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第2話 『拒絶』

「おい…本当に覚えてないのか?」


翌朝、男の問いかけには隠しきれない困惑が生じていた。

その場所は第四前線基地の医務室。


「だから…何度も言っているじゃないですか。」


そう答える少年の顔にもまた、戸惑いの色が浮かんでいる。

窓から差し込む朝日は、昨日までの爆炎とは違う、どこか冷ややかな白さを持っていた。


「俺はこの目で見たんだぞ?お前がたけのこ軍をたった一人で壊滅させる所を。」


男は寝不足の目を擦りながら、信じられないと言った様子で、少年の隣の椅子に深く腰掛けた。


「そう言われましても、本当に記憶がないんですよ。それに…」


少年は自分の両手を見つめた。とても華奢で、細い指。

幼ささえ感じられるその手には、昨夜数百の敵を蹂躙した実感など微塵も残っていなかった。

だが、指先だけは槍の重みを覚えているかのように、微かに熱を帯びて震えている。


「思い出そうとすると、頭にノイズが走るんです。まるで脳が拒絶してるみたいに…」


少年はこめかみを抑え、苦悶の表情を浮かべる。


「……分かった。もう無理に思い出すな。軍医の話じゃ、極度の精神的ショックによる記憶障害だって話だ。きっと、過去によっぽど酷いことがあったんだろうってな。」


男は重い腰をあげ、少年の肩にそっと手を置いた。その手は、昨夜目撃した死神への畏怖からか、僅かに震えている。


「まぁ、昨日の戦いにお前がいなかったら、俺たちは間違いなく全員やられてた。その事実はこの基地の誰もが知ってる。」


少年を安心させるように、男は不器用に口角を上げた。


「礼を言う。お前が何者であろうと、俺はお前を見捨てたりはしない。」


男は部屋の隅に立てかけられた、例の槍に視線を投げた。

昨夜、返りチョコに汚れていた得物は、今は軍医の手によって白く清められ、朝日を浴びて静かに佇んでいる。


「…じきに、ここの"隊長"が戻ってくる。ちょっとばかり気難しい方だが…お前の扱いを決めるのはそれからだ。」


そう言って男は背を向け、扉へ歩き出す。


「あのっ…!」


ドアノブに手をかけた男を、少年が呼び止めた。


「名前、教えて貰えませんか?」


「名前…?」


男は足を止め、少しばかり肩を揺らして振り返った。


「そう言えばまだ名乗ってなかったな。キクラだ。キクラ・ゲルト。第四前線基地の分隊長をやっている。お前を最初に拾ったのも、まぁ俺だ。」


「キクラ…さん。」


少年はその名前を噛み締めるように復唱した。

記憶のない自分にとって、その名前は暗闇の中で照らされる、一つの標識のように感じられた。


「ありがとうございます。キクラさん。」


少年が初めて微笑を漏らした、その時だった。


「キクラ分隊長!隊長が帰還されました!!」


勢いよくドアが開き、数名の兵士が入ってくる。


「おっと…仕事みたいだ。じゃ、また後でな。」


パタン、と音を立てて扉が閉まる。

直後訪れた静寂は、少年にとってとても心地よいものだった。




「聞いたぞ。キクラ。たった一人で一個大隊を壊滅させた化け物がいるらしいじゃないか。」


基地の一室、灯りの届かない部屋の壁に寄りかかって話すのは、周囲の喧騒を一切寄せ付けない、凍てついた空気を纏う男だった。

名は、リュフター・トラベルト。「きのこの山」第四前線基地隊長にして、紛うことなき組織最強だ。


「その通りです。彼自身に記憶は無いようですが、我々は命を救っていただきました。」


床に片膝をつき、俯きながら話すキクラの声が、狭い空間に低く響く。


「どれ程の逸材なのか、俺がこの目で見極めてやる。案内しろ。」


開いた窓から吹く風に僅かになびく漆黒のマントが、その高貴さを残酷なまでに際立てている。

リュフターは壁から背を離し、音もなく歩き出す。

身長は決して高くはない。だが、一歩踏み出すたびに部屋の空気が凝縮され、逃げ場のない圧迫感に支配される。

刈り上げられた短い黒髪の下から覗く、鋭く細められた瞳。

