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雨上がりのプレリュード  作者: 久遠 睦


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第三話 時雨

定時を三十分過ぎて会社を出た。神保町の駅までの道を歩きながら、スマートフォンを開く。


 相葉悠人からのメッセージが来ていた。三日前から、ぽつぽつと続いている。長い文章ではない。ただ、返事が必ず来た。


『土曜、空いてる?』


 葵は歩きながら打った。


『空いてます』


 既読はすぐについた。


『どこか行きたいところある?』


 葵は歩調を緩めて、打った。


『先輩の行きたいところがいいです』


 駅前への角を曲がったころ、返事が来た。


『あんまり外に出てないから、思いつかない』


 正直だな、と葵は思って、笑ってしまった。


◆


 金曜の夜、葵はクローゼットの前で三十分立っていた。


 自分でも馬鹿げていると思った。大学の先輩と、五年ぶりに近況を話すだけの土曜日だ。それ以上でもそれ以下でもない。相手だってそういうつもりで誘っている。


 それでも、選び直した。三着目で決めた。


 決めてから、ベッドに座って、乾かした手帳を開いた。


 六月十七日から前の十数ページは、まだ読めない。青い染みが横に流れて、行の境目が溶けている。その手前、五月の終わりのページには、通らなかった企画のメモが残っていた。「表紙素材 再検討」「栞紐 二本案」。読める字は全部、三年前の続きの話だった。


 葵はページを繰った。繰りながら、自分がこの三年、この手帳に何を書いてきたのかを見ていた。


 予定と、仕様と、直しの指示。それだけだった。


 最後のページまで来て、彼女は閉じた。


◆


 土曜日、二人は神保町で会った。葵が仕事帰りによく寄る文具店に、悠人を連れていった。


 三坪ほどの店で、壁一面がインク瓶の棚になっている。悠人は店に入るなり、身構えたように立ち止まった。


「多いな」


「そうですね」


「これ、全部違う色なのか」


「はい。三百くらいあります」


 悠人は棚の前に立って、ラベルを一つずつ見ていった。


「……用途は」


「用途?」


「いや。仕事で使うなら黒でいい。黒で足りるはずだ。じゃあこの三百色は何のためにあるんだろうと思って」


 葵は目を瞬いてから答えた。


「足りるかどうかで選ばないからじゃないですか」


 悠人が振り返った。


「たとえばこれ、『時雨』っていう名前なんですけど」葵は瓶を一つ指した。灰色がかった青。「この色じゃないと嫌だっていう人がいるんです。理由を聞いても、うまく説明できない。でもその人にとっては、黒じゃ駄目なんですよ」


 悠人は瓶の灰色がかった青を見つめていた。


「なるほど」と彼は言った。「わからないけど、わかった」


 やがて、その瓶を手に取ってレジへ持っていった。葵は慌てた。


「え、万年筆持ってます?」


「持ってない」


「先輩」


「じゃあ、それも要るな」


 結局、悠人は入門用の万年筆を一本と、『時雨』のインクを一瓶買った。


◆


 文具店を出る前に、悠人はもう一つ質問をした。


「藤井。この店の棚、色の順に並んでるのか」


「はい。左から暖色で、右にいくほど寒色です」


「境目はどこだ」


 葵は棚の真ん中あたりを指した。


「たぶん、ここです。この緑と、この緑のあいだ」


「たぶん、なのか」


「そこは店主さんの感覚なので」


 悠人は棚を端から端まで見た。それから、少し首を傾げた。


「境目が説明できないものを、毎日並べ替えてるのか」


「そうですね」


「大変だな」


 葵は笑った。


「先輩、それ褒めてます?」


「褒めている。俺には無理だ」


 店主が奥のカウンターで、聞こえないふりをして笑っていた。

 店を出て、二人は靖国通りを歩いた。梅雨の合間の晴れで、湿った空気が熱かった。


「なあ」と悠人が言った。「藤井は、なんで文具の会社にしたんだ」


 葵は数歩進んでから答えた。


「大学のとき、写真部だったじゃないですか。私、現像より、あとでアルバムに貼るほうが好きだったんです。日付書いて、その日何があったか書いて。そういうのを作る側になりたかった」


