第28話 嵐の警報
それは、天気予報が「進路未定」と曖昧に伝えていた台風が、突如として進路を東へ変え、潮崎市を直撃するという報せだった。
7月20日深夜——。
街の空は湿った夜風にざわめき、雲は音もなく流れていた。だが気象庁の発表を見た市危機管理課の祐介は、すぐに事の重大さを悟る。
「……足場、危ないかもしれない」
彼はすぐにスマートフォンを手に取った。時刻は23時過ぎ。迷いなく樹の番号を押す。
「……もしもし、樹。すぐ灯台、見に行った方がいい。台風、東に寄ってきてる。中心気圧も予想より深くなってる」
電話越しの祐介の声は冷静だった。しかし、冷静であることと楽観的であることは違う。彼は冷静に、最悪を想定していた。
灯台周辺は海風の通り道であり、仮設の足場は嵐に極めて脆い。ましてや工事が中断された週末——現場は無人のままだ。
「了解。俺、行ってくる」
樹は短く返事をすると、電話を切った。外はすでに小雨。だが風が異様に温かく、不穏な匂いを含んでいた。
「亮汰にも連絡する」
祐介がもう一度スマホを握り直した時には、すでに靴紐を結んでいた。
* * *
灯台へ続く細道を、樹の車が走る。
時折、道路脇の竹が折れるような音が車内まで響く。
「どうか、何も起きていませんように……」
祈るように口をついて出たその言葉の直後、スマホに亮汰から着信が入った。
「おう、もう灯台の下まで来てる。風、結構ヤバい。足場、揺れてるぞ!」
「マジか……俺もすぐ着く!」
駐車場に車を止め、樹はヘッドライトの先に足場の影を見つけた。まるで幽霊が息を吐くように、仮設フレームがわずかにしなっている。
「亮汰! 一人で登るなよ!」
「バカ言え、こういうときは二人だろ」
亮汰が笑いながら現場のロープを引き直していた。タオルを頭に巻き、ライトを肩にくくりつけている。
「これ、俺の特製ヘッドランプ。災害系YouTubeの真似だけど、意外と役に立つんだぜ」
「そんな無謀なもん真似すんなって……!」
怒鳴りながらも、樹は懐中電灯と手袋を取り出し、ロープの固定作業に入った。
風がまたひときわ強くなる。
ギシリ、と足場が音を立てた。
ロープの固定を終えた直後、突風が一気に岬を駆け抜けた。海面が泡立ち、波頭が岩にぶつかって砕ける音が響く。
「やべ……このままじゃ、布養生が吹っ飛ぶ!」
亮汰が叫び、仮設足場の最上部を見上げた。ブルーシートがばたばたと踊っている。手すりの養生テープが風で剥がれかけていた。
「樹! 俺、上いくわ!」
「やめとけ、飛ばされるぞ!」
「……お前が言ったろ。『嫌われても、やるべきことはやる』って」
そう言い残すと、亮汰は足場のハシゴを駆け上がった。
「亮汰ァァッ!!」
樹が追いかけようとした時、後方でクラクションが鳴った。
白いヘッドライトに照らされて、祐介が息を切らしながら走ってくる。
「足場、下から支える! お前は上に行くな!」
その言葉と同時に、風の中から鋭い裂ける音が響く。ブルーシートが一枚、もぎ取られて空を舞った。
「亮汰、伏せろっ!!」
祐介の叫びに、亮汰は咄嗟にしゃがみ込んだ。その頭上を、剥がれた鉄骨の一部が通過していった。
「……ッ、助かった……!」
亮汰の額に冷や汗がにじんでいるのが、ライトに照らされて見えた。
すぐさま祐介が梯子を登り、彼を肩で抱えて下まで引きずり下ろす。
「バカ、無謀すぎる……お前は本当に……!」
そう言いかけて、祐介は言葉を飲み込んだ。亮汰の手は、まだロープを握っていた。風で飛ばされかけた養生シートの端を、しっかりと。
「でも……守ったな」
祐介の呟きに、亮汰は照れくさそうに笑った。
「怖くて足、ガクガクだけどな……でも、光らせたいんだよ、あの灯台。今度は、ちゃんと、俺の手で」
その瞬間、三人の視線が一致した。
漆黒の空の下、岬の上にそびえる白い灯台。その影は闇に溶けそうになりながらも、確かにそこにあった。
「……あとは風が収まるのを待つだけか」
祐介が言った。
「いや、それでもまた立て直すさ。壊れても、また建てる。諦めなきゃ、何度でも」
樹の言葉に、亮汰がうなずいた。
「じゃあ俺、次はちゃんと許可とって登るわ」
「その前にまず反省文な」
三人の笑い声が、風の合間に消えていった。
翌朝、嵐が去った岬には、湿った潮風のにおいと共に静けさが戻っていた。
辰巳岬灯台の足元では、ブルーシートの一部が裂け、倒れた単管が雑草に埋もれている。外壁の一部には剥落した箇所も見えた。
「被害は……最小限って言えるのか?」
祐介が瓦礫をよけながら呟く。
「……でも、壊れた分はやり直せる。俺たちはまだ、諦めてない」
樹の声は濡れた空気の中で重たくも力強かった。
少し遅れて、理央と志歩、亜梨沙が到着する。
「この状態じゃ、すぐ作業再開は難しいわね」
理央が崩れた足場の接続部を見て険しい顔をする。
「保険、使える部分があるかも。写真、撮って記録に残すわ」
彼女はすぐにスマホを取り出し、壊れた箇所を淡々と撮影し始めた。
「まったくもう、どうしてこんな天気で作業なんて……」
亜梨沙がぶつぶつ言いながらも、現場の確認メモを取り出して書き込みを始める。
「でもさ……」志歩が呟いた。「こういう時の灯台って、なんか象徴っぽくて、映えるね」
彼女は雨に濡れた灯台の写真を撮り、その一枚を見つめた。
「嵐の中で残った光、って感じ。次の広報に使えるかも」
「その写真、借りるわ」理央が手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待って、まだ加工前……!」
志歩が慌ててスマホをひっこめると、微笑が仲間の顔に広がった。
全員が静かに灯台を見上げる。
「俺さ……」亮汰がぽつりと呟く。「無茶ばっかしてるけど、やっぱこの場所が、好きなんだ」
「無茶だからこそ動ける時がある。正しさと、無謀さ。どっちも必要だったよ」
祐介が言い、亮汰と拳を軽く合わせた。
「行こう。今日のうちに、修復の段取り立て直すぞ」
樹の一言で、皆が再び灯台に近づく。
嵐の夜を越えた灯台は、傷だらけながらも、立ち続けていた。
それは、彼らの挑戦がまだ終わっていないことを示す、静かな証だった。




