第3話 走
午前六時。
空が、まだ灰色だった。ジムの裏口から外に出ると、空気が冷たかった。九月の終わり。夜の名残が、まだ地面に張り付いている。
雪は、貸与されたランニングシューズの紐を結んでいた。指先が震えている。寒さではない。
男が、先に立っていた。
ジャージ。灰色。袖を肘まで捲っている。足元は、薄底のランニングシューズ。時計を左手首に巻いている。それだけだった。水も、タオルも、持っていない。
「十二キロ。三キロごとに上げる」
男が、道路の先を顎で示した。
「最後、四百メートルは別だ。全部出す」
雪が立ち上がった。膝が、まだ昨日の重さを覚えている。太腿の奥が、鈍く痛む。
「……はい」
「走る前に、一つ」
男が、雪を見た。
「俺は横を走る。前も後ろも走らん。お前の横だ」
雪が、瞬きをした。
「ペースは俺が作る。お前は、俺の足元だけ見てろ。空も、地面も、自分の手も、見るな。俺の靴だけ」
「……はい」
「途中で止まったら、俺は止まらん」
一拍。
「止まった瞬間、お前は一人だ。選抜も、そうだ」
雪が、息を吸った。
「……わかりました」
男が、踵を返した。
「行くぞ」
ー
最初の三キロ。四分三十秒。
男の足音が、雪の左側にある。一定。崩れない。靴底がアスファルトを叩く音が、メトロノームのように等間隔だ。
雪は、その靴だけを見ていた。灰色のシューズ。かかとが地面に触れ、離れる。触れ、離れる。それだけを、目で追う。
呼吸が、まだ整っている。鼻から吸って、口から吐く。二歩で吸って、二歩で吐く。
一分。二分。三分。
「呼吸、浅い」
男が、前を見たまま言った。声に、息の乱れがない。
「腹で吸え。胸で吸うな」
雪が、意識して腹を膨らませた。肋骨の下に、空気を入れる。苦しい。だが、少しだけ、楽になる。
三キロ。十四分弱。
「次。四分」
男の足が、速くなる。一歩の幅が、五センチ伸びた。雪の呼吸が、一拍、遅れる。
ー
三キロから六キロ。四分。
呼吸が、口だけになる。鼻が追いつかない。喉の奥が、乾く。
雪の視界が、男の靴に固定されている。灰色。アスファルト。灰色。アスファルト。それ以外を見ない。見ると、世界が広くなる。広くなると、距離がわかる。距離がわかると、終わりが遠い。
四キロ。五キロ。
「肩、上がってる」
男の声。
「下げろ。腕は振るな。落とすだけ」
雪が、意識して肩を落とした。腕の振りが、小さくなる。その分、脚が重くなる。だが、上半身の緊張が、少し抜けた。
六キロ。二十四分。
雪の額から、汗が落ちた。目に沁みる。拭けない。手が、振るためにある。
「次。三分四十」
男の足が、また速くなる。
雪の胃が、縮んだ。
ー
六キロから九キロ。三分四十秒。
ここからが、別の世界だった。
七キロ地点で、雪の脚が、初めて「嫌だ」と言った。筋肉ではない。骨でもない。もっと奥。身体の芯にある、何か古い部分が、拒否した。
呼吸が、音になる。はあっ、はあっ、と、自分の息が耳に届く。喉が焼ける。肺が、膨らみきらない。吸っても、吸っても、空気が足りない。
男の靴が、遠くなる。
一歩。半歩。雪の足が、遅れる。
「見るな」
男が、言った。前を向いたまま。
「俺の靴だけ見ろ」
雪が、歯を食いしばった。視線を、男のかかとに戻す。半歩。まだ、半歩。
八キロ。
脚が、地面を蹴っていない。置いている。蹴る力が、ない。太腿の前側が、棒になっている。曲がらない。曲げようとすると、膝が笑う。
「……っ」
声が、漏れた。
男が、横にいる。息が、乱れていない。灰色のジャージの肩が、一定のリズムで上下している。この人は、三分四十で走っている。雪と同じ速度で。しかし、この人の身体には、何の負担もない。
それが、怖い。
九キロ。三十四分。
雪の視界が、白み始めた。端から、色が消えていく。男の靴だけが、まだ色を持っている。灰色。それだけが、世界に残っている。
「次」
男が、言った。
「三分三十」
雪の脚が、止まりかけた。
ー
九キロから十一・六キロ。三分三十秒。
男の足が、速くなった。
雪の身体が、悲鳴を上げた。脚が、動かない。動かないのに、男の靴が、離れていく。一歩。二歩。三歩。
「——っ、待っ」
言葉にならない。息が、全部、走ることに使われている。声を出す余裕がない。
男が、止まらない。
雪が、止まりかけた。右脚が、地面を蹴る前に、止まった。膝が、曲がった。身体が、前に倒れ——
「止まるな」
男が、振り返らなかった。背を向けたまま、走り続けている。声が、遠ざかる。
「止まったら、一人だ」
雪の膝が、地面に触れる前に、右脚が、前に出た。
意志ではない。反射でもない。恐怖だった。一人になる恐怖。この灰色の靴が、視界から消える恐怖。
