プロローグ
自分で読みたいと思える作品を作ってみようと思いました
Angel Fall
二〇四八年七月二十三日。
その日、人類は空を見上げていた。
数年前に発見された巨大彗星が地球へ最接近する日。各国の宇宙機関は繰り返し安全を宣言しており、世界中が歴史的な天体ショーに沸いていた。公園や展望台には人が集まり、夜を待ちきれない子供たちの声があちこちで響いていた。
日が沈み、世界が静かな夜に包まれる。
東の空には巨大な彗星が輝いていた。その長い尾は地平線から地平線まで伸び、まるで天に刻まれた光の道のようだった。誰もが息を呑み、ただその美しさに見入っていた。
それだけで十分、歴史に残る夜になるはずだった。
異変は静かに始まった。
北の空に現れた淡い光は、ゆっくりと夜空を染め上げていく。緑色の揺らめきは青へ、紫へと姿を変え、まるで空そのものが生きているかのように波打った。
最初は誰もがオーロラだと思った。
だが、その光は止まらなかった。
東京でも、ニューヨークでも、ロンドンでも、砂漠の真ん中でも、人々は同じ光景を目にしていた。本来なら極地でしか見られないはずのオーロラが、地球全体を覆っていたのである。
歓声が上がった。
誰も恐れてはいなかった。
人々は写真を撮った。
家族は肩を寄せ合った。
恋人たちは手を繋ぎ、子供たちは夜空を指差した。
世界中の人々が、同じ奇跡を見上げていた。
ネットには無数の写真が投稿された。
『人生で一番綺麗な景色』
『この時代に生まれて良かった』
『信じられない』
そんな言葉が世界中を駆け巡る。
いつからそう呼ばれ始めたのかは分からない。
だが後に多くの人々は、この夜を『奇跡の夜』と呼んだ。
一方で宗教家たちは別の言葉を口にした。天使が地上へ降りた夜。神が人類へ何かを告げた夜。
後に『Angel Fall』と呼ばれる言葉は、その頃から語られ始めたと言われている。
地上から四百キロ上空。
地球を周回する宇宙ステーションでも、その光景は観測されていた。
乗組員たちは窓の外に広がる光の海を見て言葉を失った。地球全体が淡く輝いている。その異様な光景を、彼らは映像として地上へ送り続けていた。
それが後に残される最後の観測記録の一つになることを、この時は誰も知らない。
三週間後。
ノルウェーの石油備蓄施設で異常が報告された。
満杯だったはずの燃料が減少していたのである。漏洩は確認されず、設備にも異常はなかった。原因不明の事故として報じられたが、多くの人々は気にも留めなかった。
しかし同じ現象は世界各地で発生した。
石油は少しずつ姿を消していった。
原因は分からない。規則性も見つからない。だが異常だけは確実に広がっていた。
やがて各国の研究機関が調査に乗り出すことになる。
その頃になると、人工衛星にも異常が現れ始めていた。
通信障害。
姿勢制御の異常。
原因不明の機能停止。
世界を支えていた通信網は少しずつ綻び始める。
だが誰も、その全てが一つの現象に繋がっているとは考えていなかった。
観測できない。
検出もできない。
それでも何かが存在すると仮定しなければ説明がつかない。
そう結論付けた国際研究チームは、共同声明の中で一つの名称を発表する。
――エーテル。
それは正体不明の何かを指す仮称だった。
粒子なのか、現象なのか、それとも全く別の何かなのか。誰にも分からない。それでも人類は、その未知に名前を与えた。
理解するための第一歩だった。
しかし理解は間に合わなかった。
石油は消えた。
石油由来製品も失われ始めた。
通信網は崩壊し、人工衛星は沈黙し、宇宙ステーションとの交信も途絶えた。
世界は少しずつ、だが確実に変わっていった。
後に歴史家たちは語る。
あれは石油文明の終焉だったのだと。
また別の者たちは語る。
新たな時代の幕開けだったのだと。
真実は今も分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
二〇四八年七月二十三日。
人類が『奇跡の夜』と呼んだその日を境に、世界は永遠に変わってしまった。




