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登龍門  作者: 月


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2/3

第2話 選抜

翌朝。


雪の脚が、悲鳴を上げていた。起き上がろうとして、肘が床を滑る。全身が、錆びた蝶番のように軋む。


ジムの蛍光灯が、もう灯っていた。男が、ラックのプレートを拭いている。


「プランク。一分」


雪が床に伏せる。前腕をつく。つま先で身体を持ち上げる。


腹が、焼ける。昨日の倍、痛い。だが——


三十秒。腰は沈まない。四十秒。腹が震える。五十秒。視界の端が白む。


六十秒。


「いい」


雪が床に崩れ落ちた。頬をコンクリートに押し付けて、息をする。


男が、上から言った。


「今日は、最初からやり直しにならなかったな」


「次。腕立て。膝付き。二十回」


雪が掌をつく。肘を曲げる。五回。十回。十二回——


「……もう、できないです」


十三回目で、肘が止まった。床に額が触れる。


男の目が、冷えた。


雪は、その目を見た。昨日と同じ温度。いや、昨日より少しだけ、深い。何が言いたい、という目。


雪は、床に額をつけたまま、言った。


「……お腹、空きました」


沈黙。


「昨夜から、何も食べてません」


男が、何も言わなかった。三秒。五秒。


背を向けて、奥の事務机の引き出しを開けた。何かを取り出す。雪の前に置いた。


おにぎりだった。二つ。海苔が、少し湿っている。コンビニのものではない。握った跡が、不揃いに残っている。


「食え。十分」


雪は、おにぎりを手に取った。一口目で、視界が滲んだ。泣いてはいない。ただ、塩気が、空腹の胃に沁みた。


十分後。


「再開」


腕立て。スクワット。プランク。昨日の倍の回数。雪の膝が、二度床を打った。その都度、起き上がった。


男が時計を見た。


「今日はここまで——」


「メニューを増やしてください」


男の手が、止まった。


雪が、床に膝をついたまま、見上げていた。息が荒い。汗が顎から滴っている。だが、目が、逸れていなかった。


「過保護に、しないでください」


沈黙。


男が、ゆっくりと雪を見た。


「本気か」


低い声。


「お前が言い出したことだ」


一歩、近づく。


「途中でやめたら、二度と弟子に取らないぞ」


男が、ホワイトボードの前に立った。まだ何も書かれていない白い面に、マーカーで書き始める。


【二日目以降】


雪は、ボードを見た。


五セット。五セット。四セット。三セット。

今朝、十七回で肘が落ちた。それを二十回、五回繰り返す。

一分で視界が白んだプランクを、九十秒。三回。

種目は十。間隔は三十秒。


「……」


男がマーカーを置いた。


「まだ、軽い。だが今日はこれ以上は組まん。お前の身体が、明日、動く保証がない」


雪が、ボードを見たまま、言った。


「……できるはずがないと、わかってるでしょう」


―


夜。


雪が、事務机の前に立っていた。


「師匠」


男がペンを置いた。


「......住まいと食事を、いただけませんか」


雪の声は、落ち着いていた。


「何でもします」


男が、椅子に背を預けた。指先で、机を二度叩く。


「三つ」


雪が背筋を伸ばす。


「一。掃除、器具の手入れ、雑務。朝六時から八時。毎朝だ。一日も欠かさん」


「二。食事は、俺が作るものだけ。他で勝手に食べるな」


「三」


男の目が、雪を貫いた。


「トレーニング中に弱音を吐いたら、その日の飯は抜きだ」


雪が、唾を呑んだ。


「……はい」


男が立ち上がり、受付の裏を顎で指した。


「あの部屋を使え」


雪が覗く。四畳半。窓が一つ。薄いマットレスと、毛布。昨日の物置より、少しだけましだった。


「使用人にしたんじゃない」


男が、背後から言った。


「掃除も食事も、トレーニングの一部だ。身体を管理できない奴に、拳は握れん」


雪が、部屋に戻った。マットレスの上に座る。


―


三日目の夜。


トレーニングが終わり、雪が床に座り込んでいた。男がプレートを片付けている。


「師匠」


男が顔だけ向ける。


「私を、もっと強くしてください」


唐突だった。脈絡がなかった。だが、雪の目は、三日間ずっとこの言葉を温めていた目だった。


男の手が、止まった。プレートをラックに戻す。カチリ。


「なら、明日から、メニューを変える。強度を上げる」


「……できるだけ、早く」


雪が言った。


「一刻でも、早く、強くなりたい」


男が、雪を見た。


「最短で強くなる方法は、この通りだ」


ラックを、床を、プレートを、手で示す。


「それが一番地味で、一番早い」


