第1話 名前のない部屋
ジムの扉は、鉄の匂いがした。
錆びたシャッターを半分だけ上げた先に、蛍光灯が三本、等間隔に灯っている。床はコンクリート。壁際にラックが四基。プレートが整然と積まれ、奥にサンドバッグが一つ、鎖で吊るされていた。
雪は、靴底で床を擦る音すら立てられなかった。
「……失礼します」
返事はなかった。
代わりに、ラックの前でバーベルのグリップを拭いていた男が、手を止めずに言った。
「名前は聞かん」
雪が口を開きかける。男は続けた。
「ここではお前は弟子だ。俺は師匠だ。それ以上も以下もない」
タオルを肩にかけ、男が振り返る。四十前後。痩せているが、筋肉が骨に張り付いている。目だけが、温度を持っていなかった。
「まず体力を見る。ベンチプレス、七割、五レップ、五セット」
「……やったことありません」
男の眉が、一ミリも動かなかった。
「バーだけだ。二十キロ。ラックから外せ」
雪はラックに近づいた。バーベル。オリンピックシャフト。冷たい鋼の感触が掌に食い込む。両手を肩幅に開く。握る。持ち上げようとして——
「……上がりません」
正直に言った。嘘をつく体力すらなかった。
男が近づいてくる。足音がない。雪の背後に立ち、ラックのフックの高さを一段下げた。カチリ、と金属が噛む音。
「バーだけ、20キロしかない」
雪が唇を噛んだ。
「......五キロはありますか」
男の目が、冷たくなった。もともと温度がなかったのに、そこからさらに熱が引いた。氷点下の、という形容すら生ぬるい。
「二十キロだ。聞こえなかったのか」
低い声。怒りではない。怒りならまだ温度がある。これは確認だった。お前は今、何を言ったのだ、という確認。
雪は唇を噛んだ。
「……すみません」
「持てなければ、俺が補助する。やれ」
男がラックの横に立った。雪の肩甲骨の位置に、指先だけが触れる。
「肩を引け。胸を張れ。足は床を踏み潰せ。——上げるな。押すんだ」
バーが、ラックから外れる。二十キロ。雪の腕が震える。男の手が、バーの真下にあった。支えているのではない。落ちる前に、落ちさせない位置に、ただある。
「肘の角度。九十度で止めろ。それ以上は要らん。——戻せ」
バーが上がる。三センチ。五センチ。雪の顔が赤くなる。男の手は、バーに触れていない。触れていないが、一ミリ下に、ある。
「もう一回」
二回目。三回目。
「フォームだけだ。今日は重さは要らん。身体に道を覚えさせろ」
四回目。五回目。雪の腕が、五回目で止まった。
男が何も言わずにバーを受け取り、ラックに戻した。カチリ、と金属が噛む。
「次」
そう言って、男はダンベルの方に行こうとする。
「あの......」
「まずは自重から、いけませんか……」
雪の声は、小さかった。自分で聞いても、情けない声だった。
男が笑った。笑った、というより、息が漏れた。
「自重? いいだろう」
一拍。
「だが自重が甘いと思ったら、泣きが入るぞ」
男は、床を指す。
「腕立て。やれ」
雪が床に手をつく。掌を肩幅に開く。足を伸ばす。身体を一直線に——
肘が、曲がらなかった。
正確には、曲げた瞬間、身体が落ちた。腹が床に触れる。腕が、自分の体重を支えられない。
「……腕立て、できません」
床に頬を擦りつけたまま、雪は言った。羞恥で耳が熱い。だが、言わなければならなかった。
男の目線が、即座に冷たくなった。
「できない、とは何だ」
一歩、近づいてくる。
「筋力がないのか。フォームを知らんのか。恐怖で体が固まるのか。どれだ」
問い詰められる。雪は床から顔を上げた。男の目が、上から見下ろしている。
「……できないものは、できません」
雪は、言い切った。
「膝付きなら、できます」
沈黙。
男の目に、何かがよぎった。評価、と呼ぶにはまだ早い。だが、見た。
「……膝をつけ」
「だが、意志は膝をつくな」
雪が膝をつく。掌を床に押し付ける。
「やれ。限界まで」
一回。二回。三回。
肘が曲がり、胸が床に近づき、押し戻す。七回目で腕が震え始める。十回目で、雪の視界が白む。
「止めるな」
十一回。十二回。十三回目で、雪の肘が床に落ちた。
「次。プランク。三分」
男が、上から言った。
「三分も、できません」
「なら一分だ」
即答。間がない。
「腰が落ちたら、最初から」
雪が前腕を床につける。つま先で身体を支える。腹に力を入れる。背中を一直線に——
三十秒。腰が沈む。
「落ちた。最初から」
雪が体勢を直す。もう一度。二十秒。腹が震える。四十秒。腰が——
「落ちた。最初から」
二回目の失敗。雪の額に汗が滴る。コンクリートの床に、小さな染みを作る。
「……休憩しても、いいですか」
雪が言った。声が掠れていた。
男が時計を見た。
「二分」
それだけ言って、壁に背を預けた。
「それ以上は認めん」
雪は仰向けに倒れた。天井の蛍光灯が、三本、等間隔に灯っている。肺が痛い。腕が痛い。腹が、焼けるように痛い。
一分三十秒。
雪は、立ち上がった。
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夜が、来ていた。
ジムの窓がない。だから外の暗さがわからない。だが、蛍光灯の白さが、夜の色に変わっていた。
雪は、壁際に座り込んでいた。膝を抱えている。腕が、まだ震えていた。
男が、奥の事務机で何かを書いている。ペンの音だけが、静かな部屋に響く。
「今日はもう帰っていいと言ったはずだが」
「……帰る場所が、ありません」
言ってから、しまった、と思った。惨めだった。家系に送り出され、泊まる場所すら与えられていない。それを、初対面の男に、今、言わなければならなかった。
男の手が、止まった。
ペンを置く。引き出しを開ける。金属が触れ合う、小さな音。
男が立ち上がり、雪の前に来た。何かを、床に置いた。
鍵だった。古い。真鍮がくすんでいる。
「物置部屋だ。奥の廊下、突き当たり」
男は、もう背を向けていた。
「今夜はそこで寝ろ」
それだけだった。
雪は鍵を拾い上げた。真鍮は、まだ男の体温をわずかに残していた。
「……ありがとうございます」
男は顔を上げなかった。ペンの音が、また始まった。
雪は鍵を握りしめて、立ち上がった。膝が、まだ震えていた。
*意志は膝をつくな。*
その言葉を、まだ、返せていない。
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廊下は暗かった。突き当たりの扉に、鍵を差し込む。カチリ、と噛む音が、さっきのラックの音に似ていた。
扉を開ける。
段ボール。古いサンドバッグ。埃の匂い。隅に、毛布が一枚、畳んで置かれていた。
雪は、毛布の上に座り込んだ。鍵を、まだ握っていた。
蛍光灯の光が、廊下から細く漏れている。
雪は、膝を抱え直した。