一歩。二歩。三歩。
男の靴が、まだ見える。五メートル。四メートル。三メートル。
雪が、追いついた。
男が、何も言わなかった。
ただ、走り続けている。
ー
十一キロ。
雪は、走っていなかった。走っている、という動作を、身体が勝手に続けていた。意識が、身体から離れている。脚が、勝手に動いている。肺が、勝手に膨らんで、勝手に縮んでいる。
痛い。痛い。痛い。
だが、止まらない。
止まったら、一人だ。
止まったら、選抜で、一人で、倒れる。
止まったら、家系が——
「十一・六」
男が、言った。
「次、四百。全力」
雪の意識が、一瞬、戻った。
男が、立ち止まった。
雪も、止まった。止まった瞬間、脚が震えた。胃が、逆流しそうになる。雪が、膝に手をついた。
「——っ、はっ、はっ、はっ」
息が、止まらない。吸っても、吸っても、足りない。視界が、点滅している。
男が、雪の前に立った。
呼吸は、少しだけ速い。汗が、額に薄く浮かんでいる。それだけ。
雪が、地面に膝をつきかけた。
「立つんだ」
男が言った。
雪は、膝を伸ばした。脚が、棒のようだった。
男が、雪の目を見た。
「四百メートル。お前の全部を出せ」
一拍。
「だが、全部が何か、お前は知らない」
雪が、息を吸った。喉が、焼けている。
「……」
「そうだな」
男が、道路の先を見た。四百メートル先。街路樹が、等間隔に並んでいる。
「それは、まだ、お前の中にある」
男が、雪に向き直った。
「だから、教えてやる」
男が、雪の肩に、手を置いた。初めて、走りの最中に、触れた。
「四百メートル。俺が、お前の前を走る」
雪が、目を見開いた。
「俺の背中を追え。だが、追いつこうとするな」
「……え」
「追いつこうとした瞬間、お前は、自分の限界で走る。限界で走っても、全部は出ない」
男の手が、雪の肩から離れた。
「全部を出すには、限界の先に、何かがあると思わなきゃいけない」
男が、一歩、下がった。
「俺が、お前の前にいる。お前は、俺を、殺す気で追え」
雪が、息を呑んだ。
「比喩じゃない。この四百メートルの間、俺は、お前の敵だ。お前の家系を、選抜に放り込んだ敵だ。お前から、全部を奪う敵だ」
男の目が、変わった。温度が、消えた。いや、温度の代わりに、別のものが、入った。
「俺を、殺せ」
雪の身体が、震えた。寒さではない。
「走れ」
ー
男が、走り出した。
雪の、三メートル前。背中。灰色のジャージ。肩甲骨が、一定のリズムで動いている。
雪が、追いかけた。
最初の百メートル。脚が、動かない。十一キロ走った脚が、まだ、硬い。太腿が、鉛のようだ。
だが、男の背中が、離れていく。
五メートル。七メートル。十メートル。
——殺す気で追え。
雪の歯が、食いしばられた。顎が、痛む。奥歯が、軋む。
百五十メートル。
呼吸が、意味を失った。吸っているのか、吐いているのか、わからない。ただ、空気が、喉を通っている。肺が、破裂しそうだ。腹が、引き攣る。
男の背中が、まだ、遠い。
二百メートル。
脚が、痛い。痛い、ではない。熱い。太腿の内側が、焼けている。膝が、毎回の着地で、悲鳴を上げている。足裏が、地面を叩く感覚が、もうない。
男の背中。十五メートル。まだ、遠い。
雪の目が、男の背中を、睨んだ。
この人が、選抜に放り込んだ。この人が、家系を、十二年の輪番を、家主堂の議論を、全部、知っていながら、何も言わなかった。この人が、全部、知っていて、何も庇わないと言った。
二百五十メートル。
雪の脚が、変わった。
変わった、というより、壊れた。フォームが、崩れた。腕が、大きく振られる。上体が、前に倒れる。脚が、地面を蹴っていない。叩きつけている。一歩ごとに、地面を、殴っている。
男の背中が、近づく。十二メートル。十メートル。八メートル。
三百メートル。
雪の視界が、赤くなった。白ではない。赤。血の色。肺の奥が、鉄の味がする。心臓が、肋骨を内側から殴っている。
男の背中。五メートル。
——まだ、遠い。
三百五十メートル。
雪の脚が、止まりかけた。身体が、限界を、宣言した。これ以上は——
男が、振り返った。
走りながら。三百五十メートル地点で。振り返って、雪を見た。
目が、合った。
「来い」
一言。
雪の脚が、地面を、蹴った。
ー
四百メートル。
雪が、止まった。
止まった、というより、倒れた。地面に、膝から落ちた。掌が、アスファルトを擦った。頬が、地面に触れた。
息が、できない。吸えない。喉が、閉じている。肺が、膨らまない。身体中が、痙攣している。太腿が、腹が、背中が、全部が、勝手に震えている。
雪は、地面に頬を擦りつけたまま、動けなかった。
