第2話 選抜
翌朝。
雪の脚が、悲鳴を上げていた。起き上がろうとして、肘が床を滑る。全身が、錆びた蝶番のように軋む。
ジムの蛍光灯が、もう灯っていた。男が、ラックのプレートを拭いている。
「プランク。一分」
雪が床に伏せる。前腕をつく。つま先で身体を持ち上げる。
腹が、焼ける。昨日の倍、痛い。だが——
三十秒。腰は沈まない。四十秒。腹が震える。五十秒。視界の端が白む。
六十秒。
「いい」
雪が床に崩れ落ちた。頬をコンクリートに押し付けて、息をする。
男が、上から言った。
「今日は、最初からやり直しにならなかったな」
「次。腕立て。膝付き。二十回」
雪が掌をつく。肘を曲げる。五回。十回。十二回——
「……もう、できないです」
十三回目で、肘が止まった。床に額が触れる。
男の目が、冷えた。
雪は、その目を見た。昨日と同じ温度。いや、昨日より少しだけ、深い。何が言いたい、という目。
雪は、床に額をつけたまま、言った。
「……お腹、空きました」
沈黙。
「昨夜から、何も食べてません」
男が、何も言わなかった。三秒。五秒。
背を向けて、奥の事務机の引き出しを開けた。何かを取り出す。雪の前に置いた。
おにぎりだった。二つ。海苔が、少し湿っている。コンビニのものではない。握った跡が、不揃いに残っている。
「食え。十分」
雪は、おにぎりを手に取った。一口目で、視界が滲んだ。泣いてはいない。ただ、塩気が、空腹の胃に沁みた。
十分後。
「再開」
腕立て。スクワット。プランク。昨日の倍の回数。雪の膝が、二度床を打った。その都度、起き上がった。
男が時計を見た。
「今日はここまで——」
「メニューを増やしてください」
男の手が、止まった。
雪が、床に膝をついたまま、見上げていた。息が荒い。汗が顎から滴っている。だが、目が、逸れていなかった。
「過保護に、しないでください」
沈黙。
男が、ゆっくりと雪を見た。
「本気か」
低い声。
「お前が言い出したことだ」
一歩、近づく。
「途中でやめたら、二度と弟子に取らないぞ」
男が、ホワイトボードの前に立った。まだ何も書かれていない白い面に、マーカーで書き始める。
【二日目以降】
雪は、ボードを見た。
五セット。五セット。四セット。三セット。
今朝、十七回で肘が落ちた。それを二十回、五回繰り返す。
一分で視界が白んだプランクを、九十秒。三回。
種目は十。間隔は三十秒。
「……」
男がマーカーを置いた。
「まだ、軽い。だが今日はこれ以上は組まん。お前の身体が、明日、動く保証がない」
雪が、ボードを見たまま、言った。
「……できるはずがないと、わかってるでしょう」
―
夜。
雪が、事務机の前に立っていた。
「師匠」
男がペンを置いた。
「......住まいと食事を、いただけませんか」
雪の声は、落ち着いていた。
「何でもします」
男が、椅子に背を預けた。指先で、机を二度叩く。
「三つ」
雪が背筋を伸ばす。
「一。掃除、器具の手入れ、雑務。朝六時から八時。毎朝だ。一日も欠かさん」
「二。食事は、俺が作るものだけ。他で勝手に食べるな」
「三」
男の目が、雪を貫いた。
「トレーニング中に弱音を吐いたら、その日の飯は抜きだ」
雪が、唾を呑んだ。
「……はい」
男が立ち上がり、受付の裏を顎で指した。
「あの部屋を使え」
雪が覗く。四畳半。窓が一つ。薄いマットレスと、毛布。昨日の物置より、少しだけましだった。
「使用人にしたんじゃない」
男が、背後から言った。
「掃除も食事も、トレーニングの一部だ。身体を管理できない奴に、拳は握れん」
雪が、部屋に戻った。マットレスの上に座る。
―
三日目の夜。
トレーニングが終わり、雪が床に座り込んでいた。男がプレートを片付けている。
「師匠」
男が顔だけ向ける。
「私を、もっと強くしてください」
唐突だった。脈絡がなかった。だが、雪の目は、三日間ずっとこの言葉を温めていた目だった。
男の手が、止まった。プレートをラックに戻す。カチリ。
「なら、明日から、メニューを変える。強度を上げる」
「……できるだけ、早く」
雪が言った。
「一刻でも、早く、強くなりたい」
男が、雪を見た。
「最短で強くなる方法は、この通りだ」
ラックを、床を、プレートを、手で示す。
「それが一番地味で、一番早い」
「一日でも、一刻でも早く——」
男は、雪を見た。