長い廊下を歩く間、すれ違う兵士たちが一斉に足を止め、恐怖を押し殺したように背筋を伸ばして敬礼する。


「ここです。」


そう言って、キクラが医務室の扉を開ける。

リュフターの目が少年を捉える。

その瞬間、部屋の温度が数度下がったかのように空気が一変した。


「っ…!?」


リュフターの瞳が大きく見開かれる。


「…キノ?」


「え…?」


唐突に放たれた聞き覚えのない言葉に、少年は動揺を隠せない。

だが、リュフターの驚きは、一瞬にしてどす黒い憎悪に塗り替えられた。


「お前…今更何をしにここへ来た!!」


リュフターの怒声が、医務室の壁を震わせる。


「隊長!?知り合いなのですか…!!」


キクラの静止をリュフターは荒々しく跳ね除けた。

少年の胸ぐらを掴み、その至近距離で蛇のような冷たい視線をぶつける。


「おい、答えろ…!目的は何だ!俺を嘲笑うためか!?それとも…俺に復讐するためか!?」


「っあっ……ぐ…」


喉を圧迫され、少年は酸素を求めて呻く。


「未来永劫お前とは関わらないと言ったはずだ!」


リュフターの怒声は、もはや隊長としての威厳すら忘れ、一人の男としての激情を剥き出しにしていた。


「隊長っ…!彼は記憶が…!それに我々の為に命を賭けて…!!」


キクラが必死に食い下がるが、リュフターの軽蔑を含んだ視線がそれを一蹴する。


「命を賭けて…だと?」


リュフターの口角が、自嘲気味に歪んだ。


「キクラ、お前は騙されている。こいつに何の価値がある?こいつにあるのは、人を不幸にする才能だけだ。」


リュフターは、埃に触れた手を離すかのように乱暴に少年を突き放した。

少年はベッドに叩きつけられ、激しく咳き込む。

視界が涙で滲む中、去りゆく漆黒のマントが重苦しく翻った。


「…キクラ。こいつを地下最下層の独房に叩き込め。手足に手枷をはめ、一筋の光も通すな。」


リュフターはキクラに向け、吐き捨てるように命令する。


「しかし…」


「二度は言わん。命令だ。」


リュフターの声が低く、それでいて静かに響き渡る。

その言葉には、逆らう者を許さぬ、絶対的な拒絶が含まれていた。

リュフターは一度も振り返ることなく、軍靴の音を激しく響かせて部屋を去っていく。

残されたのは、静まり返った医務室と、喉を鳴らして必死に空気を吸い込む少年だけだった。




キクラは一人、暗い廊下を歩いていた。静まり返った空間に、自らの軍靴の音だけが空虚に響く。

重い足取りのまま、キクラは隊長執務室の扉を叩く。


「隊長、失礼します。」


返事はない。だが、扉の向こうから漂う、冬の夜のような冷気が入室を許した。

部屋の奥、椅子に深く腰掛けたリュフターは、脱ぎ捨てた漆黒のマントの横で、古びた一葉の写真を凝視していた。


「……キクラか。収監は済んだか。」


リュフターは顔を上げることなく淡々と問う。


「はい。ですが隊長、一つ確認したいことが。」


「…」


「あの少年は、一体何者なのですか?」


「…」


キクラは、無言を貫くリュフターの威圧感に気圧されそうになりながらも、言葉を繋いだ。


「貴方は、彼をキノと呼びました。私は、貴方と彼に何かしらの繋がりがあると見ています。」


リュフターの指が、写真の端を強く折った。


「……知る必要のないことだ。」


「…いいえ。知る必要があります。彼を見つけたのはこの私。よって、彼の面倒を見ると言う責任がこの私にはあります。」


長い沈黙。時計の刻む音だけが、処刑の秒読みのように響く。

やがて、リュフターはため息を吐き、机の上に写真を叩きつけた。


「……見ろ、それがお前が救った男の正体だ。」


リュフターの放った言葉は、冷たい刃のようにキクラの胸を突いた。

キクラは恐る恐る、机の上に放り出された写真に手を伸ばす。

そこには、今よりもずっと幼く、まだあどけなさを残したリュフターが写っていた。

そしてその隣で、満開の向日葵のような無邪気な笑顔を見せる一人の少年。


「こいつの本名はキノ・トラベルト。…俺の、実の弟だ。」


