第10話 『依頼』
コツ…コツ…コツ…
規則的な足音が静寂な廊下に響く。
翌朝、キノは案内人と共に、基地のさらに奥深くへと足を踏み入れていた。
辿り着いたのは、窓から雲海を一望できる、静謐なエリンの執務室だった。
「昨日はよく眠れたか?キノ君。」
デスクで古い地図を広げていたエリンが、顔を上げて微笑む。
「はい、おかげさまで。あの…エリンさん。」
キノが意を決したように口を開きかけるが、エリンはその言葉を遮るように穏やかに手を上げた。
「あぁ。わかってるよ。話したいことがあるんだろう?急ぐことはない。今日はたっぷりと時間がある。」
「…ありがとうございます。」
エリンの余裕ある態度に、キノの肩の力がわずかに抜ける。
「キクラさんが来てからでもいいかな?彼も、君の身を案じている一人だ。大切な話なら、彼も居たほうがいいだろう。」
「勿論です。」
キノが答えると同時に、コン、コン、コンと、三回にわたって扉が鳴った。
「…失礼します。…お、キノ。もう来てたのか。」
扉が開き、キクラが入ってきた。その顔には、わずかにクマが出来ている。
「キクラさん。いいタイミングだ。丁度今から、話をしようとしていたところだ。」
エリンはキクラを迎え入れ、空いているソファを指した。
キクラが重そうに腰を下ろすと、エリンは改めてキノに向き直る。
「さて、キノ君。僕に話したいこととは何かな。第四前線基地からわざわざ足を運んだんだ、それ相応の事情があるんだろう?」
キノはキクラと視線を合わせ、それから意を決してエリンを見据えた。
「…僕の、記憶についてです。この基地に、失った記憶を取り戻せるかもしれない『アポーロ』という秘宝がある…そう聞いて、ここへ来ました。」
「アポーロ……」
初めてその目的を聞いたエリンは、意外そうに眉を動かした。
「…アポーロという秘宝は、確かにある。」
キノは息を呑み、わずかに身を乗り出した。
ベニテングの話は、ただの噂などではなく本物だったのだ。
キノは暗闇の底で、ようやく自分に繋がる確かな道を見つけたように感じた。
「ただ、キノ君。一つ申し訳ないことがあるんだ。」
エリンは申し訳なさそうに視線を伏せ、言葉を選びながら続ける。
「君が記憶を失っていることは聞いている。こちらとしても、君には最大限協力してあげたい。だが……アポーロが眠っているとされる場所は、この基地の中でも『禁足地』に指定されている場所なんだ。」
「禁足地……?」
「立ち入り禁止ってことだよ。あそこは僕達兵士ですら、入ることを固く禁じられている。」
「そんな…」
ようやく掴みかけた糸口が、音を立てて閉ざされていく。茫然とするキノに、エリンは言い聞かせるように、その理由を静かに告げた。
「この基地の最北端の遺跡にアポーロがあることは、随分と前から書籍に残されている。ただ、そこへ向かった者は、いまだ誰一人として生還していない。だから、立ち入り禁止になったんだ。」
「…何とかならないんですか。」
目の前でうなだれるキノを眺めていたキクラは、見かねたように声を絞り出した。
そんな彼の熱意とキノの悲痛な横顔を受け止めるように、エリンは静かに椅子の背にもたれかかった。
「……キノ君。君が、僕がこれから提示する条件を満たしてくれるなら、君をあの遺跡に入れてあげてもいい。」
「え…?」
キノが弾かれたように顔を上げる。
「立ち入り禁止になったのは何十年も前の話。現在、この基地の最高管理者は僕だ。最終的な決定権は、僕にある。」
エリンのその言葉に、キノだけでなく、キクラまでもが息を呑んだ。
基地の最高責任者が、長年守られてきた規律を曲げると言っているのだ。
「僕が提示する条件は一つだけ。それは……」
キノが身を硬くする。
どんな無理難題を突きつけられるのかと身構えるキノに対し、エリンは極めて真剣な、そしてどこか祈るような声音で告げた。
「…生きて、帰ってくる事。」
「え……それだけですか?」
キノは拍子抜けしたように、思わず言葉を漏らしていた。
もっと途方もない対価や、命を賭すような危険な任務を課せられるものとばかり思っていたのだ。
しかし、エリンの表情に冗談の色は一切なかった。
「それだけ、なんて言えるほど簡単な場所じゃないんだよ。さっきも言っただろう? 誰一人として生還していないと。つまり僕が君に課すのは、その前例を覆せ、という最高難度の依頼だよ。」
エリンはそう言って、真剣な眼差しをキノに向ける。
「規律を破って君を送り出す以上、僕を信頼してくれている部下達をがっかりさせるわけにはいかない。そして何より、君自身がそこで命を落としたら、周りにも悲しむ人がたくさんいるだろうからね。」
