第13話 『絶望』
ガチャン……、ガチャン……。
重厚な鉄格子の向こうから、足音が響いてくる。
「キノ……!? キノか!?」
鉄格子に張り付くようにして闇を凝視していたキクラが、弾かれたように声を上げた。
その後ろでは、第一前線基地隊長のエリン・ギルガマッシュも、じっとその出口を見つめている。
ゆっくりと、外界の光の中にキノが姿を現した。
衣服は擦り切れ、体中に土埃を浴びている。
「キノォ!無事だったんだな!」
喜びのあまり、キクラは鉄格子から身を乗り出す。
「二人とも…お待たせしました。」
カチャリ、と古びた鍵が内側から回され、重い鉄格子が静かに開け放たれた。
完全に地上へと足を踏み出したキノは、待っていた二人に向けて、いつも通りの、でもどこかすっきりとした表情で微笑んだ。
「まさか本当に生きて帰ってくるとはね…。正直もう帰ってこないと思ってたよ。」
エリンは感心したようにため息をつき、キノの肩をそっと叩いた。
「所々汚れてるが、取り敢えず無事でよかった。そんで……記憶は?」
キクラが真剣な目を向け、キノの顔を覗き込む。
「…全部、思い出しましたよ。僕が誰で…どんな家族がいて……過去に何があったのかも。」
キノの言葉には、確かな意志が宿っていた。
たけのこ軍への強い拒絶の理由は、家族を奪われたという紛れもない事実だったのだと、今、ハッキリと自覚している。
「…そうか。」
キクラは、決して軽くない過去の重みを受け取るように、静かに頷いた。
「本当に良かった。これで君も、ようやく前に進めるね。」
エリンが優しく微笑み、キノを労う。
「はい。エリン隊長、本当にありがとうございました。……さあキクラさん。約束通り、ご飯にしてください。流石に疲れました。」
「任せとけ。たらふく食わせてやるからな!」
そう言って、キクラはいつものように豪快に笑って見せる。
キノもそれにつられ、安心したようにいつも通りの歩調で歩き出した。
「しっかし…生還者ゼロの遺跡から本当に帰ってくるとはなぁ。」
スギナの天ぷらを頬張りながら、キクラはしみじみと呟く。
エリンは一足先に自室に戻った為、この食堂にいるのは二人だけだった。
「正直、思い出せて嬉しいと思える記憶ではなかったです。」
キノは温かいスープの器を両手で包み込み、湯気の向こうの自分の手元をじっと見つめながら、ぽつりと言った。
両親を失ったあの惨劇の光景は、思い出すだけで胸が引き裂かれそうになる。
「でも……」
キノはそこで一度言葉を区切ると、顔を上げて、心の霧が晴れたような瞳でキクラを見た。
「自分が何のために戦わなきゃいけないのか。それがハッキリ分かって、良かったと思ってます。」
「そうか……そうだな。」
キクラは納得したように頷く。
「深くは聞かねえよ。お前が前を向けてるなら、それで十分だ。ただ…」
キクラは箸を置き、少し言いづらそうに頭を掻いた。
「思い出したってことは……その…隊長の記憶も全部戻ったってことだよな?」
キノはスープを掬おうとしていたスプーンをぴたりと止め、不思議そうに首をかしげた。
「エリン隊長のことですか? 昨日お会いしたときからちゃんと覚えてますよ?」
「いや、違うって! リュフター隊長だよ!リュフター隊長!」
キクラが身を乗り出して、その名前をはっきりと口にした。
しかし、キノは全くピンと来ていない様子で、パチパチと瞬きを繰り返すだけだった。
「リュフ…ター……?」
その名前を自らの口でなぞってみても、キノの心には何の感情の波も起きなかった。
それどころか、困ったように眉を下げて、すんなりと首を横に振る。
「誰ですか…?」
「…は?」
キクラの思考が完全に停止した。
酷く驚いた様子で顔を上げるが、キノの顔からは嘘や誤魔化しなど、微塵も感じられなかった。
「誰って…第四前線基地の隊長だよ!お前の兄貴だぞ!?」
「兄……?僕には兄弟なんていませんよ?」
キノの、どこまでも澄んだ瞳。
それを見たキクラは、彼が冗談を言っているわけではないと確信する。
ーーあまりにも壮絶で、衝撃的な過去を目撃したが故に、欠落した記憶。
キノの脳内から、リュフター・トラベルトという存在だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消え去っていた。
自分に名前をくれた温かい兄の姿も、地下牢で自分を突き放した冷徹な隊長の姿も、その全てが霧の彼方に溶けてなくなっている。
「おいおい嘘だろ…」
キクラの額から、冷たい汗が伝う。
「キクラさん……? 本当にどうしたんですか? 顔色が真っ青ですよ。」
キノは本気で心配そうに、スープの器を置いて覗き込んでくる。
その純粋すぎる気遣いが、今のキクラには酷く恐ろしかった。
実の兄の存在そのものを、心が完全に拒絶してしまったのだと、嫌でも突きつけられたからだ。
「…今すぐエリン隊長のとこに相談に行く。着いてこい。」
キクラは切羽詰まった様子でキッパリと言った。
「え…何でですか…?」
「いいから行くぞ!」
戸惑うキノをよそに、キクラはキノの肩を掴んで走り出した。