一瞬の沈黙。
「理由を言え」
声が、変わった。
雪は、息を吸った。
「龍門の選抜に、出ないといけません」
男の表情は、変わらなかった。だが、手の動きが止まった。
「一次は、三週間後です」
沈黙。
雪が、続けた。
「家系交代制の義務です。十二年に一度、持ち回りで。今年は、うちの番だった」
声が、平坦だった。感情を抑えているのではない。もう、感情を出す段階をとっくに過ぎている。
「家主堂の議論で......私が選ばれました」
男が、何も言わなかった。
龍門の選抜ーー知っていた。多段階選抜。全て、生死線。落ちたら、家系が代償を払う。
「……私だけが死ぬなら、まだいい。でも、そうじゃない」
雪が、自分の掌を見た。三日間で、豆が三つ潰れていた。
「だから、強くならなきゃいけない。早く」
男が、ラックに背を預けた。腕を組む。
「……わかった」
そのあっさりさに、雪は一瞬呆然とした。
「あなたなら......」
思わず言いかけて、口をつぐむ。
男が、振り返った。
「俺が何だ、言え」
「いえ......誰も、防げるはずがない。でも——」
「庇わない」
即答だった。
「庇った瞬間、お前は弟子じゃなくなる」
雪の唇が、震えた。
男が、一拍、置いた。
「……だが、一つだけ、約束する」
雪が、顔を上げた。
「お前が選抜の場に立つとき、俺は客席にいる」
雪の目が、熱くなった。泣かなかった。
「師匠は、選抜を最終段階まで通ったんでしょう」
雪が、言った。声が、少しだけ、強くなった。
「もっと短時間で上げる方法を知っているはずです」
男の目が、細くなった。
「知っている」
一拍。
「だが、お前にはまだ早い。基礎がなってない」
「そこを、何とか——」
「寝る時間を削れ」
男が、言った。ホワイトボードを指す。
「睡眠六時間。残り全部、トレーニングに回す。三週間で、身体を作り替える。それで満足か」
脅しだった。雪には、わかった。本当にやるつもりか、という問い。お前の身体は、まだ六時間で耐えられる器じゃない、という警告。
雪が、ホワイトボードを見た。
「分量と強度は、遠慮なく上げてください」
雪が、言った。
男が、振り返った。
「そのメニューじゃ、甘い。もっと上げていい」
一拍。
「ただし、睡眠時間は八時間、いただきます」
沈黙。
男が、雪を見た。四日間、一度も変わらなかった目が、初めて、変わった。
「……いいだろう」
男が、言った。低い声。
「……ただし、一つだけ、勘違いするな」
一歩、近づいてくる。
「お前が睡眠を八時間と言った。俺は、それを認める」
もう一歩。
「だが、睡眠は、お前が自分で確保するものだ」
雪が、背筋を伸ばす。
「メニューは、お前の睡眠時間を前提に組む。つまり——」
男の目が、雪の目を、正面から捉えた。
「お前が八時間寝なかったら、その日のメニューは、お前の身体を壊す。そういう組み方をする」
一拍。
「わかったな」
「……はい」
男が、ホワイトボードの前に立った。消し板を手に取る。
書いてあったメニューを、全部、消した。
白い板が、裸になる。
男が、マーカーを手に取った。
―
【新メニュー】
雪が、ホワイトボードを見た。
「……1キロ3分」
最後の400mの、その先に書かれていた目標ペース。
「走れたこと、ないです」
男が、マーカーを置いた。
「それくらいないと、通らないですか。一次」
男が、腕を組んだ。
「……一次の通過タイムは、非公開だ」
一拍。
「だが、俺の経験から言う」
雪が、息を止めた。
「1キロ3分30秒。これが、一次のボーダーだ」
雪の目が、見開かれる。
「3分は、二次のボーダーだ」
男が、続けた。
「お前が、今、1キロ3分を走れないなら、一次は通れるかもしれん。だが、二次で落ちる」
一拍。
「だから、今日から、3分を目指す。それだけだ」
雪が、唇を噛んだ。
「私……最高記録、4分半なんです」
声が、小さかった。
「1キロ、4分半」
沈黙。
「その記録は、いつ出した」
「……一年前。家系の試練で」
「その時、本気だったか」
雪が、黙った。三秒。五秒。
「……死ぬ気で、走ったわけでは、なかったけども」
男が、一歩、近づいた。
「ならば、話は早い」
雪の目の前に、立った。上から見下ろす。温度のない目。
だが、その奥に、何かが、灯っていた。
「俺が、死ぬ気にさせてやろう」




