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第7話 『凶兆』

「……それじゃ、私たちは少し席を外します。ゆっくり休むのよ、キノ。」


ノキがそう言って、隣のベッドでまだ林檎を齧りたそうにしていたキクラの襟首を掴み、医務室から連れ出してくれた。

静かに扉が閉まり、部屋には急に静寂が戻る。

残されたのはキノと、不機嫌そうに腕を組んでパイプ椅子に腰掛けるリュフター、そして「早く食わんか」と急かすベニテングの三人だけだった。


「しかし…お前がそこまでやられるとはのう。」


ベニテングは器用に剥いた林檎の一片を口に放り込み、咀嚼しながらリュフターを横目で見た。


「あのネガマリンという怪物に、剣をへし折られたか。情けないのう。」


「……っ」


リュフターは何も言い返せず、ただ奥歯を噛み締める。

敗北の理由は、本人が一番よく理解していた。

スピード、技術、回避、戦術の組み立て。

その全てにおいて自分は完璧だったはずだ。

しかし、ネガマリンの常軌を逸した硬さと執念を前に、自分の鋭いサーベルは、命を刈り取る決定打になり得なかった。


「お前は優秀じゃ。全てにおいて満点を取り、隙のない完璧な戦士になった。だがの、リュフター。満点とは、用意された枠の中での話に過ぎん。あのネガマリンのように、枠そのものを力任せにぶち壊してくる敵を前にしたとき、お前の完璧さは、ただの器用貧乏に成り下がるんじゃ。」


ベニテングの言葉は、かつてリュフターが父親から当然だと突き放された、あの孤独な子供時代の記憶を容赦なく抉り出した。

リュフターの指先が、怒りと悔しさで微かに震える。


「…以後、励みます。」


リュフターはそれだけを吐き捨てると、音を立ててパイプ椅子を押し除け、苛立ちを隠さぬまま部屋を出ようと扉へ歩き出す。


その時、ベニテングが静かに、だが重みのある声で言った。


「時に、キノよ。」


キノの肩が小さく跳ねる。


「もし……お主の記憶を元に戻す方法があるとしたら、どうする?」


ドアノブに手をかけたリュフターの足も、そこで止まった。


医務室の空気が、一瞬で凍りついた。 キノはスープの器を握りしめたまま、目を見開いてベニテングを見つめる。


「記憶を…?」


「そうじゃ。噂程度じゃが、以前面白い話を聞いてのう。『きのこの山』の頂上、第一前線基地。失った記憶を取り戻すことの出来るという秘宝…"アポーロ"が、そこに眠っていると言われておるようじゃ。」


