第五話 逃げ場はどこですか
202X年七月十六日、水曜日。明栄システムデザイン株式会社、虎ノ門本社、九階。
その日の午前中に、悠人は前の案件の引き継ぎ書を出した。
A4で十四枚あった。三月に本番稼働した保守案件の、未解決の不具合が二十二件と、それぞれの回避策と、先方の担当者ごとの癖まで書いた。癖の欄は本来なくてもいいものだが、書かないと次の担当者が同じ地雷を踏む。
提出したとき、受け取った先輩社員が一枚目をめくって、「相葉、こういうの書くの好きだろ」と言った。
「好きではないです」
「じゃあなんで書くんだ」
「書かないと、また同じことが起きるので」
先輩は笑って、書類を鞄に入れた。
昼、悠人は社員食堂で日替わりを食べた。窓際の席から、虎ノ門の交差点が見えた。工事の囲いが去年からずっと立っていて、その向こうに新しいビルが半分だけ建っている。
東京に来て五ヶ月。悠人は、自分がこの街のどこにも属していない感じを、まだ持っていた。大阪では、駅から会社までのあいだに三軒の店の店主の顔を知っていた。ここでは、コンビニの店員の顔も覚えていない。
午後、内線が鳴った。
◆
「相葉。次、幸和銀行のリプレースだ」
課長の沢渡が、会議ブースの椅子に浅く腰かけて言った。五十過ぎの、いつも喉が涸れたような声の人だった。
「フェーズ2のリーダーやってくれ。勘定系の周辺、入出金と口座管理まわり」
悠人は資料を受け取った。表紙に「次期基幹系システム再構築 基本設計フェーズ」とある。厚さは二センチほどあった。
「規模は」
「全体で百二十人月。うちフェーズ2は三十人月。相葉の下に八人つく」
悠人は指先から血の気が引くのを感じた。前の案件では、彼はチームの一員だった。今度は、八人が彼の判断を待つことになる。
「スケジュールを見てもいいですか」
「見ろ」
悠人は資料をめくった。ガントチャートのページで手が止まった。
「課長」
「言うな。わかってる」
「基本設計が二ヶ月半です。この規模なら四ヶ月要ります。しかも、テスト工程にバッファがゼロです」
「わかってる」沢渡は天井を見た。「先方の役員会で稼働日が先に決まった。決まってから、うちに落ちてきた」
「それは」
「相葉」沢渡はこちらを見た。「断る話じゃない。取る話だ。おまえに振ってるのは、おまえならこの日程で組み替えられると思ってるからだ」
悠人は資料を閉じた。
断る選択肢がないことは、彼にもわかっていた。そして、断らない理由が自分の中にもあることも、わかっていた。大阪から来て六ヶ月、彼はずっと他人が作った不具合の後始末をしていた。今度は、最初から自分が作れる。
「やります」
「頼む」
沢渡が立ち上がった。ブースを出ていく背中に、悠人は一つだけ聞いた。
「課長。この案件、逃げ場はどこですか」
沢渡は振り返らずに答えた。
「ない」
◆
その日、悠人は二十二時まで会社に残って、資料を最後まで読んだ。
読み終わって、彼は白紙のA3を一枚出し、フェーズ2の工程を自分の手で引き直した。要件の確定から基本設計、詳細設計、製造、単体テスト、結合テスト。それぞれに必要な人日を書き込んでいく。
合計は、渡されたスケジュールより五週間長かった。
悠人はその紙をしばらく見ていた。五週間をどこかから作らなければならない。作れる場所は三つあった。要件確定を前倒しにするか、設計の粒度を落とすか、テストを削るか。
テストを削るのは論外だった。要件の前倒しは、こちらの努力では決まらない。残りは一つだった。
彼は「設計」の欄に丸をつけた。丸をつけただけで、その日は帰った。
◆
翌日、悠人は自分のチームになる八人と初めて顔を合わせた。
半分は他部署からの応援で、名前も知らなかった。一番若いのが三隅という二十五歳の男で、面談のとき「僕、まだ設計書を一人で書いたことがないんですけど、大丈夫ですか」と正直に言った。
「大丈夫だ」と悠人は答えた。「書いたことがないのは、書かせてもらってないからだ。書けないのとは違う」
三隅は少し驚いた顔をした。それから「はい」と言った。
その日の夕方、悠人は三隅に最初のドキュメントを振った。三隅は二日で持ってきた。中身は粗かったが、粗いところに全部コメントが入っていた。「ここ自信ないです」「ここは仮です」と、自分でわかっていない場所に印がついている。
悠人はそれを見て、この現場でいちばん信用できるのはこいつかもしれない、と思った。
◆
七月十八日、幸和銀行のキックオフがあった。
大手町のビルの十八階、五十人が入る会議室に、四十七人が集まった。銀行のシステム部、元請けのSIer、悠人の会社を含む二次請けが三社、パートナー企業が二社。名刺交換だけで四十分かかった。
冒頭、銀行の部長が十分ほど話した。要旨は二つだった。この案件は行内の悲願であること。稼働日は動かないこと。
その後、元請けの統括が全体スケジュールを説明した。悠人は資料をめくりながら、前の週に自分が引き直した工程と照らし合わせた。合わない箇所が四つあった。四つとも、こちらの見積りのほうが長い。
質疑の時間になって、悠人は手を挙げようとした。
挙げる前に、沢渡が横から資料の角を指で叩いた。
「ここじゃない」
悠人は手を下ろした。
会議が終わったあと、廊下で沢渡が言った。
「相葉。ああいう場は決まったことを共有する場だ。決める場じゃない。四十七人の前で工程に穴があると言ったら、穴を空けた奴の面子を潰すことになる」
「では、どこで言えばいいですか」
「フェーズごとの分科会だ。来週から始まる。そこは十人しかいない」
「わかりました」
沢渡はエレベーターのボタンを押して、そのあとで付け足した。
「相葉。おまえは正しいことを言う。それは強みだ。だが、正しいことを言う場所を間違えると、正しくないことになる」
◆
チームの八人のうち、悠人が名前と顔を覚えるまでに三日かかったのは、二人だけだった。
尾形は四十二歳で、他部署からの応援だった。無駄口を叩かない代わりに、指示にないことは一切やらない。悪意ではなく、そういう仕事のやり方をしてきた人だった。
堀川は三十歳で、口が早い。会議で誰よりも先に発言する。発言は的確なときと的外れなときが半々で、本人がその比率を気にしていない。
三隅は二十五歳で、いちばん若く、いちばん多く質問した。
「相葉さん。この項目、仕様書だと必須になってるんですけど、画面のモックだと入力欄がないです。どっちが正しいですか」
「どっちも正しくない。先方に聞く」
「聞いていいんですか」
「聞かないと決まらない。決まらないものを想像で埋めると、あとで全部やり直しになる」
三隅はメモを取った。取ってから、顔を上げた。
「相葉さん、それ、前の現場では怒られました」
「なんで」
「そんなことをいちいち聞くなって」
悠人は少し黙った。
「うちでは聞け」
三隅は「はい」と言った。その返事の速さを、悠人は覚えておくことにした。
◆
その夜、悠人は帰りの電車で葵にメッセージを送った。
『新しい案件のリーダーになった』
既読はすぐについた。
『おめでとうございます! すごいじゃないですか』
悠人は画面から目を離せなかった。すごい、という言葉に、どう返せばいいのかわからなかった。
『たぶん、しばらく忙しくなる』
『大丈夫ですか』
『大丈夫だ』
そう打って、送信した。それは、その時点では嘘ではなかった。




