第9話 『待宵』
「止まれ! それ以上近づけば射つぞ!」
城壁の上から響くのは、歓迎の言葉ではなく、鋭い警告だった。
キノとキクラは、引き絞られた無数の弓の群れを前に足を止める。
「ちょっと待ってくれ! 俺は第四前線基地のキクラだ。こっちは……」
「黙れ! キクラ殿が、そんな醜い格好をしているはずがない!」
「醜い…!?」
キクラが視線を下に送ると、そこには元の色がわからない程に変色し、原生林で引き裂かれた無惨な布切れがあった。
隣のキノもまた、性別すら判別できない程に見窄らしい姿をしている。
「…キクラさん。」
「…何だ。」
「これ…歓迎されてないって言うよりも…ただ不審者に見えるってだけじゃないですか?」
「……らしいな。」
キクラが短く認めると、その顔からまた一つ、乾いた泥がポロポロと剥がれ落ちた。
「おい、不審者! その場を動くな! お前たちには、たけのこ軍の擬態の疑いがかけられている!!」
「擬態じゃない!…不注意だ!!」
その魂の籠った叫びに、キノの肩が小さく震え始める。
「ちょっ…キクラさんっ…!」
キノは口元を泥だらけの手で押さえ、必死に笑いを堪える。
「くそっ…どうしたら…」
「何か証拠になるものを提示したらいいんじゃないですか?例えば…紹介状とか。」
キノの冷静な指摘に、キクラの顔がパッと明るくなった。
「そうか…その手があったか!」
キクラは汚れたリュックを慌てて地面に下ろし、中身をひっくり返さんばかりの勢いでガサゴソと漁り始めた。
「何だ…何をしている!怪しい動きをするな!!」
「待ってください!今、紹介状を探してるんです!」
キノが必死に城壁の上に向かって手を振り、時間を稼ぐ。
ようやくキクラがリュックの中から、汚れた手で一通の封筒を取り出す。
「あった、これだ…!おい!これを見ろ!我らが第四前線基地隊長、リュフター・トラベルトによる直筆紹介状だ!嘘だと思うなら、誰か降りてきて確認しろ!」
城壁の兵士たちが再び顔を見合わせ、ざわつき始める。
リュフターの名が出たことで、ようやく現場に緊張感のある対話が戻りつつあった。
「…今から確認に行く。その場から一歩も動くなよ!」
その声と共に、重厚な門がゆっくりと開き始める。
その様子を眺めていたキノは、ようやく事が進むことを確信し、小さく息を吐いた。
城内の一室、シャワーを浴びた二人の体から石鹸の匂いが漂う中、彼らは高価そうなソファに腰掛ける。
「うちの兵士達が失礼したな、キクラさん。」
そう話しかけてきたのは、第一前線基地隊長、エリン・ギルガマッシュだ。
「いえいえこちらこそ、あんな不格好な姿でお騒がせしてしまって。」
スッキリとした姿に戻ったキクラは、恐縮そうに頭を下げた。
「…ところで隣にいる君は、キノ君か?」
「えっ…あっ、はい!そうです!」
まさか、面識のない人物に、いきなり名前を呼ばれると思っていなかったキノは、裏返った声で返事をする。
「リュフターから話は聞いているよ。たけのこ軍の襲撃を、二度にわたって退けたんだってね。『話くらいは聞いてやって欲しい』と言われたよ。」
「えっ…」
キノは驚きで言葉を失う。
あの別れ際、一切関わらないと言わんばかりの態度だった兄が、事前に自分のことを伝えてくれていた。
その事実に、胸の奥が微かに熱くなる。
「申し訳ないが、君の話を聞くのは明日になってしまうかもしれない。今日は、キクラさんとの話で終わってしまいそうなんだ。」
「…そう、ですか。」
キノは少しだけ肩を落としたが、納得したように頷いた。
これほど巨大な基地の隊長が、自分のような一少年のために即座に時間を割けるはずがない。
むしろ、リュフターが口添えをしていなかったら、こうしてソファに座ってすらいなかったかもしれないのだ。
「悪いね。君が休む場所は用意してある。今日は遅いし、もうゆっくり休むといい。」
エリンが視線を向けた窓の外は、もう既に日が沈みかけている。
「はい、ありがとうございます。キクラさんも、お疲れ様でした。」
「おう、ゆっくり休めよ。」
キノは最後に丁寧に一礼すると、案内人に従って部屋を去った。
「さて、キクラさん。第四前線基地の現状と、ネガマリンという男について。詳しく聞かせてもらいたい。」
その言葉を背中で聞きながら、キノは長い廊下を歩いていた。
案内された客室は、あの地下牢の冷たい石床とは比べるまでもないほど、清潔で温かな匂いがした。
「失礼します。」
案内人の兵士が去り、一人になった室内。
キノは備え付けの椅子に腰を下ろすと、窓の外に広がる山頂の夜景を見つめた。
(明日…か。本当にあるのかな。)
冷たい風がガタガタと窓を叩く。
遠くからは、交代する見張りの兵士たちの低い話し声が、微かに聞こえてくる。
(僕に、いったい何があったんだろう…)
ーーたけのこ。
その単語を脳裏に浮かべるだけで、指先が冷たくなり、身の毛がよだつ嫌悪感が這い上がってくるあの感覚。
何故自分はこれ程までに、彼らを拒絶するのか。
拭い去れない不安を抱えたまま、キノは逃げ込むようにベッドへ体を預けた。
その瞬間、一日の疲労と抗いがたい眠気が押し寄せ、キノの意識は深い闇の中へと吸い込まれていった。




