第1話 異世界転生キターーー!!
夜空いっぱいに広がるオーロラは、現実とは思えないほど幻想的だった。青と緑の光がゆっくりと空を流れ、その隙間から無数の星々が顔を覗かせている。北海道でもないのにオーロラが見えるなんてニュースになるどころの騒ぎじゃない。俺は感動と興奮のままスマホを取り出し、その景色を写真に収めようとした。
だが、シャッターを押す直前だった。空全体が一瞬だけ強く輝いた気がしたのだ。眩しさに思わず目を細めた次の瞬間、視界は真っ白に塗り潰される。何かが起きたと理解する暇もなく、俺の意識はそこで途切れた。
それが、俺の覚えている最後の記憶だった。
◇
目を覚ました時、最初に見えたのは見知らぬ天井だった。木目の美しい梁が何本も走り、その隙間には柔らかな光を放つ結晶が埋め込まれている。病院でもホテルでもない。少なくとも俺が今まで生きてきた中で、一度も見たことがない内装だった。
しばらく天井を見つめながら状況を整理しようとする。しかし記憶を辿っても、オーロラの後がどうしても思い出せない。事故に遭ったのか、気絶したのか、それとも誘拐されたのか。可能性はいくつも浮かぶのに、確信できるものは何一つなかった。
不安になるべき状況なのだろうが、不思議と恐怖はなかった。むしろ体の調子は驚くほど良い。頭は冴えているし、全身に力が満ちているような感覚まである。まるで長年の疲れが一晩で消え去ったかのような爽快感に、俺自身が戸惑っていた。
ゆっくりと体を起こし、改めて部屋を見回す。広々とした室内には高級そうな家具が並び、磨き上げられた床には美しい絨毯が敷かれていた。窓は大きく、外から差し込む光が室内を明るく照らしている。どこを見ても金が掛かっていそうな空間なのに、テレビもエアコンも見当たらない。その代わり、壁や天井に埋め込まれた結晶が静かに光を放っていた。
その光景を眺めているうちに、俺の中である可能性が少しずつ大きくなっていく。誘拐にしては妙だ。病院にも見えない。そして何より、この部屋には現代日本らしさがほとんど感じられなかった。そんなことを考えていると、机の上に置かれたガラスのコップが目に入った。
喉が渇いていた俺は立ち上がろうとして、奇妙な感覚に襲われる。手を伸ばせば届く気がしたのだ。もちろん距離的には届くはずがない。それでもなぜか、届くと確信していた。理屈は分からない。ただ本能のようなものがそう告げていた。
試しに右手を伸ばした瞬間、コップがふわりと宙へ浮いた。見えない糸に引かれるように机を離れ、そのまま真っ直ぐ俺の方へ飛んでくる。やがてコップは何事もなかったかのように俺の手の中へ収まり、そこで初めて思考が完全に停止した。
意味が分からない。夢だろうかとも思ったが、痛いほど現実感がある。俺は震える手でコップを机へ戻し、もう一度試した。やはり飛んでくる。何度やっても結果は同じだった。コップは俺の意思に従うように空を飛び、その度に現実離れした光景を見せつけてくる。
そこでようやく、一つの答えが頭に浮かんだ。
普通なら否定するはずの結論だった。しかし俺は普通の人間ではない。少なくともラノベとアニメに関しては相当な経験値を積んできた。だからこそ、この状況から導き出される答えを知っている。
知らない部屋。記憶の空白。そして超常の力。
ここまで条件が揃っているなら答えは一つしかない。
「異世界転生キターーーー!!」
俺は思わずベッドの上で叫んでいた。胸の奥から込み上げてくる興奮を抑えられない。ついに来たのだ。ラノベ主人公になる日が。魔法が存在する世界で冒険する日が。俺の人生は今この瞬間から始まるのだと、本気でそう思った。
興奮したまま部屋を歩き回り、まず最初に確認すべきことを思い出す。転生主人公には重要な儀式がある。それは自分の顔を確認することだ。もしイケメン貴族に転生していたら、人生難易度が大幅に下がる可能性がある。
期待に胸を膨らませながら窓へ近づき、ガラスに映る自分の姿を確認する。そして数秒後、俺は深いため息を吐いた。そこに映っていたのは見慣れた黒髪と黒目、そして見慣れた自分自身の顔だった。王子様のような美少年も銀髪の貴公子も存在しない。
「そこは変わっとけよ……」
せめて髪色くらいサービスしてくれても良かったのではないか。そんな理不尽な文句を心の中で呟いた時、部屋の扉が静かにノックされた。
返事をするより早く扉が開き、一人の少女が部屋へ入ってくる。年齢は俺と同じくらいだろうか。黒髪を後ろでまとめた落ち着いた雰囲気の少女で、手には木製の盆を持っていた。その少女は俺の姿を見た瞬間に足を止め、信じられないものを見るように目を見開いた。
どうやら俺が起きていることに驚いているらしい。こちらとしても異世界で最初に会う人物なので緊張していたが、情報収集のチャンスを逃すわけにはいかなかった。沈黙が続く前に、俺は勢いよく口を開く。
「質問です!」
少女の肩が小さく跳ねる。しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。王国名、魔法学園、冒険者ギルド、ドラゴンの有無。確認したいことは山ほどあった。矢継ぎ早に質問を浴びせる俺に対し、少女はぽかんとした顔で固まってしまう。
やがて少女は何かを決意したように小さく頷き、真面目な声で告げた。
「……報告してまいります」
それだけ言うと、少女は踵を返して部屋を飛び出していった。俺が引き留める間もなく扉は閉まり、静寂だけが残される。
どうやら異世界転生初心者への説明会はまだ始まらないらしい。
俺はまだ知らない。
ここが三百年後の日本だということを。




