第6話 『先生』
眩い白光が、ゆっくりとキノの意識を浮上させた。
地下の湿った空気ではない、清潔な布と、微かな甘いココアの匂い。
「う……」
掠れた声が自分の喉から漏れる。
全身を、泥のように重い疲労感と、刺すような痛みが支配していた。
キノがゆっくりと目を開けると、そこは光の差し込む医務室だった。
「お…起きたか?」
聞き慣れた、少しとぼけたような声。
横を向くと、隣のベッドで上半身を包帯でぐるぐる巻きにしたキクラが、林檎を齧りながら笑っていた。
「キクラ…さん。」
「あの後、残った兵士が重傷者を運んでくれてな…」
「あの後…?」
キクラの話を遮るように、キノがその言葉を繰り返した。
自分の記憶は、地下牢でベニテングに手渡された槍の柄に触れ、独房から駆け出した所から、ぷつりと途切れている。
その後に自分がどうやって地上へ出て、何を思い、どう戦ったのか。
その空白の時間が、今のキノには一秒たりとも思い出せなかった。
「そうか…記憶が無いんだったな。」
キクラは納得したように頷き、頭を掻いた。
キキ、とベッドが軋む音がして、キノはキクラの向こう側のベッドに視線を移す。
そこには長い髪を下ろし、静かに本を読んでいる女性がいた。
分隊長のノキ・エノキタケだ。
彼女もまた、肩から腕にかけて厳重に固定されている。
「……おはよう、キノ。」
ノキが本を閉じ、涼やかな瞳をこちらに向けた。
戦場でのあの鋭い射手の面影はなく、今はどこか年上の姉のような、穏やかな空気を纏っている。
「本当に、何も覚えていないのね?」
ノキは静かにそう言うと、持っていた本をベッドの脇に置いた。
「え…あ、はい。」
キノは布団を握りしめ、不安そうに視線を落とした。
自分の知らない間に、理性を失って暴れ回ってしまったのではないか。
その恐怖が胸を締め付ける。
「怖がらなくていいわ。あなたは誰のことも傷つけていない。ただ必死に、私たちを守ってくれたのよ。……ありがとう、キノ。」
ノキの温かい言葉が、キノの胸の奥にすっと染み込んでいく。
キノはゆっくりと布団を握る力を緩め、張り詰めていた息を小さく吐き出した。
そんなキノの様子を見つめながら、ノキはふと不思議そうに首をかしげた。
「……ところで、一つ聞いてもいいかしら?あなた、地下牢に閉じ込められていたんじゃなかったの?どうやってあそこから出てきたの?」
「あ…」
ノキに問いかけられ、キノはぽつりぽつりと記憶をたどる。
「牢の中にいたら、おじいさんが来て……鍵を開けてくれたんです。それで、上の医務室から僕の槍を持ってきてくれて、行ってやり、って……」
「おじいさん?」
ノキが眉をひそめる。 隣のベッドのキクラも、怪我の痛みを忘れて身を乗り出した。
「おいおい、あの地下牢の鍵は特製の合金製で、隊長か俺ら分隊長、後は看守しか持ってないはずだぞ。おじいさんって、一体誰だよ?」
「それは…」
キノは必死に思い出そうとしたが、頭の中に霧がかかったように、名前だけが思い出せない。
「名前は、聞いたはずなんですけど、忘れちゃって……」
「名前を忘れた、ねぇ……」
ノキは少しだけ困ったように眉を下げたが、それ以上はキノを追及せず、「まずは休むことね」と優しく微笑んで話を打ち切った。
ーーその日の午後。 キノの脱走は、うやむやにはされなかった。
少しだけ動くようになった体を引きずり、キノは基地の会議室へと向かった。
部屋の中には、第四前線基地の兵士たち、そして全身に包帯を巻いてなお冷徹な威圧感を放つ隊長――リュフター・トラベルトの姿もあった。
「……以上が、ネガマリン・グルード襲撃時の被害報告、および現在の復興状況です。」
報告を終えた兵士が下がり、会議室に重苦しい沈黙が落ちる。
全員の視線が、部屋の真ん中に立つキノへと集まった。
「さて。本題に入ろう。」
兵士の一人が、キノを鋭く睨みつけながら重い口を開いた。
「キノ・トラベルト。お前が基地を救った功績は認める。だが、それとこれとは話が別だ。お前は地下牢に幽閉されていた身。それを勝手に脱走したとなれば、違反……最悪の場合、たけのこ軍への内通や、手引きしたスパイの存在を疑わねばならん。」
「……っ」
キノは奥歯を噛みしめる。
「僕は、内通なんて……!」
「では、どうやってあの地下牢から出た? あの牢の鍵は、隊長と分隊長、そして看守しか持っていない。自力で破った形跡もなかった。お前はおじいさんに開けてもらった、と主張しているようだが…その老人の素性も名前も分からんのでは、都合のいい作り話、あるいは敵の工作員と考えるのが自然だろう。」
会議室の空気がじりじりと熱を帯び、キノへの疑惑が確信へと変わりかける。
キノは助けを求めるように、奥に座るリュフターを見た。
しかし、リュフターはただ腕を組み、冷たい瞳で黙ってキノを見つめているだけだった。
(やっぱり、この人は僕を信じてくれないんだ……)
