第12話 『欠落』
次にキノが目を開けたとき、そこは激しい嵐の音が支配する、夜のトラベルト家だった。
何度も窓を叩く激しい雨。
時折、部屋の中を真っ白に照らす雷鳴。
その不気味な光の中に、一人の少年の姿があった。
まだ少し幼い、リュフターだ。
(あ…隊長…)
追憶の光の中に立つキノは、声をかけようと手を伸ばす。
しかし、キノの手は虚しく空を切り、リュフターには届かない。
これは変えることのできない、過去の映像なのだ。
リュフターは、荷物を詰めた小さなリュックを背負い、玄関の重いドアノブを静かに握りしめていた。
その背中は、子供とは思えないほどに硬く、凍りついている。
家族を捨て、彼がたった一人で旅立とうとしていることは明らかだった。
その時、階段の方からトトト、と小さな足音が響いた。
『兄ちゃん、どこ行くの……?』
パジャマ姿で、眠そうに目をこすりながら現れたのは、幼いキノ自身だった。
大好きな兄が、今にも自分の知らない遠くへ行ってしまいそうな気配を察して、その声は微かに震えている。
リュフターの足が、ピタリと止まった。 彼はドアノブを握ったまま、ゆっくりと振り返る。
その瞳を見た瞬間、追憶を見つめる現在のキノは、息を呑んだ。
あの時、医務室で自分を睨みつけたあの蛇のような冷たい瞳。
すべてを拒絶し、すべてを憎悪する、漆黒の仮面がそこにあった。
『……知らなくていい。』
冷淡な声が、嵐の音を切り裂く。
幼いキノは、その冷たさに怯えながらも、必死に涙をこらえて手を伸ばした。
いつも泥だらけになった自分を、ぶっきらぼうに、でも温かく握ってくれた、あの兄の手を求めて。
幼いキノが、リュフターの服の袖を掴もうとした、その瞬間だった。
バチンッ!
激しい音が響いた。
リュフターが、キノの伸ばした手を、これ以上ないほど冷酷に、全力で振り払ったのだ。
『っ……!』
あまりの衝撃に、幼いキノは床に尻餅をついた。
赤くなった手のひらを見つめ、何が起きたのか分からないという風に、呆然と兄を見上げる。
その光景を横で見つめていた現在のキノは、胸を鋭利な刃物で突き刺されたような激痛に襲われた。
当事者だったあの夜は、きっと「大好きな兄ちゃんに嫌われた」という悲しみと恐怖しかなかった。
だが、全てを知った今、リュフターの表情の本当の意味が分かってしまう。
(あの人を追い詰めていたのは…何も知らずに笑っていた…僕……?)
『いいか、よく聞け。俺は今日、この家を捨てる。俺は、俺のことを認めてくれる所に行く。』
『そんな……待ってよ、兄ちゃん!』
幼いキノの目から、大粒の涙が溢れ出す。
必死に床を這い、もう一度その足に縋り付こうとする弟。
だが、リュフターの心は、もう完全に孤独の氷で閉ざされていた。
『二度と呼ぶな。未来永劫、お前とは関わらない。』
カチャリ、と無機質な音を立てて、玄関の扉が開け放たれる。
吹き込んできた激しい雨風が、二人の体を濡らした。
リュフターは一度も振り返ることなく、嵐が吹き荒れる真っ暗な闇の中へと、一歩を踏み出した。
バタンッ!!!と、世界を分かつような重い音が響き、扉が閉まる。
『兄ぢゃぁぁぁぁぁん!!!』
激しい雨音にかき消されていく、幼い自分の絶叫。
誰もいなくなった暗い玄関で、小さなパジャマ姿の少年が、ただ声を上げて泣き続けている。
その時、小さなキノの声と共に、もう一つの声が溢れた。
「あ…あぁ…」
過去の自分の声に重なるように、現在のキノの目からも、堪えきれない涙が堰を切って溢れ出す。
何故リュフターが、自分の事をあれ程までに拒絶していたのか。
そのすべての理由が、痛いほどの重圧となってキノの心に突き刺さる。
だが、その世界に浸ることすらも、運命は許してはくれなかった。
(まだ、ある…?)
