第3話 『宣告』
ーーー「キノ・トラベルト。それがお前の名だ。」
独房の重い空気のなか、キクラの声が微かに震えた。
「キノ……トラベルト……」
キノはその響きを、まるで知らない異国の言葉をなぞるように繰り返した。
だが、どれだけその名を反芻しても、胸の内に温かい記憶が灯ることはない。
ただ、氷のような拒絶と、リュフターの蛇のように冷たい視線がフラッシュバックするだけだ。
「それと、もう一つ。あの隊長の名はリュフター・トラベルト。…お前の、実の兄だ。」
「え…?」
キノの思考が白く塗りつぶされた。
目の前にいるキクラが、酷く残酷な冗談を言っているのではないかと疑う。
だが、キクラの瞳には、真実を伝えようとする悲痛な覚悟が宿っていた。
「僕が、あの人の……弟?」
独房に入れられる前、至近距離でぶつけられた、あの蛇のような瞳。
喉を締め上げられた時の、骨で凍りつくような手のひらの冷たさ。
それらが一気に脳裏に蘇り、キノは激しい拒絶感に襲われて肩を震わせた。
「……あんなに、僕を嫌っていたのに? 助けてくれたキクラさんを突き飛ばして、僕を化け物みたいに睨んで……」
あれ程恐ろしい、自分を呪っているような人が肉親だと言う事実が、今のキノには到底信じられなかった。
「きっと、すぐには信じられないだろう。ゆっくりでいい。ただ…」
キクラの顔が険しくなる。
「数百の兵をたった一人で壊滅させた少年と、組織最強の男が同じ支部にいると聞けば、奴らは黙っていないだろう。」
「奴らって…?」
キノの問いに、キクラは答えを躊躇うように一度視線を落とした。
そして、重苦しい沈黙を破るように、ゆっくりと、だが断固とした口調で言葉を紡ぎ出した。
「お前が戦った相手……この大陸を二分し、俺たち『きのこマウンテン』と数年前から血で血を洗う泥沼の戦争を続けている、宿敵だ。」
キクラの脳裏には、先日キノがたった一人で壊滅させた一個大隊の無惨な姿が浮かんでいた。
「名は…『たけのこヴィレッジ』」
その名を聞いた瞬間、キノの脳裏に鋭い火花が散った。 記憶はない。
それでも、全身の毛羽が逆立ち、胃の奥から煮え繰り返るような嫌悪が襲う。
ーー「たけのこ」。
その響きは、キノにとって「兄」よりも、本能が最も根源的に拒絶する嫌悪そのものだった。
第四前線基地から北へ数里。
漆黒の闇に沈む平原に、巨大な尖塔のような天幕がそびえ立っていた。
地を這うような低く重厚な声が響く。
「……報告は以上か。」
ーーモウソウ・ダケルトニア。本里の頂点に君臨する絶対的支配者。
その一言だけで周囲の空気が凍りつくような圧迫感の中、天幕に立つ男は、青銅色の皮鎧を軋ませながら居住まいを正した。
「はっ。一個大隊を壊滅させた例の少年は、第四前線基地に収容されている模様です。」
そう報告するこの男はネガマリン・グルード。
『たけのこヴィレッジ』最高戦力の一人である。
「……ふむ。一個大隊を、たった一人でか。」
その声は、感情を排しているが故に、かえって底知れぬ暴力性を孕んでいる。
「捕縛いたしますか?」
「そうだな。遂に、お前が動く時が来たようだ。其奴も我が里の実験対象として迎え入れよう。」
モウソウの瞳には、暗く残酷な光が宿っている。
「御意。」
ネガマリンは一礼し、踵を返した。そして、不敵に口角を上げた。
その眼光は鋭く、己の武力への絶対的な自信と、強者に対する敬意が混在している。
「……一個大隊を屠るほどの器、面白い。どれほどのものか、この俺が直々に鑑定してやろう。」
彼は傍らに突き立てられた巨大な大剣を、狂おしいほど愛おしげに撫でた。
その指先は、戦場を渇望する武人のそれだ。
「行くぞ、まずは第五前線基地を蹂躙せよ! 逃げ惑う者の断末魔を、あのお方に捧げるのだ!」
号令と共に、平原に潜んでいた漆黒の軍勢が一斉に動き出した。
第四前線基地、隊長執務室。
「隊長! 第五前線基地との通信が途絶! 直後に逃げ延びた伝令によれば……第五前線基地は、既に壊滅状態にあるとのことです!」
激しく扉を叩く音と、兵士の悲痛な叫びが、静まり返った執務室を切り裂いた。
報告書を書き記していたリュフターの手が止まる。
「何…!先生は!!」
リュフターは持っていたペンを叩きつけ、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
その顔は、かつてないほどの焦燥に歪んでいる。
「安否は分かりません! ただ、奴らは第四前線基地へ進路を変えました! 凄まじい速度です、じきにここへ到達します!」
リュフターは窓の外に目を向けた。
地平線の先、本来なら闇に溶けているはずの景色に、微かに灯りが揺らめいていた。
(あの第五前線基地が…今回の侵攻は何かが違う)
「キクラ!ノキ!たけのこ軍の襲撃だ!即座に迎え撃つぞ!」
リュフターの怒号が基地内に響き渡り、静まり返っていた要塞は一転して、喧騒の渦へと叩き落とされた。
一方、地下最下層の独房。
その静寂を、地底から突き上げるような不穏な振動が支配した。
壁に背を預けていたキノは、暗闇の中で目を見開く。
「何…?」
響き渡る奇妙な轟音。幽閉されたキノもまた、この襲撃の異常さを認知していた。
「フハハハ!フハハハハ!!」
ネガマリンの高笑いが、真夜中の地上に響き渡る。
その背後には、闇夜を鋭く切り裂くたけのこの軍勢が、音もなく、だが確実に基地を食らい尽くそうと迫っていた。