「ああ」悠人は納得したように頷いた。「藤井、部誌の編集やってたな」


「よく覚えてますね」


「締切を三回破られたから覚えてる」


 葵が笑うと、悠人もつられて笑った。


 喫茶店は、路地を入った地下にあった。階段が急で、天井が低い。四人掛けの席が六つしかなくて、そのうち三つが埋まっていた。


 悠人はコーヒーを頼んだ。葵はクリームソーダを頼んだ。運ばれてきたとき、悠人がそれを二秒くらい見た。


「なんですか」


「いや。緑だな、と思って」


「緑ですね」


「そういう色のものを飲む人を、久しぶりに見た」


 話題の入口は、やはり大学のことだった。


 誰が誰と付き合っていたか。四年生のとき部長だった村瀬さんが、いまは新潟で家業の酒屋を継いでいること。暗室のタイマーが壊れていて、みんな自分の腕時計で計っていたこと。学園祭で貸し出した三脚が一本返ってこなくて、翌年の予算が減ったこと。


「あれ、返ってこなかったの、たぶん経済学部の人ですよ」


「証拠は」


「ないです」


「じゃあ言うな」


 葵は笑った。悠人は真顔だった。


「でも先輩、あのとき犯人捜しの表を作ってましたよね。貸出票と時間を照合して」


「作った。合わなかった」


「なんで作ったんですか」


 悠人はコーヒーを飲んで、しばらく考えた。


「探せると思ったからだ」


「見つからなかったのに?」


「見つからないというのは、探し方が悪いということだ。あのときは、貸出票の時刻が手書きだったのが敗因だった」


 葵はまた笑った。笑いながら、この人はずっとこうなのだ、と思った。七年前も、たぶん今も。


 二時間ほど話した。八割が昔のことで、二割が今のことだった。


 二割のほうは、あまり弾まなかった。悠人が仕事の話をすると、単語が途中から専門的になって、葵が「それは何ですか」と聞くと、彼は律儀に説明した。説明は正確で、そして長かった。三度目に「要件定義」という言葉が出たところで、葵は「先輩、それ楽しいですか」と聞いた。


 悠人は少し黙った。


「楽しくはない」


「じゃあ、何が楽しいんですか」


「動いたときだ」


 彼はカップを置いた。


「書いたものが、思ったとおりに動く。それだけだ。それ以外は全部、動かすための手続きだと思ってる」


 葵はその言い方を、しばらく頭の中で転がした。


「それ、私も同じかもしれないです」


「文具もか」


「はい。試作品が上がってきて、実際に書いてみて、思ったとおりの引っかかり方をしたとき。あの瞬間だけのために、あとの全部をやってる気がします」


 悠人が顔を上げた。目が合った。


「じゃあ、今は動いてないのか」


 葵は、答えるまでに少し時間がかかった。


「……動いてないです」


「そうか」


 悠人はそれ以上聞かなかった。聞かないまま、伝票を持って立ち上がった。


「割りましょうよ」


「次でいい」


 次、という言葉に、葵は少し驚いた。


 帰り際、地下鉄の階段の手前で、悠人が言った。


「また誘ってもいいか」


「はい」


 それだけのやりとりだった。


◆


 地下鉄の階段を降りながら、葵は自分の鞄の中を思った。


 中に、あの手帳が入っている。三年使って、雨で滲んで、直らなかったもの。


 今日、あの人にはそれを見せなかった。見せる理由がなかった。


 それでも、彼女は一日じゅう、その手帳を持っていた。


 ホームで電車を待ちながら、彼女はふと、こう考えた。


 もしこの手帳が新品だったら、今日という日は、まっさらなページに書かれることになる。


 でも実際には、この三年ぶんの後ろに書かれる。三年ぶんの、通らなかった企画と、消えた予定の、そのあとに。


 それを面倒だと思うか、そういうものだと思うか。


 葵は、そういうものだと思うことにした。


 電車が来た。


 電車の中で、葵は手帳を開いた。滲んでいないページに、今日の日付を書いた。


 それから、書くことがないことに気づいた。「相葉先輩と神保町」と書いてしまえば、それで終わってしまう。三年前の自分なら、もっと何か書けた気がした。半券を貼って、色の名前を書いて、その日の空の色を書いて。


 葵はペンを持ったまま、しばらく白いページを見ていた。結局、「時雨」とだけ書いて閉じた。




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