第11話 『追憶』
外界の光が重厚な石扉の向こうに消え、キノは完全な闇の中にいた。
手にした松明の炎が、湿り気を帯びた遺跡の空気に不規則に揺れている。
石床を叩く自分の足音が、驚くほど大きく反響する。
(ここが…禁足地…)
辺りには、かつてここが神聖な場所であったことを思わせる巨大な石柱が、折れ重なるようにして横たわっている。
鼻を突く古い石の匂い。肌にまとわりつく、どこか甘ったるい死の気配。
そのどれもが、一人となったキノの心を不安にさせていた。
松明を掲げたキノの足元に、不自然な盛り上がりがあった。
「……っ!」
息を呑み、反射的に後ろへ下がる。
それは、数十年前に絶命したであろう兵士の遺骸だった。
壁から飛び出したままの石槍に貫かれた者、床から突き出た刃に引き裂かれたまま事切れている者。
さらには、トラップを回避したはずなのに、出口を見つけられず絶望の中で力尽きたのか、壁を掻き毟るような姿で固まっている骸もある。
生還者ゼロというエリンの言葉が、形となって目の前に突きつけられた。
キノは震える手で槍を握り直し、慎重に歩みを進める。 床の石板がわずかに沈む違和感を察知し、咄嗟に身を隠すと、先ほどまでキノの頭があった場所を巨大な斧が通り抜けた。
死の罠をかろうじて潜り抜けながら、キノは壁際に隠された下へと続く螺旋階段を見つけ出した。
(まだ、続くのか…)
階段を下りるにつれ、遺跡の崩壊はさらに激しさを増していった。
道はあちこちで裂け、奈落のような亀裂が口を開けている。
湿った壁には、不気味な黒ずんだ血痕のようなものが付着していた。
だが、それは鉄の臭いではなく、鼻を突くような濃密なチョコの香りを放っている。
ツタや苔が床を覆い、一歩踏み外せば滑落しかねない悪路。
進めば進むほど、空気は重く、そして耐え難いほどに「甘い匂い」が強くなっていく。
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさく鳴り響く。
ぬめるような苔の上を慎重に歩き、崩れかけた回廊を抜けたその時、視界が唐突に開けた。
そこは、広大な円形の最深部だった。
そして、その広間の中心には、二層に重なった円錐形の不思議な造形物――『アポーロ』が鎮座していた。
だが、キノはある光景を見て絶句した。
アポーロを取り囲むようにして、それまでの比ではない、異常なまでの数の遺体が広場を埋め尽くしていたのだ。
キノは、広場を埋め尽くす遺体たちの異様な姿に、背筋が凍りつくのを感じた。
それまでの罠で命を落とした兵士たちとは、明らかに死に様が違っていた。
外傷はない。何かに貫かれた形跡も、斬られた跡もない。
だが、どの骸もその顔は、叫び声を上げているような凄惨な形相で固まっていた。
ある者は自分の頭を掻き毟り、ある者は自らの喉を突き破らんばかりに指を食い込ませ、またある者は、隣に横たわる仲間の首を絞めたまま絶命している。
それは、外敵によって殺された姿ではない。
ーーー自らの内側から湧き出した狂気に、耐えきれずに死んでいった者の姿だった。
「これ……は……」
キノの脳裏に、エリンの言葉が蘇る。
『そこへ向かった者は、いまだ誰一人として生還していない。』
それは罠のせいだけではなかったのだ。
例え最深部まで辿り着き、秘宝を手にしたとしても、その瞬間に突きつけられる真実に、自らの心は耐えられない。
この凄惨な光景が、その事実を裏付けていた。
キノは震える脚を叱咤し、遂にアポーロの前に立った。
二層に重なった円錐形の頂点が、冷たく、だが誘うように輝いている。
(皆、これに触れて……過去を知って、狂ってしまったのかな。)
もし、この秘宝に触れれば、自分も彼らと同じように発狂し、この死の山の一部になるのではないか。
そんな恐怖が心臓を掴む。
だが、キノは逃げなかった。
「……それでも、僕は……」
キノは、震える手をゆっくりと伸ばした。
自分の過去、家族の拒絶、そして「キノ・トラベルト」が何者なのか。
たとえその答えが、命を奪うほどの絶望だったとしても。
指先が、アポーロの冷たい表面に触れた。
その瞬間、甘い匂いが爆発的に膨れ上がり、キノの意識はホワイトアウトした。
耳を劈くような絶叫が脳内に直接響き渡り、逃れようのない「真実」の濁流が、キノの魂を呑み込んでいった。
気づいた時、キノは眩い光の中に立っていた。
遺跡の静寂も、チョコの甘ったるい匂いも消え、そこにあったのは一つの温かな家族の姿だった。
『…オギャー!オギャー!』
静寂を破ったのは、張り裂けんばかりの赤子の産声。
(あれは、僕…?)
