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雨上がりのプレリュード  作者: 久遠 睦


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第四話 最短距離

202X年七月十二日、土曜日。井の頭公園。


 悠人は約束の十二分前に吉祥寺の改札を出た。


 早すぎる、とわかっていた。だが遅れる可能性を潰すには、これしかない。前の晩に乗り換えを三通り調べて、いちばん遅い経路でも間に合う電車に乗った。


 改札の脇に立って、彼は駅前のロータリーを見ていた。七月の日差しが、バスの屋根で白く跳ねている。バスを待つ列に、日傘が四本立っていた。


「先輩」


 振り返ると、葵がいた。麻らしい生地の、薄い青のワンピースを着ていた。


「早いですね」


「いや」


「私、五分前に着いたつもりだったんですけど」


「五分前だ」


「先輩は」


「……十二分前だ」


 葵が笑った。


 公園までは、駅から七、八分だった。商店街のアーケードを抜けて、細い坂を下る。両側に飲食店が並んでいて、まだ十一時前なのに、焼き鳥の煙のにおいがしていた。


 途中、葵が「あ」と言って足を止めた。


 小さな文具店だった。間口が二間ほどで、店先のワゴンにノートが積んである。


「入りますか」


「入らないです」葵は首を振った。「見るとチェックしちゃうので。今日はやめときます」


「チェック」


「値段と、綴じ方と、紙の厚みです。癖です」


「職業病だな」


「そうです」


 葵は歩き出した。悠人はその横を歩きながら、さっきの三秒のあいだに彼女が何を見たのかを考えていた。ワゴンの上には十冊以上あった。彼女はたぶん、全部見た。


 坂を下りきると、木が増えて、空気が二度くらい下がった。


 池が見えた。水面がぎらついていて、その上に白い塊がいくつも浮いている。


「先輩、あれ乗りましょう」


「あれ」


「スワンボート」


 悠人は目を細めた。


「三十分で七百円だ」


「なんで知ってるんですか」


「調べた」


「先輩、そういうところですよ」


◆


「そっちに漕ぐと岸だ」


「わかってます」


「わかってない」


 スワンボートの中で、悠人は前かがみになってペダルを踏んでいた。額に汗が浮いている。七月の日差しが水面で跳ね返って、下から顔を焼いてくる。


 葵は右のペダルを踏むのをやめて、笑っていた。


「先輩、真面目すぎます」


「真面目ではない。今、船首が三十度ずれてる。このまま行くと五分後にあの木にぶつかる」


「ぶつかりませんよ」


「ぶつかる」


 結局ぶつからなかったが、それは葵が笑いすぎて漕ぐのをやめたからだった。ボートは池の真ん中でゆっくり回転した。


 悠人はペダルから足を離した。汗を拭う。目の前で、葵が空を見上げていた。


「先輩、目的地決めてから漕いでますよね」


「そうだが」


「スワンボート、目的地ないですよ」


 悠人は答えるまでに間を置いた。


「……そうだな」


 言われてみればそのとおりだった。三十分借りて、三十分後に戻ればいい。それだけの乗り物だ。彼はさっきから、どうすれば最短距離で池を一周できるかを考えていた。


 葵が振り返って、こちらを見た。


「でも、そういうところ、ちょっと安心します」


「どういう意味だ」


「なんていうか。先輩と話してると、こっちが変なことを言っても、ちゃんと変なことだって扱ってくれる感じがして」


 悠人には、それが褒められているのかどうか判断がつかなかった。だが悪い気はしなかった。


 三十分が過ぎて、二人はボートを返した。木陰のベンチで、葵が鞄からペットボトルを二本出した。片方を悠人に渡す。


「藤井」


「はい」


「仕事、うまくいってるか」


 葵の手が止まった。


 悠人は自分の質問の唐突さに気づいたが、撤回する言い方も思いつかなかった。


「……なんでですか」


「この前、神保町で。文具の話をしてるときの藤井は、すごく速く喋るんだ。でも会社の話になると、ワンテンポ遅れる」


 葵はペットボトルの蓋を回して、また閉めた。


「三年前に作った商品が、ちょっと当たったんです」


 彼女は池のほうを向いて話した。