そう言ってエリンは、キクラの方へと視線を移した。
「……っ」
エリンの言葉の重みが、じわじわと胸に染み込んでいく。
文字通り、命懸けの条件。
キノは小さく息を吐き出し、自らの胸に手を当てて、力強く頷いた。
「……分かりました。必ず、生きて戻ります。」
その言葉にホッとしたのか、エリンは穏やかな顔に戻って告げる。
「……分かった。君を信じるよ。」
「…俺は行っちゃいけないんですよね。」
それまで腕を組んで、じっと話を聞いていたキクラが口を開いた。
その声には、キノを一人で行かせることへの焦燥と、諦めきれない響きが混ざっている。
「…これは、キノ君自身の記憶を取り戻す為の戦いだ。」
エリンは窓の外に広がる、どこまでも深い雲海へと視線を投げた。
「これは彼が失った過去、彼自身の魂と向き合うための試練なんだ、キクラさん。だから…僕達は愚か、例え実の兄であるリュフターであっても、これには介入してはいけないと僕は思っている。」
エリンのその言葉には、一切の私情を挟まない、どこか厳粛な響きがあった。
「…っ……」
キクラは組んでいた腕をさらに強く引き締め、ぐっと言葉を詰まらせた。
エリンの放ったその言葉の重みに、反論の余地はなかった。
本当は、自分がついて行ってやりたかった。
せっかくここまで泥にまみれながら、死に物狂いで一緒に歩んできたのだ。
しかしキクラは、これはキノが自分自身の足で乗り越えなければならない、絶対的な境界線である事を悟っていた。
キクラは深くため息を吐き出すと、組んでいた腕をほどき、キノの肩にガシッと手を置いた。
「……分かったよ。エリン隊長の言う通りだ。俺はここで待つ。」
キクラはキノの真っ直ぐな瞳を見つめ、少し声を低くして、だが力を込めて告げた。
「だがな、もしお前が戻ってこなかったら、俺は隊長に、どんな顔をして報告すればいいか分からない。それに、俺も滅茶苦茶悲しむ。絶対に生きて戻れ。これはエリン隊長の条件であると同時に、俺からの命令だぞ。」
「キクラさん……」
キノは肩に感じる手の温もりと、その不器用な優しさに胸を熱くしながら、何度も強く頷いた。
「はい。必ず、生きてここへ戻ってきます。」
「うん、良い決意だ。」
エリンは満足そうに微笑むと、デスクの引き出しから古びた、だが重厚な意匠が施された鍵を取り出し、キノへ渡した。
「一日でも早いほうがいいだろう。今から案内するよ。」
「ありがとうございます。」
キノは手に入れた鍵を強く握りしめ、エリンとキクラと共に執務室を後にした。
重厚な扉が閉まり、静まり返った廊下を三人の足音が進む。
エリンが先頭を歩き、その後ろをキノとキクラが並んで歩いた。
しばらくすると、エリンが何も言わずに立ち止まった。
そこは、基地の最北端に位置する、一際厳重に閉ざされた巨大な鉄格子の前だった。
その向こうには、周囲の活気から完全に切り離された、不気味なほど静まり返る古代の石造り遺跡が、山肌を這うように奥へと続いていた。
「ここから先が禁足地だよ。」
エリンが振り返り、キノを見つめる。
「鍵を差し込めばこの鉄格子が開く。……キノ君、重ねて言うが、生きて帰ることが唯一の条件だ。」
「…はい。」
キノは深く一礼すると、鉄格子の隙間から手を伸ばし、重厚な錠前に古びた鍵を差し込んだ。
カチャリ、と硬質な音が響き、ゆっくりと鉄格子が開いていく。
その向こうから吹き抜けてきたのは、何百年も拒絶されてきた空間が放つ、冷たく重い空気だった。
「ったく、お前一人で行かせるなんて、今から胃が痛くなってきそうだ。」
キクラはキノを見つめ、わざとらしくしかめっ面をして見せる。
「すいません、キクラさん。」
「絶対…生きて帰ってこいよ。」
「…勿論です。」
心配そうに話すキクラに、キノは小さく微笑みながら答えた。
泥だらけになりながら原生林を突き進んだあの時間が、今のキノの背中を確実に支えていた。
「……じゃあ、行ってきます。」
キノは槍を握り直し、一歩、光の届かない遺跡の闇へと踏み出した。
「おい、キノ!」
背後から、キクラの張り裂けんばかりの声が飛ぶ。
「絶対だぞ! 飯、用意して待ってるからな!」
キノは振り返らず、ただ片手を小さく上げてそれに応えた。
やがて、キノの背中が完全に遺跡の闇へと吸い込まれると、鉄格子は静かに、だが非情な音を立てて再び閉ざされた。
「……行ってしまいましたね。」
キクラは拳を握り締め、誰もいない闇を凝視する。
「あぁ。あとは彼を信じて待つだけだ。」
エリンの静かな、それでいて熱を持った言葉が、冷たい風に溶けて消えていった。