リュフターの口から漏れたその言葉は、重く、どす黒い響きを伴って部屋の空気を凍りつかせた。


「お、弟……? 隊長の……」


キクラは写真を握りしめたまま、絶句した。

写真の中の二人は、驚くほどに似ていなかった。

鋭い目つきで、幼い頃から既に周囲を拒絶するような不機嫌な表情を浮かべるリュフター。

それに対し、隣でひまわりのように無邪気に笑うキノ。

顔立ちも、纏う空気も、その本質すらも。

二人は昔から、そして今この瞬間も、似ても似つかない存在だった。

だが、そんな正反対な二人の手と手だけは、写真の中では固く、解けないほど強く繋がれていた。


「…面倒を見ると言ったな。キクラ。奴の扱いは、お前に任せる。だが、決して俺の前に奴の姿を見せるな。二度とな。」


リュフターの言葉には、圧倒的な威圧と残酷なまでの拒絶が込められていた。


「…承知いたしました。」


キクラは写真をそっと机に戻し、深く一礼して部屋を後にした。 背後でパタンと閉まった扉。

その向こう側に残された兄は、独り、静かに()を流していた。




ーーかつて、トラベルト家には活気が満ち溢れていた。


陽光が降り注ぐ中庭を、二つの影が駆け抜けていく。


『兄ちゃん、速いよぉ! 待ってよ!』


短い足を必死に動かし、何度も転びそうになりながら、幼いキノが声を張り上げる。

その顔は土に汚れ、鼻先を赤くしていたが、瞳には憧れの兄しか映っていなかった。


『キノが遅いんだよーだ! ほら、ここまでおいで!』


数歩先を走る少年ーーリュフターは、今のような冷徹な仮面など微塵も感じさせない、快活な少年の顔をしていた。

不機嫌そうな眉間も、この時ばかりは緩み、追いかけてくる弟をからかうように振り返る。


『えへへ、待って、今行く……あいたっ!』


キノは何もない平地で派手に転んだ。 膝を擦りむき、手のひらを泥だらけにする弟。

リュフターは呆れたように溜息をつきながらも、すぐに駆け戻ってその小さな手を握った。


『お前は本当におっちょこちょいだな。ほら、立てるか?』


『……うん。兄ちゃんの手、あったかいね。』


キノは涙を浮かべながらも、繋がれた手の温もりに安心したように笑った。

リュフターもまた、その無邪気な笑顔に絆される。


『そりゃ生きてるからな。』


ぶっきらぼうなリュフターの答えに、キノはさらに顔をほころばせた。

そんな二人のもとへ、芝生を揺らす風に乗って、穏やかな足音が近づいてくる。


『あらあら。二人とも、またそんなに泥だらけになって。』


穏やかで、聞き慣れた声。母親が、日傘を差してこちらへ歩み寄ってきた。

その後ろには、厳格だがどこか満足げな表情を浮かべた父親の姿もある。


『母ちゃん!』


キノが顔を輝かせ、繋いでいたリュフターの手を放して、母の懐へ飛び込んだ。


『キノ、また転んだのね。あなたは本当に、目が離せないんだから…』


母は汚れを気にする様子もなく、慈愛に満ちた手つきでキノの頬を撫で、泥を拭う。

その光景は、誰が見ても微笑ましい、どこにでもある幸せな家族の姿だった。


『父さん、テスト満点だったよ!』


駆け寄るキノの背中越しに、リュフターは弾んだ声で報告した。

手元には、最高評価の印が付いた答案用紙がある。

期待に胸を膨らませ、リュフターは父の顔を見上げた。


『おお、そうか。』


父はキノの頭を撫でていた手を止め、一瞬だけ息子が差し出した紙に目を落とした。

だが、その表情に驚きや感銘の色はない。


『満点か。……当然だな。』


悪意があったわけではない。ただ、父の声は本当に平坦だった。

そこには落胆もない代わりに、リュフターが渇望していた熱もなかった。


『お前は本当に優秀だな。トラベルト家の跡取りとして今後も励むことだ。それよりも、次の段階の学習は進んでいるのか? 休んでいる暇はないぞ。』


『……うん。もう半分まで進んでるよ。』


『そうか。期待しているぞ』


父は満足げに一度だけ頷くと、再び視線を足元のキノへと戻した。