男の足音が、近づいてくる。
雪の前に、立った。
息が、少しだけ、速い。初めて、この人の呼吸が、乱れていた。
男が、時計を見た。
沈黙。
「七十四秒」
男が、言った。
「お前の四百メートルのタイムだ」
雪は、地面に頬をつけたまま、息をしていた。はあっ、はあっ、と、犬のように。
「……七十四、秒」
「ああ」
雪が、地面から、目を上げた。男の顔が、近い。汗が、顎から、一滴、落ちた。アスファルトに、小さな染みを作った。
「だが」
男が、続けた。
「十一・六キロ走った脚で、だ。お前の本当の四百は、まだ、出てない」
雪が、唇を噛んだ。地面の味がした。砂と、鉄と、塩。
「……もう、一本」
男の目が、細くなった。
「もう一本、走ります」
男が、立ち上がった。
「走らん」
「——っ」
「今日は、ここまでだ」
男が、背を向けた。
「ここで走ったら、三週間が、三日、短くなる」
雪が、地面に手をついた。起き上がろうとして、腕が、震えた。
男が、手を差し出した。
雪が、その手を見た。四日間、一度も、差し出されなかった手。
「……自分で、立てます」
男が、手を、引いた。
「そうか」
雪が、立ち上がった。膝が、笑った。視界が、まだ、点滅している。だが、立った。
男が、踵を返した。
「帰る。十時に、ウエイトだ」
雪が、唇を噛んだ。
「……はい」
ー
午前十時。
ジム。蛍光灯が、三本、等間隔に灯っている。
雪が、ラックの前に立っていた。太腿の奥が、熱を持っている。
男が、バーベルにプレートを載せていた。二十キロのシャフトに、五キロを二枚。三十キロ。
「スクワット。五回、五セット」
「……三十キロ、ですか」
「二十キロじゃ、意味がない」
雪が、ラックの前に立った。バーを、肩に担ぐ。冷たい鋼が、食い込む。
膝を、曲げる。
曲げた瞬間、膝が、内側に倒れそうになる。
「膝、入れるな。つま先と同じ方向」
男の声。
雪が、膝を外に開いた。曲げる。太腿が、床と平行になる位置で、止める。
「上げろ」
押し上げる。脚が、震える。三回。四回。五回目で、雪の顔が、赤くなった。
---
「次。デッドリフト。同じ重さ」
バーを、床に置く。カラン、と金属が鳴る。
「スクワット」
雪が、唇を噛んだ。
「……はい」
ー
午後四時。
サンドバッグが、揺れていた。
鎖が、天井から軋む音をたてている。雪が、グローブを嵌めた手で、バッグを叩いていた。
右。左。右。左。
フォームが、まだ、ない。腕だけで打っている。腰が、回らない。肩が、上がっている。
男が、バッグの後ろに立っていた。雪が打つたびに、バッグが、男の胸に当たる。男は、それを、身体で受けている。
「腰」
「——っ」
「腰を回せ。腕で打つな。地面を蹴って、腰を回して、拳は最後だ」
雪が、もう一度、打った。右。腰を、少しだけ、回す。拳が、バッグに当たった。
音が、違った。
さっきまでの、ぺしっ、という音ではない。どん、と、低い音。バッグが、男の胸を、少しだけ、押し込んだ。
男が、何も言わなかった。
「もう一回」
雪が、打った。左。腰を回す。地面を蹴る。拳が——
どん。
「次。フットワーク。前後左右。三十分」
雪が、グローブを外そうとした。
「外すな。そのまま」
「……はい」
雪が、構えた。足を、前後に開く。前へ。後ろへ。左。右。
太腿が、重い。
重い。
ー
午後六時半。
雪が、ジムの床に、仰向けに倒れていた。
天井の蛍光灯が、三本、等間隔に灯っている。四日前と同じ景色。だが、見える高さが、もう、違う。
全身が、痛い。
男が、奥の事務机で、何かを書いている。ペンの音。
「師匠」
「何だ」
「今日の最速、三分四十七秒、でしたよね」
「ああ」
雪が、天井を見た。
「三週間で、届きますか」
男のペンが、止まった。
沈黙。五秒。十秒。
「知らん」
雪が、目を、閉じた。
「だが」
男が、続けた。
「今日のお前は、昨日のお前より、速い。それだけだ」
雪が、目を、開けた。蛍光灯が、三本。
男が、立ち上がった。雪の前に来た。
「一秒ずつだ。一秒ずつしか、縮まらん」
雪が、息を吸った。
「……十六秒」
「ああ」
雪が、床に頬を擦りつけた。冷たいコンクリートが、熱い頬に、気持ちよかった。
男が、奥に戻った。ペンの音が、また、始まった。
ー
夜。
四畳半の部屋。窓が一つ。薄いマットレス。毛布。
雪が、マットレスの上に座っていた。膝を抱えている。
窓の外が、暗い。街灯が、一つだけ、見えている。
雪が、拳を、握った。
——殺す気で追え。
あの言葉を、まだ、返せていない。
いや。
返す方法は、一つしかない。
雪が、毛布を被った。目を、閉じた。
脚が、まだ、少しだけ、震えていた。




