2-0 ミッシング・イン・アクション
午前6時。大荒原の夜が明ける。この宇宙が誕生して以来、変わることのない自然の営み。ステファンズ・クリークの静かな水面は朝日を浴びて輝き、湖畔の木々は静謐な風の中にその葉を遊ばせる。
世界がどう変わろうと、太陽は今日も変わらず昇るのだ。電子ネットワークが形作る旧世界の理想郷が戦火に沈もうと、鋼鉄の機兵が地上を闊歩しようと、母なる地球は何一つ変わることなく回り続けてきた。だが、そんな爽やかな夜明けにはおよそ似つかわしくない、世界そのものを呪うような眼差しで朝日を睨む男がいた。ずぶ濡れのボロ切れと化したエスタンジアの軍服に身を包み、身体が泥にまみれるのも構わず湖畔の波打ち際に横たわる、男の名はゲイブ・ヒロタ。
(……ああ。生きてる、俺)
昨夜の敗北が、もう何年も昔のことのように思える。何度となくその前に立ちはだかった、異形のウォーカー。あの姿は忘れもしない。ヒロタの旧型ウォーカー「プロテクトラート」は戦いの中で爆散したが、コクピットを炎が飲み込むその寸前、爆風とともに乗り込み口から投げ飛ばされたヒロタは、機体諸共湖底に沈む運命から逃れたのだった。運転席に座っていた、名も知らない兵士がどうなったかは知らない。
背中にまとわりついた泥を落とすこともせず、ヒロタはその身を起こしてステファンズ・クリークの湖面を見つめた。敗者への当てつけのように光り輝く水面に、彼を本国に連れて行く筈だった輸送飛行艇の姿はない。そして対岸では、昨夜戦場になった前線基地の煙が未だにくすぶっていた。
ヒロタは、置き去りにされたのだ。その事実を改めて噛み締め、男はただ湖面を睨むことしかできなかった。きっと今頃、軍の帳簿の上ではMIAとして記録されていることだろう。
このまま原隊に帰らなければ、腹の底の見えないシュスター少佐や、いけ好かないホフマン曹長と縁が切れるかもしれない。ゲイブ・ヒロタは昨日死んだということにして、ここオーストラリアで新しい人生を始めるということも考えた。だがヒロタにとって「エスタンジア国防軍の士官」という肩書きは簡単に捨てられるほど安いものではない。この地位を手に入れるまでに、決して安くはない対価を払ってきたのだ。
何より今、岐路に立たされたヒロタの脳裏に浮かぶのは、愛しのレナーテ・マイヤー一等兵の笑顔である。彼女ほど素晴らしい女性は他にいない。彼女ともう二度と会えないかもしれないと思うと、それだけで自分のこめかみを撃ち抜きたくなる。
かといってノコノコと軍に戻っても、自分のしでかした過ちが消える訳ではない。一騎討ちを台無しにし、卑怯な手を使ってまで戦った挙句に無様な敗北を喫した三下として笑い者にされた上、運が良ければ重営倉、悪ければ不名誉除隊や銃殺まであり得る。帰ろうが帰るまいがマイナスしかないマルチバッドエンド。
こんなドン底の気分であっても、大抵の悩みは一服やればしばらく忘れられるものだ。いつもの癖でポケットに手を伸ばしたが、出てきたのは湖の水でグズグズになったタバコのパックだけ。金メッキのオイルライターはどこかに流されてしまっていた。だから今はただ、思考を停止して湖面に立つさざ波を眺めていることしかできないのだ。
「お悩みのようだね」
不意に、どこからか声が掛かる。聞き覚えのない声。良く通る、明瞭な意思を感じる声色。少年のようにも、女性のようにも聞こえる、中性的な声だった。
「……誰だ」
ヒロタも、正規の訓練を受けた軍人だ。普段なら、見ず知らずの人間に背後を取られることなど無いだろう。だが今のヒロタには腰を上げることすらせず、オットセイのような仕草でぬらりと振り向くのが精一杯だった。