「それで、そのあとずっと、同じものを作ってて。この前、課長に言われました。あなた三年間、同じものを作ってるって」


「そうか」


「腹立つのは、そのとおりだからで」


 葵は笑おうとして、あまりうまくいかなかった。


 悠人は少し考えて、口を開いた。


「その三年前の商品は、なんで当たったんだ」


「え」


「当たった理由がわかってれば、次に何を変えればいいかも決まる。逆に、たまたま当たっただけなら、続きを作っても意味がない。切り分けたほうがいい」


 葵は悠人のほうを見た。何か言おうとして、やめた。


「……そう、ですね」


 その声のトーンが、さっきまでと違うことに悠人は気づいた。気づいたが、何が違うのかはわからなかった。


「変なこと言ったか」


「いえ。合ってます。合ってるんですけど」葵は口の端だけで笑った。「今のところは、たぶん、私が聞きたかったのはそれじゃなかったです」


「じゃあ何だ」


「わかりません」


 葵はそう言って、ペットボトルの水を飲んだ。


 悠人は自分の手元を見た。今のは失敗だったらしい、ということだけはわかった。ただ、どこで間違えたのかがわからなかった。彼にとって、問題を提示されるということは、解を求められているということと同義だった。二十年以上そうしてきた。


「藤井」


「はい」


「今の、忘れてくれ。もう一回言うから」


 葵が目を丸くした。


「三年間同じものを作ってるって言われたら、それは、しんどいな」


 しばらく間があって、葵が吹き出した。


「なんですか、それ」


「言い直した」


「言い直しました?」


「した」


 葵は笑い続けた。笑いながら、指で目のふちを拭った。


「ありがとうございます」


「……おう」


 悠人は自分の膝を見ていた。顔を上げると、木漏れ日が動いていた。


◆


 昼を過ぎて、二人は池を回る道を歩いた。


 木陰が続いていて、蝉が鳴いていた。ジョギングをしている人と、犬を連れた人と、三脚を立てて水鳥を撮っている人が、順番に横を通り過ぎた。


「先輩、写真撮らないんですか」


「撮らない」


「写真部だったのに」


「撮るのは苦手だった。あれは、撮る前に決めることが多すぎる」


「決めるの、得意じゃないですか」


「決めるのは得意だ。だが、決めた理由を説明できないものは苦手だ」


 葵は少し考えて、言った。


「じゃあ、なんで写真部に入ったんですか」


 悠人は歩きながら答えた。


「入ったんじゃなくて、残ったんだ。一年のときに五つくらい見に行って、写真部だけ、勧誘してこなかった」


「それだけ?」


「それだけだ」


 葵が笑った。


 橋のところで、彼女が立ち止まって、スマートフォンを構えた。悠人は反射的に一歩下がった。


「撮りませんよ」葵はレンズを池のほうに向けていた。「先輩は撮りません」


「そうか」


「撮っていいですか」


「よくない」


「ですよね」


 彼女は水面を撮った。二枚撮って、画面を見て、一枚消した。


 悠人はその横顔を見ていた。


 この四ヶ月、彼が会った人間のほとんどは、彼に何かを求めていた。進捗、見積り、回答、謝罪。求められること自体は仕事だから当然だが、求められない時間というものが、いつのまにか一日の中から消えていた。


 今日、彼は何も求められていない。ボートをまっすぐ漕げなくても、誰も困らない。


 こういう時間を、なんと呼ぶのだったか。悠人は言葉を探して、見つからなかった。


 駅までの坂を、二人は登った。行きより暑かった。


 改札の手前で、葵が振り返った。


「先輩、今日ありがとうございました」


「ああ」


「スワンボート、二回目があったら、今度は目的地を決めましょう」


「決めていいのか」


「決めましょう。決めたほうが、先輩は楽しそうなので」


 悠人は何か返そうとしたが、ちょうど電車が入ってきて、アナウンスがそれを消した。葵は手を振って、反対側のホームへ降りていった。


 帰りの電車で、悠人はスマートフォンを開いた。未読が十四件あった。全部仕事だった。


 彼はそれを一件も開かずに、画面を消した。




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