『おーい、キノ! そんなところに乗ったら危ないぞ。全く、お前はハラハラさせるのが得意だな。ほら、こっちにおいで!』


父はリュフターに「期待」を預け、キノに「愛」を注いだ。

彼が血の滲むような努力で手に入れた「満点」という成果は、父にとっては呼吸をするのと同じくらい「当然のこと」として通り過ぎていく。

一方で、キノがただ危なっかしく振る舞うだけで、父の顔には人間らしい焦りや慈しみが溢れ出す。

それは、自らが優秀すぎるが故の孤独だった。


(満点なのに……完璧にやったのに……)


誰が悪いというわけではない。その事実が、余計に彼の心を孤独という名の氷で閉ざしていく。

父さんも母さんも、自分を愛してくれている。それは分かっていた。

期待されていることも、信頼されていることも。

だが、彼が本当に欲しかったのは、跡取りとしての評価ではなく、泥だらけのキノに向けられるような、理屈のない心配や温もりだった。

差し出した答案用紙が、夕風に吹かれて頼りなく揺れる。

彼の手は、誰にも握られることなく、空を掴んだまま静かに下ろされた。


『兄ちゃん、すごいね! 満点なんて僕には絶対無理だよ!』


キノが純粋な尊敬の眼差しで笑いかけてくる。

弟に悪気がないことは痛いほど分かっていた。

分かっているからこそ、その無邪気さが、自らの胸の奥底を冷たい刃のように抉っていく。

自分が完璧であればあるほど、家族の安心は深まり、自分に触れる手は遠のいていく。

優秀であることは、この家での居場所を守るための義務であり、同時に、甘える権利を失っていく代償でもあった。


『……ああ。キノも、次は頑張れよ。』


リュフターは、引きつりそうになる頬を必死に抑えて、兄としての顔を作った。

夕闇が忍び寄る中庭で、笑い合う三人の影。

その少し後ろで、リュフターはその輪に背を向ける。


「誰かに認めてもらいたい」


その切実な願いが届くことは、決してなかった。

父も母も、リュフターという一人の少年に温もりを与えることはなかった。

彼らが与えたのは、期待という名の重圧と、信頼という名の無関心だけ。


やがて、彼の心に溜まった黒い憎悪が、その矛先を弟へと向け始めた。

自分を追いかけ、無邪気に笑うキノ。

自分がどれほど努力しても手に入らない無償の愛を、生まれながらに一身に浴びている弟。


『兄ちゃん、遊ぼうよ!』


『……うるさい。近寄るなと言っただろ。』


かつては泥だらけになって共に駆け回った中庭で、リュフターは冷たく言い放つようになった。

キノが転んでも、もう手は貸さない。

繋がれていたはずの手は、いつの間にか突き放すための道具へと変わっていた。

キノは悲しげに、そして困惑したように兄を見つめていたが、溺愛される側である彼には、兄が抱える絶望の深さなど理解できるはずもなかった。

その無知さえも、リュフターには残酷な暴力に感じられた。


そして、嵐の吹き荒れる夜。

リュフターは、最小限の荷物だけを手に、玄関の扉を開けた。


『兄ちゃん、どこ行くの……?』


パジャマ姿で目をこすりながら現れたキノが、震える声で問いかける。

リュフターは足を止め、振り返った。

その瞳には、かつての快活な少年の面影は微塵もない。


『……知らなくていい。』


キノが縋り付こうと伸ばしてきた手を、リュフターはこれ以上ないほど冷酷に振り払った。


『いいか、よく聞け。俺は今日、この家を捨てる。俺は、俺のことを認めてくれる所に行く。』


『そんな……待ってよ、兄ちゃん!』


『二度と呼ぶな。未来永劫、お前とは関わらない。』


冷酷に吐き捨て、雨音にかき消されるように、幼きリュフターは闇の中へと消えていった。




「……はっ。」


乾いた、尖った笑いがこぼれた。


(記憶喪失だと?…ふざけるな。)


リュフターはその視線を机の上に落とす。

そこにあるのは、ぐしゃぐしゃに握り潰された一葉の写真。

かつては家族の証であったはずの紙切れは、今や見る影もなく無惨に歪んでいた。


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