湖畔の茂みががさりと揺れる。ヒロタの視界は、ついに声の主の姿を捉えた。肩の高さで揃えた黒髪。黒染めのジャングルファティーグとブーツ。もうすぐ年も明けようかという夏の最中には似つかわしくない服装。細身の体型、鼻筋の通った顔立ち、切れ長の瞳。その声同様、10代半ばの少年のようにも、成人を迎えた女性のようにも見える人影。12月の熱気の中にあって、白磁の肌には汗一つ浮かんでいない。まるで人形のようだ。
「エスタンジアの人間じゃないな。何者だ」
気取られないよう、そっと腰のホルスターに手を掛けながら誰何する。
黒装束に白い肌、モノクロームの人物はその口をおもむろに開き、名を名乗った。どこにでもいるような、平凡な名前と苗字。聞いたそばから忘れてしまいそうなほど、印象に残らない響きだった。
「まあ、僕が何者かなんて、今はどうだっていいじゃないか」
そう言って彼──もしくは彼女──は頭の後ろで手を組み、視線を逸らしてニッと笑った。それからヒロタの方に向き直り、今度はヒロタの顔を覗き込みながら、こう切り出した。
「昨日の戦闘はじっくり観戦させてもらったよ。君が何者で、どうして今この湖畔に座り込んでいるのかも、全て知ってる」
零下196度の青い眼差しに射竦められ、ヒロタは背筋に何か冷たいものが這い上がる感触を覚えた。この薄ら寒さは、濡れた軍服だけのせいではあるまい。
「何が狙いだ。何を企んでる」
精一杯の虚勢を張り、出来る限りの「殺しの顔」で睨み返す。
「やれやれ、そんな顔しなくたって良いじゃないか」
一方、眼前の相手は飄々とした態度を一切崩すことなく、薄笑いを浮かべたままヒロタの顔を覗き込む。
「原隊に戻りたいんだろう? それも、昨日の失敗を無かったことにして」
こいつは、どうして俺の事情をそこまで知ってるんだ。ヒロタは警戒を一切緩めない。愛銃ブラックホークの象牙グリップに手を添える。もし目の前の相手が何か妙な真似を起こせば、西部式のファニングショットがすぐさま胸に6つの風穴を開けるだろう。
「どこで知った。誰の差し金だ」
「質問は後で受け付けるよ。実は君に良い話があって来たんだ。僕の話を聞いてくれるか、まずはイエスかノーで答えてほしい」
一切噛み合わない会話。しびれを切らしたヒロタは素早く立ち上がって距離を取り、黄金エングレービングの施されたリボルバーを抜き放つ。
「黙れ! 何者だ、答えなければこいつが火を噴くぞ」
朝日を受けてギラリと光る銃身。しかし黒装束は動じる様子を全く見せず、不遜な態度を崩さないまま、黒染めレザーグローブに覆われた両手をゆるりと上げた。
「まあまあ、まずはその物騒なモノを下ろしてもらえないかな? ここで僕を撃ったって何も解決しない」
「うるさいぞ!」
ブラックホークの照準は、既に相手の眉間を捉えている。トリガーに掛けた指に少し力を込めるだけで、.357マグナム弾が頭蓋骨を貫く。そんな状況にしてこの余裕。間違いなく只者ではない。そして眼前の人物は、次にこんなことを口にしたのである。
「レナーテ・マイヤーさん、だっけ? 彼女ともう一度会いたくはないかい?」
「なっ……」
その名を耳にした途端、銃を握る腕から力が抜けていくのを感じた。なぜこいつが彼女の名前を。だがマイヤー一等兵のいない世界など闇そのもの。例え地球が二つに割れようと、彼女と離れることなど出来はしないのだ。
無意識のうちにヒロタは銃を下ろし、ただ相手が次の言葉を紡ぐのを待っていた。半長靴のソールで泥を噛み締めながら、ゆっくりと歩を進める。一度は開いた二人の距離が、じわじわと縮まっていく。
「よし、それでいい」
黒装束は満足げに頷くと、冷えきった笑みを顔に貼り付かせたままヒロタの瞳をじっと見つめる。
「少し場所を移して、それから僕の計画を聞いてほしい。大丈夫だよ、悪いようにはしないさ」