「エリン隊長! 失礼します!」
バン! と激しい音を立てて、キクラが執務室の扉を押し開けた。
デスクで書類に目を通していたエリンが、驚いたように顔を上げる。
その背後から、何が起きたのか分からず、困惑した表情のキノが部屋に入ってきた。
「どうしたんだい、キクラさん。そんなに血相を変えて…」
「隊長、大変なことになりました。キノの記憶は確かに戻っていました。自分が何者で、たけのこ軍に何をされたのかも全部。……ただ!」
キクラは一呼吸置き、信じられないものを見る目でキノを指差した。
「リュフター隊長のことだけを、綺麗さっぱり忘れてやがるんです! 兄弟なんていないって言ってるんですよ!」
「……何だって?」
エリンの穏やかな目が、初めて鋭く見開かれた。
彼はゆっくりと立ち上がり、キノの前に歩み寄る。
「キノ君。僕の言っている意味が分かるかい? 君の所属している第四前線基地の隊長、リュフター・トラベルト。君の、実のお兄さんだ。本当に、心当たりがないのかい?」
「えっと……」
キノは二人の必死な剣幕に気圧されながらも、やはり申し訳なさそうに首を横に振る。
「名前を聞いても、何も浮かばないんです。僕の家は、父さんと母さんと、僕の三人家族でしたから。……僕に、本当に兄さんなんていたんですか?」
濁りのない、あまりにも純粋な瞳。
エリンは深くため息をつき、痛ましげに天を仰いだ。
「なるほど…そうか。キノ君、恐らく遺跡で君の心は、理性を保つために最大の防衛本能を働かせたんだ。これ以上傷つかないために、一番痛む記憶のピースを……君にとって最も大切で、最も過酷な『兄』という存在を、丸ごと消去してしまったんだ。」
「僕の心が、記憶を…?」
キノが自分の胸に手を当てて呆然とする中、キクラがエリンに詰め寄る。
「隊長、どうすればいいんですか!? 例えば、アポーロでもう一度記憶をいじるとか……」
「いや、それは危険すぎる。彼の精神が今度こそ完全に崩壊してしまうよ。……方法があるとすれば、一つだけだ。」
エリンは窓の向こう、自分たちが上ってきた遥か眼下の雲海――第四前線基地がある方向を見つめた。
「キノ君。今すぐ、第四前線基地へ戻るんだ。」
「え…?」
「記憶を取り戻せるのは…きっと彼しかいない。」
エリンの厳粛な言葉が、静まり返った執務室に響く。
「分かり…ました。」
キノは違和感を抱きながらも、コクリと頷いた。
第四前線基地への道のりは、来た時とは比べ物にならないほど静かだった。
行きであれほど二人を苦しめた原生林の悪路も、今のキクラの焦燥感を前にしては、ただの背景に過ぎない。
「俺やエリン隊長のことは覚えてんのに、まさかリュフター隊長の記憶だけが綺麗さっぱりなくなるなんてな…」
基地までの帰り道、キクラは不安そうなキノをよそに、ボソリと呟いた。
やがて、原生林を抜け、見慣れた第四前線基地の全景が視界に入ってくる。
「……あれ?」
最初に異変に気付いたのは、キノだった。
いつもなら、煙突から炊き出しの煙が上り、復興作業のトンカチの音が小気味よく響いているはずだった。
兵士たちの見張りも立っているはずだった。
しかし、そこにあるのは――不気味なほどの、静寂。
「おい…ちょっと待て。」
キクラの足が止まる。
基地の正門には見張りの兵士が一人もおらず、ただ不気味に開け放たれていた。
二人は胸を騒がせながら、静まり返った敷地内へと足を踏み入れる。
建物からは音もなく黒い煙がゆらゆらと立ち上り、辺りには鼻を突くような、あまりにも不快で甘ったるいチョコの匂いが充満していた。
「何だこれ……?皆、どこ行ったんだよ……!」
二人は冷や汗を流しながら、更に内部へと駆け込む。
そして、そこに足を踏み入れた瞬間、二人は信じられないものを目にした。
そこには、壁に背を預けたまま静かに息を引き取っているーーノキの姿があった。
「ノキ……?」
彼女の胸には、抵抗した跡すらなく、鋭利な刃物で深く、正確に抉られた一つの致命傷があった。
周囲の兵士たちも同様だった。
一人でいるところを、闇からの一突きで静かに、確実に暗殺されていた。
「そ…んな……」
キノの膝から、がくりと力が抜ける。
その場に崩れ落ちそうになるキノの身体を、辛うじてキクラが片腕で支えた。
だが、そのキクラの腕も、見たこともないほど激しく震えている。
「ノキ……おい、ノキ! 目ぇ開けろよ!!」
キクラが悲痛な叫びを上げ、彼女の肩を揺さぶる。
しかし、その体は氷のように冷たく、彼女の瞳が二度と開くことはなかった。
彼女の手から、ハラリと一枚の紙切れが落ちる。
『――たけのこ軍、暗殺者の侵入を確認。目標はキノ・トラベルト。奴は気配を消し、一人ずつーー』
「ノキ…お前は…」
「う…あぁ……ノキさん…!ああぁぁぁぁぁっ!!!」
キノの悲鳴にも似た叫びが、あたりに鳴り響いた。
直後、ノキの亡骸を前に、キノの瞳から完全に光が消え失せ、底知れない殺意が濁流のように這い出てくる。
その時だった。
激しい雨音の向こうから、硬質な金属が激しくぶつかり合う、キィィィン……!!という鋭い残響が、一度だけ響いてきた。