「アポーロ……」


キノはその未知の言葉を、大切に確かめるように呟いた。


「勿論、噂程度じゃ。はるばる行ったとしても空振りかもしれん。じゃが…行ってみる価値はあると思うぞ?」


ベニテングの問いかけに、キノは震える手で器を置き、顔を上げた。


「……行きたいです。もし記憶が戻るなら…僕の過去に何があったのか、知りたい。」


キノの言葉は、まだか細かったが、その瞳にはこれまでになかった明確な意志の光が宿っていた。


「まぁ、一人で行くのは危険じゃ。付き添いがおらんといかんな。のう、リュフt……」


「俺は行きませんよ。」


遮るようにリュフターは言った。


「こいつが記憶を取り戻そうが、俺には関係ない。行きたいのなら、勝手に行けばいい。」


「リュフター…お前が手引きせんと、キノはここを出ることは出来ん。」


ベニテングの静かな指摘に、リュフターが初めて動きを止めた。

彼はドアノブを握りしめたまま、背中で語るように、低く、押し殺した声で告げる。


「何と言われようと、俺がこいつに手を差し伸べることはない。それだけは…譲れません。」


その声には、拒絶を超えた、悲痛なまでの固執が滲んでいた。


「……隊長…」


キノは、消え入りそうな声でその背中を呼んだ。


「…」


リュフターは答えない。

ただ、ドアノブを握る白手袋の指が、はち切れんばかりに強く強張っている。


「僕…行きたいです。」


キノは震える声で、必死に言葉を絞り出した。


「……断る。」


断固とした拒絶。その冷徹な響きに、部屋の温度がさらに数度下がったかのように感じられた。


「お願いします。」


キノはそのまま、ベッドから這い出すようにして床に崩れ落ちた。

板張りの床に額を打ち付ける、鈍い音が響く。


土下座だった。


傷ついた体で、自らの尊厳さえも投げ打ち、ただ一点を見つめて平伏する。

その異様なまでの執念が、リュフターの背中に突き刺さる。


「…」


それでもリュフターは動かない。

振り返ることも、突き放すこともせず、ただ一筋の彫像のように立ち尽くしている。

再び耳が痛くなるような、長い沈黙が流れる。

聞こえるのは、僅かに開いた窓から吹く風の音だけだった。

やがて、リュフターは観念したように静かに告げた。


「……一週間後。」


その声は驚くほど低く、砂を噛むような苦渋に満ちていた。


「え?」


床に額をつけたまま、キノが呆然と声を漏らす。


「一週間後、分隊長のキクラが山頂の第一前線基地へ向かうことになっている。……どうしても行くと言うのなら、奴に同行しろ。無論、護衛としてだ。これは命令だ。」


リュフターは一度もキノを見ることなく、そのまま音を立てて扉を開けた。


「……キクラには話を通しておく。」


リュフターの背中は、光の届かない廊下の闇に半分溶け込んでいた。

その声にはもう先ほどの鋭い拒絶はなく、ただ重く、逃れられない運命を無理やり飲み込んだような響きだけが残っている。


「……隊長。ありがとうございます。」


キノの震える謝辞を背中で受けながら、リュフターは一瞬だけ足を止めた。

振り返ろうとしたのか、あるいは何かを言いかけようとしたのか。

だが、彼は結局何もせず、そのまま一歩、闇の中へと踏み出した。

ガチャン、という非情な金属音が医務室に響き渡り、嵐のような静寂が戻ってくる。


「はっはっは!相変わらず不器用なやつじゃのう!」


ベニテングが膝を打って豪快に笑い出した。

その笑い声は、凍りついた部屋の空気を無理やり溶かすように響く。

キノは床に手をついたまま、兄が去った扉をじっと見つめていた。


「隊長……」


その呟きが、閉ざされた扉の向こうへ届くことはなかった。

残されたのは、ベニテングが揺らすパイプ椅子の音と、窓の外に広がる静寂だけだった。




「……キノ・トラベルトを、逃した…か。」


その一言が、静寂を切り裂いた。

ひざまずくネガマリンの背に、氷の刃を突き立てるような重圧がのしかかる。

胸の傷口がズキズキと疼くが、支配者の前では顔を歪めることすら許されない。


「はっ。あと一歩のところまで追い詰めましたが、奴の戦闘能力、そして土壇場の連携。こちらの想定を上回っておりま…」


「言い訳を聞いているのではない。」


話を遮るように瞳が暗く沈む。 指先を微かに動かしただけで、周囲の空気が不自然に歪み、ネガマリンの巨体は床へとさらに深く押し付けられた。


「…私が失敗を許さない性格であることは知っているな?」


「……っ!承知、しております…!」


ネガマリンの額から、大粒の汗が滴り落ちる。

だが、モウソウはそれ以上圧を加えることなく、ふっと視線を外した。


「……だが、お前は優秀だ。お前のような駒を、これしきで失うのは惜しい。今回だけは見逃してやろう。」


「はっ。ありがたきお言葉。」


「今は下がって傷を癒せ。奴の捕縛は……ホテイル!お前に命じる。」


モウソウが闇の奥へ視線を向けると、一人の男が音もなく、流れるような動作で跪いた。


ーーホテイル・チーク。

たけのこヴィレッジが誇る優秀な暗殺者の一人。

頭部には不気味な文様のターバンを巻き、 腰には鈍い光を放つダガーが数本、静かに携えられている。


「承知いたしました。準備が整い次第、捕縛して参ります。」


それだけを言い残すと、ホテイルは影に溶けるように姿を消した。

ネガマリンもまた、傷ついた体を引きずるようにして去ろうとする。


「待て、ネガマリン。」


モウソウの低く冷徹な声が、立ち去ろうとした巨漢の足を止めさせた。 ネガマリンは、再び心臓を冷たい手で掴まれたような緊張感に襲われ、その場に固まる。


「……万が一、奴がしくじるようなことがあれば、その時こそ万全なお前がすべてを終わらせろ。いいな?」


「…御意。この命に変えても。」


ネガマリンは震える声でそう応じると、今度こそ深く一礼し、闇へと消えていった。


モウソウはネガマリンが去ったことを確認すると、背後に潜む一つの気配に声をかける。

そこには、光を失った瞳でただ無機質に立ち尽くす、一人の男がいた。


「…フフ。この戦争…結末は私にも読めん。ただ…面白いことになりそうだな?」


モウソウの愉悦を含んだ問いに、闇の中の男は、感情を一切排した声で短く肯定した。


「……左様でございます。」


この()()の駒が後に多くの運命を狂わせていくことになろうとは、まだ誰も知る由もなかった。

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