「一日でも、一刻でも早く——」


男は、雪を見た。


一瞬の沈黙。


「理由を言え」


声が、変わった。


雪は、息を吸った。


「龍門の選抜に、出ないといけません」


男の表情は、変わらなかった。だが、手の動きが止まった。


「一次は、三週間後です」


沈黙。


雪が、続けた。


「家系交代制の義務です。十二年に一度、持ち回りで。今年は、うちの番だった」


声が、平坦だった。感情を抑えているのではない。もう、感情を出す段階をとっくに過ぎている。


「家主堂の議論で......私が選ばれました」


男が、何も言わなかった。

龍門の選抜ーー知っていた。多段階選抜。全て、生死線。落ちたら、家系が代償を払う。


「……私だけが死ぬなら、まだいい。でも、そうじゃない」


雪が、自分の掌を見た。三日間で、豆が三つ潰れていた。


「だから、強くならなきゃいけない。早く」


男が、ラックに背を預けた。腕を組む。


「……わかった」


そのあっさりさに、雪は一瞬呆然とした。


「あなたなら......」


思わず言いかけて、口をつぐむ。


男が、振り返った。


「俺が何だ、言え」


「いえ......誰も、防げるはずがない。でも——」


「庇わない」


即答だった。


「庇った瞬間、お前は弟子じゃなくなる」


雪の唇が、震えた。


男が、一拍、置いた。


「……だが、一つだけ、約束する」


雪が、顔を上げた。


「お前が選抜の場に立つとき、俺は客席にいる」


雪の目が、熱くなった。泣かなかった。


「師匠は、選抜を最終段階まで通ったんでしょう」


雪が、言った。声が、少しだけ、強くなった。


「もっと短時間で上げる方法を知っているはずです」


男の目が、細くなった。


「知っている」


一拍。


「だが、お前にはまだ早い。基礎がなってない」


「そこを、何とか——」


「寝る時間を削れ」


男が、言った。ホワイトボードを指す。


「睡眠六時間。残り全部、トレーニングに回す。三週間で、身体を作り替える。それで満足か」


脅しだった。雪には、わかった。本当にやるつもりか、という問い。お前の身体は、まだ六時間で耐えられる器じゃない、という警告。


雪が、ホワイトボードを見た。


「分量と強度は、遠慮なく上げてください」


雪が、言った。


男が、振り返った。


「そのメニューじゃ、甘い。もっと上げていい」


一拍。


「ただし、睡眠時間は八時間、いただきます」


沈黙。


男が、雪を見た。四日間、一度も変わらなかった目が、初めて、変わった。


「……いいだろう」


男が、言った。低い声。


「……ただし、一つだけ、勘違いするな」


一歩、近づいてくる。


「お前が睡眠を八時間と言った。俺は、それを認める」


もう一歩。


「だが、睡眠は、お前が自分で確保するものだ」


雪が、背筋を伸ばす。


「メニューは、お前の睡眠時間を前提に組む。つまり——」


男の目が、雪の目を、正面から捉えた。


「お前が八時間寝なかったら、その日のメニューは、お前の身体を壊す。そういう組み方をする」


一拍。


「わかったな」


「……はい」


男が、ホワイトボードの前に立った。消し板を手に取る。


書いてあったメニューを、全部、消した。


白い板が、裸になる。


男が、マーカーを手に取った。


―


【新メニュー】


雪が、ホワイトボードを見た。


「……1キロ3分」


最後の400mの、その先に書かれていた目標ペース。


「走れたこと、ないです」


男が、マーカーを置いた。


「それくらいないと、通らないですか。一次」


男が、腕を組んだ。


「……一次の通過タイムは、非公開だ」


一拍。


「だが、俺の経験から言う」


雪が、息を止めた。


「1キロ3分30秒。これが、一次のボーダーだ」


雪の目が、見開かれる。


「3分は、二次のボーダーだ」


男が、続けた。


「お前が、今、1キロ3分を走れないなら、一次は通れるかもしれん。だが、二次で落ちる」


一拍。


「だから、今日から、3分を目指す。それだけだ」


雪が、唇を噛んだ。


「私……最高記録、4分半なんです」


声が、小さかった。


「1キロ、4分半」


沈黙。


「その記録は、いつ出した」


「……一年前。家系の試練で」


「その時、本気だったか」


雪が、黙った。三秒。五秒。


「……死ぬ気で、走ったわけでは、なかったけども」


男が、一歩、近づいた。


「ならば、話は早い」


雪の目の前に、立った。上から見下ろす。温度のない目。


だが、その奥に、何かが、灯っていた。


「俺が、死ぬ気にさせてやろう」

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