やがてキノは、自分を見下ろす二つの優しい眼差しに気付いた。
(あぁ……この人たちが、僕の……)
鼻筋が通り、穏やかな知性を纏っている父。
そして、疲れ果てながらも、聖母のような慈しみ深い微笑みを浮かべる母。
二人の瞳には、産まれたばかりの自分への愛が、溢れんばかりに湛えられていた。
『見て、あなた。本当に元気な子。」 』
母が震える指で、幼いキノの頬に触れる。
『ああ。…名前を決めないといけないな。」』
父が誇らしげに頷き、傍らに立っていた一人の少年に視線を向けた。
そこにはまだ幼く、だが今の面影を強く残す、純粋な瞳をしたリュフターがいた。
『リュフター。お前が兄さんになるんだ。この子の名前を、お前がつけてやってくれないか?』
幼いリュフターは、緊張した面持ちで、自分よりずっと小さな赤子の顔を覗き込んだ。
その瞳には、弟という存在に対する戸惑いと、それ以上の深い愛着が宿っていた。
(隊長だ…本当に…)
リュフターは小さな手で赤子の指をそっと握り、確かな声で告げた。
『……キノ。この子の名前は、キノがいい。』
『キノ……? キノコのことか?』
父が少し意外そうに聞き返すと、リュフターは赤子の小さな手をそっと包み込みながら、大人びた声で続けた。
『うん。キノコはね、死んでしまった木や、枯れてしまった葉っぱを、もう一度新しい土に変えてくれるんだって。この子がたった一人になっても。この子が歩く場所から、また新しい世界が一つずつ、どこまでも広がっていくように。 』
リュフターは、愛おしそうに赤子の額に自分の額を合わせた。
『キノ。……お前が皆を繋ぐんだよ。』
キノ。 それは、兄が弟へ贈った、『再生』という名の願いだった。
光の濁流はさらに勢いを増し、キノをさらなる過去の断片へと誘う。
そこにあったのは、永遠に続くかと思われた穏やかな日々の記憶だった。
トラベルト家の裏に広がる、大きな中庭。
そこには、木刀を手に無邪気に駆け回る少年時代のキノと、それを余裕のある足取りで追いかけるリュフターの姿があった。
『兄ちゃん、見て! 剣の練習、いっぱいしたんだ!』
キノはまだ自分よりもずっと長い木刀を両手で握りしめ、一生懸命に空を切る。
その足取りはおぼつかないが、瞳には兄への純粋な憧れがキラキラと輝いていた。
『お、よくなってる!でも、まだ腰が高いな。そんなんじゃ風に負けちゃうぞ!』
リュフターは今の冷徹な隊長とは別人のような、柔らかい微笑みを浮かべていた。
彼はキノの背後に回ると、大きな手でキノの小さな手を包み込み、一緒に木刀を構える。
「いいか、力で振るんじゃない。地面の呼吸を感じて、そこから力を繋げるんだ。…お前が繋ぐのは、剣だけじゃない。人の心も、未来もだ。』
『…むずかしいよ、兄ちゃん。』
キノが頬を膨らませると、リュフターは我慢できずに声を上げて笑った。
『はは!修行が足りない証拠だ。ほら、家まで競争だぞ。負けたら今日のチョコは俺がもらうからな。」
『えぇーっ! ずるい! 兄ちゃん、はやいよ!』
夕暮れ時の草原を、二人の笑い声がどこまでも駆けていく。
(隊長…)
キノはその眩しいほどに幸福な光景を、ただじっと眺めていた。
次にキノが見たのは、中庭で必死に槍を振るう幼きキノと、それを眺める父の姿だった。
『はぁ、はぁ……っ、父ちゃん、もう、腕が動かないよ…』
幼いキノが、重い槍を地面に落とし、その場に座り込む。
厳しい修練の最中。
本来なら叱責が飛ぶはずの場面で、父の表情は一瞬にして和らぎ、慌ててキノのもとへ駆け寄った。
『おお、すまないキノ! 根を詰めさせすぎたな。さあ、もう今日は終わりだ。冷たい水と、お前が好きなチョコを用意させてあるぞ。』
父はキノの小さな体をひょいと抱き上げると、その泥だらけの頬をハンカチで優しく拭った。
まるで壊れやすい宝物を扱うかのような、盲目的なまでの甘やかし。
キノはその温もりに包まれながら、無邪気に笑い、父の首に抱きついた。
(槍…お父さんが教えてくれたんだ……)
槍を握った時、異常なまでに手に馴染むあの感覚。
槍の扱いが、周りと比べても圧倒的に長けているその理由。
それは、父が自分にだけ注いでいた、偏愛に近い教育の記憶だったのだ。
その時、キノは傍で剣を振り続ける一つの影に気付いた。
それは父の影に隠れるようにして、たった一人、まだ剣を振り続けているリュフターだった。
彼は、自分と同じように汗を流し、自分よりも遥かに鋭い一撃を放っていた。
『……父さん。』
リュフターが、汗を拭いながら意を決したように声をかける。
その瞳には、縋るような、祈るような色が宿っていた。
『前に教えてもらった突き、出来るようになったよ。』
リュフターは父の前で、実際にやって見せる。
空気を切り裂く、完璧な一撃。
だが、父は立ち止まることもせず、熱意の欠片もない冷ややかな声で言った。
『…そうか。じゃあ次は重心移動だ。以前教えただろう。お前なら出来るはずだ。』
『……うん。』
リュフターの口から漏れたのは、感情の死に絶えた、氷のような声だった。
『え…?』
キノの口から、思わず驚きの声が漏れた。
父の態度は、あまりにも冷ややかだった。
自分に向けるあの蕩けるような甘い眼差しとは、似ても似つきもしない。
リュフターがどれほど完璧な剣技を披露しても、父はその鋭さや努力を称賛することはおろか、まともに視線を合わせることすらしなかった。
(どうして…? あんなに凄いのに……)
その時、キノは見てしまった。
兄の目の、先程まで中庭で自分に向けてくれていた温かな光が、急速に凍りついていく瞬間を。
『…頑張るね。』
直後放たれたリュフターのその声は、信じられないほど冷淡だった。
それは、父への期待を完全に捨て、ただの優秀な駒として生きることを決めた男の声だった。
二人の運命が、幸福という名の不平等によって、決定的に、そして残酷に分かたれていった瞬間を、キノは記憶の中で、これ以上ないほど鮮明に目撃していた。