キノが絶望に視線を落としかけた、その時だった。
「全く、相変わらず頭の固い連中やのう。」
静かで、しかし驚くほど芯の通った声が、会議室の頑丈な扉を抜けて響き渡った。
ガチャリ、と扉が勢いよく開け放たれる。
「誰だ! 会議中だぞ!」
一人の兵士が怒鳴り声を上げる。
しかし、入り口に立った人物の姿を見た瞬間、会議室にいた全員の動きが凍りついた。
深く刻まれた皺と、雪のように白い髭。
ボロボロの外套を羽織っているが、その体から立ち上る闘気は、その場にいる誰よりも鋭く、重い。
そして何より、それまで氷のように冷徹だったリュフターの眉が、ピクリと大きく跳ね上がった。
白い髭の老人は、あきれ顔でキノの方を見ると、豪快に笑って見せた。
「名前を忘れたとは水臭いのう、キノ。――儂じゃよ、儂。ベニテングじゃ。」
ーーベニテング・ドルモッド。
かつてリュフターを最強の戦士に育て上げた、この場にいる誰もが頭の上がらない伝説の師が、不敵に笑いながら悠然と歩み出てきた。
「先生…?」
それまで頑なに沈黙を守っていたリュフターの口から、掠れた声が漏れる。
その蛇のように冷徹な瞳には、明らかな動揺が走っていた。
「なんやリュフター、そんな幽霊でも見たような顔をしおって。少し見ん間にずいぶん手痛いやられ方をしたようじゃな。情けないのう。」
ベニテングはリュフターの包帯まみれの体を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。
「……面目ありません。」
あの傲慢で冷酷なリュフターが、言い訳一つせず、ただ深く頭を下げた。
その光景に、キノだけでなく幹部たちすら息を呑む。
ベニテングはゆっくりと部屋の奥へ進むと、会議机の端に腰掛けた。
「キノを外に出したのは儂だ。鍵は、上の執務室の引き出しから勝手に拝借した。文句がある奴は一歩前へ出ぃ。」
静かだが、逆らう者を一瞬で塵にするような覇気が部屋を支配する。
兵士たちは誰一人として声を上げられず、ただ冷や汗を流して俯くしかなかった。
「お主ら、命を救われておきながら、恩人をスパイ扱いとは。いつからここは、志の低い恩知らずな組織に成り下がったんじゃ?」
「そ、それは……」
「今回の襲撃、この子が立ち上がらねば、お主らが今頃ここにいることはなかった。リュフター、お主もそう思うじゃろう?」
ベニテングに水を向けられ、リュフターはゆっくりと顔を上げた。
弟に向けるその眼差しは、依然として鋭く冷たい。
「……否定はしません。」
リュフターは冷徹に、それでいて簡潔に答える。
「今回の件は不問とする。異論は認めん。」
リュフターの絶対的な一言が、会議室の空気を完全に決定づけた。
隊長がそう断言した以上、兵士たちにこれ以上の追及など許されるはずもない。
「ふむ、話が早くて助かるのう。」
ベニテングは満足そうに口元を歪めると、会議机からひらりと飛び降りて、キノの隣まで歩み寄ってきた。
「ほれキノ。お主の無実は証明されたぞ。これからは堂々と胸を張って、この基地を歩くが良い。」
「あ……ありがとうございます、えっと…ベニ……おじいさん。」
「おじいさんとは失礼な! 儂はまだ現役のベニテング・ドルモッドじゃぞ。……まぁ、名前は追々覚えればええ。それより、まずは腹が減ったじゃろう?医務室に戻って飯にしよう!飯に!」
豪快に笑うベニテングの背中を見つめながら、キノは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
だが次の瞬間、ベニテングは後ろを振り向くと、信じられない言葉を口にした。
「これ、何をしておる。リュフター、お前もじゃぞ。」
「え?」
「なっ…」
キノとリュフターから同時に驚愕の声が漏れる。
「お主は此奴の兄じゃろう。飯くらい一緒に食うて、少しは面倒を見たらどうじゃ。」
その言葉が放たれた瞬間、静まり返っていた会議室に、文字通り冷や水が浴びせられた。
「え……?」
「今、なんて……?」
室内の兵士たちが一斉にざわつき、顔を見合わせる。
誰もがその衝撃的な事実に目を見張り、信じられないものを見る目で二人を凝視した。
兵士たちの困惑と驚愕の視線が、針のように鋭く突き刺さる。
「っ先生…!」
「何をこそこそ隠す必要がある。血の繋がりはどうあがいても消せぬわ。ほれ、行くぞ!」
ベニテングは、兵士たちの動揺など気にも留めない様子で、リュフターの包帯まみれの肩を掴み、同時にキノの背中をポンと叩いた。
「キノ、何をぼさっとしておる。置いていくぞ!」
「あ、はい! 待ってください!」
引きずられるようにして歩き出すリュフターと、その後を慌てて追いかけるキノ。
記憶は相変わらず失われたままで、これからどうなるのかも分からない。
ただ、あの暗くて冷たい地下牢にはもう二度と戻らないのだと確信していた。




