第29話 被害確認と修復計画
7月二十二日、午前八時。潮が引いたばかりの辰巳岬に、梅雨明け前の濃い蒸気が立ち込めていた。
「……ひどいな」
理央が低く呟いた。外壁の東側、白く塗ったばかりの部分に、ぱっくりと走る亀裂。その周辺の漆喰が剥がれ、剥落が広がっている。
前夜の台風により、シートがめくれ、雨水と風が容赦なく灯台の肌を叩きつけた。その結果が、今この光景だった。
「ここ、作業員さんが一部入ってたとこだろ。コーキング乾いてなかったのかもな……」
祐介が足元の泥を避けながら、慎重に壁に近づく。片手にはチェックリストが握られていた。
「データ見ると、風速は最大27メートル。あの夜にしては、むしろこれだけで済んだのが奇跡かも」
彼は冷静な口調で続けた。
「奇跡じゃ、保険は下りないわよ」
理央がスマホを取り出し、剥がれた部分を様々な角度から撮影しながら言った。
「こういうのは“施工途中の事故”扱いにできる可能性がある。でも証拠が必要」
「じゃあ、撮れるだけ撮るぞ!」
亮汰がいつの間にかドローンを飛ばしていた。
「空撮データも添えると説得力上がるっしょ。俺、保険会社にそうやって車の事故で通したことある!」
「……お前、何の事故だよそれ」
志歩が小さく笑いながら、剥がれた壁の破片を拾っていた。
「ねえ、この漆喰、割れ方がちょっときれい。展示とか、できないかな」
「廃材再利用の発想は悪くないね」
亜梨沙が手帳を広げ、漆喰の表面に指を這わせながら言った。
「強度と重量がわかれば、加工の可能性はある。でもその前に……」
「修繕費。見積もらなきゃ」
彼女はペンを取り出し、冷静に数字を書き出し始めた。
「外壁補修、足場の再構築、資材再調達、そして作業員の人件費の再交渉。ざっと、三十万は見ておいたほうがいい」
「えっ、三十……」
亮汰が目を剥くが、誰も驚かなかった。
この数ヶ月、資金と戦いながら歩んできた仲間たちには、その数字が“致命的”ではないことを本能で知っていた。
「まあ、三十万で済むなら安い方よ。あの風で倒壊してたら、全額パーになってたかもしれないんだから」
理央が肩を竦めて言った。
「で、どうする? この追加費用、クラファンの残りから出す?」
志歩が聞くと、亜梨沙が首を横に振った。
「ダメ。クラファンの支出項目には“仕上げ工程”と書いてあるから、こういった“事故対応”は対象外。支出内容に整合性が取れなくなる」
彼女は、慎重な性格らしく、資金運用に一切の抜け目を作らなかった。
「じゃあどうする? もう頼れる父親もいないしなー」
亮汰が冗談めかして祐介を見たが、祐介はにやりと笑っただけで返した。
「一つだけ、手がある」
亜梨沙が静かに言った。
「“臨時交付金制度”。市内の観光資源が自然災害の影響を受けた場合、補助金の枠がある。去年の資料で確認したことがある」
「それ、使えるの?」
樹が声を上げた。
「正式な運用は“完成後の施設”が前提。でも、工事中の観光施設も“準備段階として申請可能”という但し書きがある。理央と私で申請書を作る。樹くん、課長に根回しお願いできる?」
「もちろん。今日中に話を通す」
チームの空気が、ぴんと張った糸のように研ぎ澄まされた。
「壊れたから諦めるんじゃない。壊れても、直せばいい」
理央がスマホをしまいながら言った。
「このプロジェクトって、そういうものじゃなかった?」
「……そうだな」
樹が答え、壁に残された亀裂を見つめた。
「傷も含めて、灯台なんだ」
照り始めた朝日が、ひび割れの奥まで差し込んでいた。潮風に打たれ、剥がれかけた白い壁。その姿は、まるで修復を待つ帆船のようだった。




