第9話「三年前、私は名を剥がれました」
2作目を書きました。既に完結迄書き切った作品ですので、良かったら、ブックマーク登録して頂けますと幸いです。毎日投稿予定。
その夜、私は書庫に燭台を三つ灯した。
二つでは足りなかった。読ませるものが机に四つ並んでいたからである。
三年前の夏の家政帳簿。その年の秋の巻。侍女部の、薬と湯の受け取り。それに、先日、領都の薬舎で書き写させてもらった帳面の写しだった。
「お待たせいたしました」
戸が開いて、先生が入ってきた。マルタが燭台を持って、後ろで一度だけ目を伏せた。
「マルタ。今夜は、だれも入れないでくださいませ」
「……かしこまりました」
戸が閉まった。
この方はいつも、勧めるまで椅子に掛けない。私が手で示してから、静かに腰を下ろした。
「先生。今日のお話の続きをいたします」
「はい」
「まず、数を申し上げますわ」
私は帳簿を開いて、七月の頁から順に指を下へすべらせた。
薬代、毎週金貨二枚。九月の終いの週まで、一度も欠けずに計上されている。十二週で二十四枚になる。
その隣に、薬舎で写させてもらった帳面を並べた。こちらにも、おなじ十二度が入っていた。受け取りは裏の戸で、いつもおなじ若い侍女だったという。
「払われております。届いてもおります」
「はい」
「けれど、侍女部の薬と湯の受け取りは、七月の途中から白いままでございます。お義姉様が薬を召し上がった夜が、一行もございません」
「……十二週ぶん」
「まるごと、ございません」
燭台の炎が、紙の上で少し傾いた。
「先生。お義姉様が亡くなったのは、九月の終わりでございますね」
「三十日です」
私は少し、手を止めた。この家で、その日を迷わず数字で言った人は、まだいない。
「では、七月に止まって、九月三十日に亡くなっておられます」
「三月です」
「三月ですわ」
私は帳簿から指を離した。
「昼間、あなたは針を湯にくぐらせました。血を止める前に、あの子の名前を訊きました。六週で動くとおっしゃって、治りかけがいちばん折れるとおっしゃいました」
「……」
「氷花を止めれば三月だと、薬師より先におっしゃいました」
先生は膝の上で手を組んで、しばらく机の木目を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……では、申し上げます」
窓の外で、屋根の雪が落ちた。
「私は三年前まで、フォークナー公爵夫人アデライン様の主治医でした」
息が止まった。止まったのが自分でわかった。
「生まれつきの心弱でした。十六のときから氷花の根を煎じて、毎週、欠かさず飲んでおられました。続けている限り、あの方は坂も登れましたし、夜の会も最後までおられました」
「続けている限り」
「あの病は、それだけの話です。飲めば生きる。止めれば死ぬ。私は八年、あの方にそれを飲ませ続けました」
先生の声は、いつもとおなじ低さだった。ただ、途中で切れなくなっていた。
この方がこれだけ続けてお話しになるのを、私は初めて聞いた。
拾ってからずっと、返ってくるのは三つか四つの言葉だけだった。ない。見せてください。違います。わかりません。
その口から、いま八年ぶんが出てきている。私は口をはさむのをやめて、膝の上で手を重ねた。
「三年前の七月に、急に落ちました。半身が動かなくなって、床から起きられなくなりました。心弱がその速さで進むことはありません」
「では、なんだと」
「薬が入っていないと書きました。私の記録に、そう書きました」
私は、机の縁を握った。
「往診に参りました。門で止められました。妹君が出てこられて、姉が会いたくないと言っている、と」
「……シャルロッテ様が」
「三日おいて、また参りました。おなじでした。その三日あとも、おなじでした」
「何度、行かれましたの」
「十七回です。数えました」
十七。
私は口の中でその数をもう一度言った。声にはならなかった。
十七回ぶんの坂を思った。領都からこの城までは、馬で半刻の上り坂である。夏なら泥で、秋なら霧で、そのどちらもこの土地では人を試す道だった。
それを十七度のぼって、十七度おなじことを言われて、この方は十七度おなじ坂を下りたのだ。
「九月三十日に、亡くなったと聞きました。私は屋敷に入れてもらえませんでした。死亡の診断は領都の医師が書きました。心臓の衰えと」
「その医師は」
