第36話 理央、最後の赤ペン
八月二十八日、夜十時。辰巳岬灯台の最上階。改修を終えた空間には、未だ塗料の香りが微かに残っていた。
理央は一人、持参したクリップボードを膝に、照明に照らされた開館式の進行台本に赤ペンを走らせていた。
「開会の辞、五分。市長挨拶、七分……七分は長いわね。三分に切るべき」
無意識に口元が引き締まる。
理央の隣には、ペットボトルのアイスティーと折りたたまれたチームの議事録が置かれている。そのすべてに付箋と赤ペンがびっしりと張られ、まるで戦場の地図のようだった。
「私、本当に……面倒な人間よね」
誰に言うでもない独白に、ふと静けさが返ってくる。
灯台の窓越しに見えるのは、海と、潮崎市の夜景。
無数の灯りの中に、たしかにこの場所も溶け込み始めていた。
「……それでも、誰かが細部を守らなきゃ。光は、そう簡単には灯らないもの」
最終稿に至る赤ペンの一筆を引き終え、理央は静かにボールペンをキャップで閉じる。
そして立ち上がり、厚紙に綴じられた式次第を両手で掲げ、ひとつ息をつく。
「よし。明日の朝、印刷入稿。午後にはリハーサル」
その瞬間、背後の階段を誰かが上ってくる音がした。
振り返ると、樹がヘルメットを小脇に抱えて、軽く手を挙げる。
「もう帰ったかと思った」
「最後の赤ペンよ。やっと終わった」
理央は微笑み、赤ペンを樹に手渡す。
「この灯台も、ようやく魂が入ったわね」
「魂……?」
「細部に魂が宿るって、あなたが昔言ってたのよ」
思い出したように、樹が照れ笑いを浮かべる。
「俺、そんなカッコいいこと言ったっけ」
「言ったの。中三の夏、校内放送室の床で寝転んでたとき」
静かに笑い合い、二人は窓の外を見た。
灯台の先端に取り付けられた新しい投光器が、まだ明かりをともさないまま、夜の海を見つめていた。