泣き崩れるキノの足元から、どす黒い漆黒の光が、まるで血の海のように這い出てくる。
嵐の風景が白い光の中に溶けて消えたと思ったのも束の間、空間に漂い始めたのは、鼻を突くような、あまりにも不快で甘い匂い。
追憶の光は、キノという人間の理性を完全に破壊した、あの「最悪の地獄」へとさらに時間を巻き戻そうとしていた。
暗雲が空を覆い、辺りには異様なほど鋭利に尖った頭をした無数の影ーーたけのこ軍が、家を取り囲んでいた。
(あ………っ…)
その光景を見たくないと、本能が拒絶する。
だが、目を逸らすことは出来なかった。
『…キノは遊びに行かせて正解だったな。唯一の救いは、アイツがここに居ないことか……」
家の中から、父の声が聞こえた。その声は、かつてないほど厳しく、そして震えている。
『うおおおあぁぁぁっ!!』
父の槍が閃いた。
その一突きは、父が自分に注いでいた技術そのもの。
父は確かに強かった。
槍はたけのこ兵の喉元を正確に貫き、一払いで数人の兵を木の葉のように薙ぎ倒す。
だが、敵があまりにも多すぎた。
倒しても倒しても、影の中から新たな兵士が雪崩れ込んでくる。
父の体に、新たな傷が増えていく。
チョコの血が、中庭の芝生を黒く汚していく。
『っ…ハァ、ハァ……! マイタケーノ!!お前は裏から逃げろ!!』
父は、肩で息をしながら、背後の母に向かって怒鳴った。
『そんなっ…あなた!!』
『いいから行けっ!お前が、キノの面倒を見るんだ!!』
父が必死に、自らの命を盾にして母に未来を託そうとする。
今ここにはいない我が子の元へ、何としても妻を逃がそうとするその想いを、蔑ろにするわけにはいかない。
母が、涙ながらに拳を握り、駆け出そうとした――その瞬間だった。
グサリッ。
不快な音が、中庭に響き渡った。
『あっ…!?』
『なっ…!』
「ああっ……っ!」
三人の、悲鳴にも似た声が重なる。
父の遥か後ろ、混戦を抜け出したたけのこ兵が一人。
その切先が貫いていた先は、ーーー母だった。
母が、口から大量のチョコを吐き出しながら、その場に崩れ落ちた。
『マイタケーノォォォォォ!!!!』
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
父とキノの絶叫。
父は、妻を刺したたけのこ兵に向けて、槍を力任せに振り回した。
その一撃は、憎悪と絶望に満ち、たけのこ兵の命を刈り取った。
だが、勝てない。勝てるはずがなかった。
妻を失い、絶望に染まった父の槍が、地面に滑り落ちた。
全身から力が抜け、父の膝がクシャリと折れる。
父を見下ろす、別のたけのこ兵の剣が、残酷に振り上げられた。
その時だった。
崩れ落ちる父の頭が、ゆっくりとこちらを向いた。
『…キ…ノ……お前…は……生き…ろ……』
何故か、その言葉が今、自分に向けられているように感じた。
あの日、この場所に自分はいなかったはずなのに。
これは、ただの過去の映像に過ぎないはずなのに。
確かに、父と目が合った。
父は、無事であるはずの愛しい次男へ、あるいは時空を超えてこの地獄を見つめているキノへと届けるように、その命の灯火を振り絞って、最期の願いを遺した。
次の瞬間、大気が爆ぜるような風切り音と共に、残酷な銀閃が中庭を駆け抜ける。
父の、首が飛んだ。
「ひ、あ…………あぁ、ぁぁ……っ!」
キノは、声にならない悲鳴を上げながら、自分の頭を両手で引きむしるように抱え込んだ。
視界を染め上げる、父と母のチョコの血。
辺りに充満する、吐き気を催すほどの甘ったるい死の匂い。
だが、地獄はまだ終わらない。
父を屠ったたけのこ兵が、転がった頭部に冷酷に近づくと、その"笠"を無惨に引き剥がした。
荒い切断面からどろりとチョコが滴るそれを、兵士はまるで手に入れた戦利品のように、懐の麻袋へと放り込む。
『トラベルト家当主の"笠"…確かに回収した。丁重に本里へ持ち帰るぞ。』
無機質な号令と共に、たけのこ軍の影が闇夜へと消えていく。
「あ……あぁ…」
次にキノの口から漏れたそれは、もはや声ですらなかった。
直後、入れ替わるように一つの影が飛び込んでくる。
その影は、他でもない――あの日、何も知らずに遊びから帰ってきた、かつての自分自身だった。
『……父さん? 母さん?』
追憶の中の自分が、震える声で両親の骸へと近づいていく。 そして、現実を理解した瞬間――。
『嘘だ…嘘だぁ!うわぁぁぁぁぁぁ!!』
かつての自分の絶叫が、現在のキノの鼓膜を容赦なく破らんばかりに突き刺さる。
あの日、ただ恐怖と憎悪のままに叫んでいた地獄の光景を、全ての真実を知った今の視点で、特等席で見届けさせられる鬼畜の所業。
薄れゆく光景の中で、キノは叫び声を上げずにはいられなかった。
「うあああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
光が、キノの狂気的な感情と限界を超えて共鳴し、遺跡の最深部で凄まじい精神の暴走が始まる。
脳の奥底、これまでノイズで固く閉ざされていた記憶の引き出しが、暴力的に、強引にこじ開けられていく。
神経が一本ずつ引き千切れるような激痛。脳髄に直接、黒い怨念の楔が打ち込まれるような感覚。
(僕は…アイツらを…!たけのこを…!駆逐しなくちゃいけない…!!)
キノの意思が、記憶の再生を更に加速させる。
脳内にフラッシュバックする、全ての記憶。
それら全ての奔流が最高潮に達し、世界が真っ白な光で爆発した。
――カチリ。
脳の最深部で、記憶が元通りに繋がった、確かな音がした。
それと同時に、キノの暴走はピタリと収まり、辺りを包んでいた光は、煙のようにゆっくりと霧散していく。
「…っはぁっ…はあっ……」
キノは両手を冷たい石の床につけ、激しく呼吸を乱しながら、じっと自らの手のひらを見つめた。
涙は、もう完全に止まっていた。
その瞳に宿るのは、ただ一つ。
家族を奪い、蹂躙した宿敵への、底知れない、冷徹なまでの殺意。
自分がどこで生まれ、どうして両親を失ったのか。
自分を縛りつけていたノイズは綺麗さっぱり消え去り、全ての記憶は完全に修復された。
ーーと思われていた。
「………?」
キノは不思議そうに首を傾げる。
心にぽっかりと穴が空いたような、不自然な違和感。
彼とって最も大切な記憶ーー
____________の記憶だけが、完全に欠落していた。




