段を下げるか、別の棚に置けるものにするか」
「別の棚」
「今の売り場は『手帳・ダイアリー』。ここは冬しか動かない。夏に動く棚は別にある」
田代は指で机を二回叩いた。
「藤井さん。悪いけど、営業は数字でしか見ないよ。俺が意地悪してるんじゃなくて、俺が持ってく先の店が数字でしか見ないから」
「わかりました」
「わかってないと思うけどな」
葵が顔を上げると、田代は笑っていなかった。
「みんなここで帰るんだ。企画の人は。営業に見せに来て、数字の話をされて、『わかりました』って言って帰る。で、次の企画を持ってくる」
「……はい」
「五年ここにいるけど、数字を持ってきた人はいないよ」
「数字」
「これが何冊売れて、そのうち何冊が『アーカイヴ』からの乗り換えで、何冊が新規か。乗り換えが多いなら、うちの中で椅子を取り合ってるだけだ。新規が多いなら、棚を増やす交渉ができる」
田代は三冊を葵のほうに押し戻した。
「そこまで持ってきた人がいたら、俺は運ぶよ」
◆
五階に戻る階段の途中で、葵は踊り場に立ち止まった。
窓から、隣のビルの壁が見えた。灰色のタイルに、雨の跡が縦の筋になって残っている。
悔しいのかどうか、自分でもよくわからなかった。田代の言ったことは、一つも間違っていない。間違っていないことを言われたときに、人は言い返せない。
言い返せないまま、彼女は三年やってきた。
自席に戻ると、一ノ瀬が「どうでした」と聞いた。
「駄目でした」
「えー。田代さん、厳しいですもんね」
「厳しくはなかったよ。正しかっただけ」
葵は三冊を棚に戻した。棚には、去年の試作と、おととしの試作も並んでいる。同じ大きさの、同じ綴じ方の、表紙の色だけが違うノートが、九冊。
その九冊を見て、葵は初めて、少し気持ちが悪くなった。
◆
夕方、宮下に報告した。
会議室ではなく、フロアの端の打ち合わせ用の丸テーブルだった。宮下はノートパソコンを閉じて、葵の話を最後まで聞いた。
「うん。田代さんらしいね」
「課長は、あの返事がわかってて行かせたんですよね」
「わかってた」
宮下はマグカップを両手で持った。中身はとっくに冷めているはずだった。
「藤井さん。私、あなたの三年前の企画書、今でも持ってるの」
葵は顔を上げた。
「『アーカイヴ』の?」
「そう。あれね、企画書の三ページ目に、あなたの手書きのメモが挟まってた。コピーし忘れたやつだと思う。何て書いてあったか覚えてる?」
「……覚えてないです」
「『半券は捨てられないのに、なぜ貼る場所がないのか』」
葵は息を止めた。
書いた記憶が、遠くのほうで戻ってきた。二十四歳の夏、実家の引き出しから出てきた古い映画の半券を捨てられずにいて、その日のうちに企画書を書き始めた。
「あれは、質問だったのよ」宮下は言った。「答えじゃなくて。あなたはあのとき、答えられていない質問を持ってた。だから商品になった」
「今は」
「今のあなたは、答えばっかり持ってきてる」
宮下はマグカップを置いた。
「表紙の布を三十六種類から選びました。栞紐を二本にしました。それは全部、答えなの。誰が何に困ってるのかっていう質問がない」
葵は膝の上の手を見ていた。
「課長」
「うん」
「私、質問がないんじゃなくて、質問を思いつかないんだと思います」
「そうだと思う」
宮下はあっさり言った。慰めなかった。
「藤井さん。困ってないんじゃない? 今の自分が」
葵は答えられなかった。
「困ってる人は、質問を持ってる。あなたは三年前、半券を捨てられなくて困ってた。今、何に困ってる?」
窓の外で、電車が高架を走っていった。夕方の光が、宮下の眼鏡の縁に当たっていた。
「……わかりません」
「じゃあ、それが宿題」
宮下はノートパソコンを開いて、話は終わった、という顔をした。葵は「失礼します」と言って立ち上がった。
立ち上がってから、一つだけ聞いた。
「課長。生産管理の川島さんって、どういう方ですか」
宮下は画面から目を離さずに答えた。
「怖い。でも、嘘はつかない人」
「はい」
「まだ行かなくていい。持っていくものがないうちに行くと、二度目が重くなるから」
帰りの電車で、スマートフォンが震えた。
悠人からだった。写真が一枚、送られてきていた。
白い紙に、青い字で「テスト」と書いてある。字は、お世辞にもうまくなかった。
『やっと使った』
葵は思わず声を出して笑って、周りを見た。誰も見ていなかった。
『使うの遅すぎませんか』
『インクを入れるところで一回失敗した』
『どこにこぼしました』
『机だ。会社の』
『拭きました?』
『拭いた。だが跡が残った。時雨の跡が』
葵は電車の窓を見た。自分が笑っているのが映っていた。
『先輩、字が下手ですね』
『知ってる』
『でも、その紙、捨てないでください』
少し間があって、返事が来た。
『なんでだ』
葵は打とうとして、指を止めた。
最初に書いた一枚だからです、と打とうとした。それだと理由になっていない気がして、消した。
結局、こう送った。
『あとで見返すと、面白いので』
『わかった。取っておく』
それだけのやりとりだった。
葵は画面を消して、鞄に手帳を戻した。戻すとき、指が滲んだページのあたりに触れた。
この三年、彼女は自分の手帳を一度も見返していない。書いて、閉じて、次の日にまた開いて、書く。そのために作られたノートだった。彼女がそう作った。
電車が地上に出て、窓の外が明るくなった。
七月の終わりの空は、まだ高くなかった。