「ボルツという者です。私は葬いにも入れませんでした」
先生は組んだ手を、一度だけ開いて閉じた。
「十一月に、王宮医師団から呼び出しがありました。告発が出ていました。南隣の男爵家の名で」
「南隣」
「ヘルミナ男爵家です」
「…………」
「罪状は、公爵夫人を死なせた藪医者、ということでした。ボルツが証言しました。私の薬が過ぎたのだと。王宮医師団に提出された私の診療記録は、書き換えられていました」
「書き換え」
「投薬の量が、私が書いた数の三倍になっておりました。筆は私のものによく似ておりました」
紙の上の炎が揺れた。私はそれを見ていた。見ていないと、手が震えるのが止まらなかった。
「三年前、私は名を剥がれました」
先生は、そう言った。
「王宮医師名簿から、名を削られました。除名の書面に署名したのは、医師団長のヴェーバーです。私の上におられた方でした。医師は名で薬を出します。名がなければ、私が処方したものはだれも飲みません。飲ませれば罪になります。名を剥がされた者の出す紙は、どこへ出しても通りませんでした」
「それで、捨てたと」
「はい。拾っていただいた夜に名はないと申したのは、嘘ではありません。剥がされたものを、私はまだ持っておりません」
燭台が一つ、芯を落として小さくなった。
私はしばらく何も言えなかった。言えないあいだ、この方はせかさなかった。
「……先生。わたくし、あなたを救い手のように思っておりました」
「違います」
「ええ。違いますわね。あなたは、わたくしとおなじでした」
「……はい」
「おなじ家の、おなじ方に、名を取られた者です」
私は三年前の十一月に嫁いできた。喪が明ける前の、二ヶ月の婚姻だった。
おなじ月に、この方は名簿から名を削られている。
この家は片手で私をここへ運び、もう片手でこの方を追い出したのだ。
同じ冬に、この家からひとつの名が消えて、ひとつの名が入ってきた。入ってきた私の名も、けっきょくだれにも呼ばれないままになった。
窓の下の庭は、三年ぶん高くなっているのだそうだ。あの年の冬のはじめに降ったものの上に、私たちはずっと立っていたのだと思った。
「先生。わたくしには帳簿がございます」
「はい」
「薬代が死の月まで払われていて、飲まれた記録がないことまでは、わたくしが示せますわ。けれど、その先が言えません」
「飲まなかったから死んだ、とは」
「言えません。わたくしは医師ではございませんから」
「それは、私が言えます」
先生は机の上の帳簿に手を置いた。
「ですが、除名された者の署名は、どこにも通りません。公爵家の帳簿にも触れられません。私が一人で持って行けば、恨みのある藪医者の作り話で終わります」
「では、ちょうどですわね」
「……ちょうど、とは」
「あなたは一人では言えない。わたくしも一人では言えない。二人でなら、言えるということですわ」
先生は少し黙って、それから頷いた。
「奥様。ひとつ、先に申し上げておきます」
「どうぞ」
「私は四日かけて、あなたの三年ぶんの帳簿を読みました」
「ええ」
「毎月おなじ手で、おなじ順に書かれておりました。途中で投げた月がひとつもありませんでした。私が信じたのは、そこです」
胸のあたりが、内側から一度だけ押された。
三年、私はこの屋敷で数だけを揃えていた。だれも見ていないと思っていた。
一日の終わりに数が合わなければ、もう一度ぜんぶ足した。合ってもだれもほめなかったし、ほめられたくてしていたわけでもない。ただ、やめるとほんとうに何もなくなってしまうので、やめなかっただけだった。
それを、この方は四日で数えていた。
「先生」
「はい」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。――公爵夫人」
私は顔を上げた。
「いま、なんと」
「公爵夫人、と申しました」
「先生はずっと、奥様とお呼びでしたわ」
「奥様は、この家の中だけの呼び名です。この家の中では、あなたはあの方の次に来た人でしかありません」
先生は燭台の向こうで、静かに言った。
「これから私たちがすることは、この家の外へ出します。王都へ出します。そのとき呼ぶ名は、決めておいたほうがよろしい」
「……フォークナー公爵夫人」
「はい。それが、法の上のあなたの名です」
三年のあいだ、私をその名で呼んだ人は一人もいなかった。この家の者はみな、一拍置いて奥様と言った。
先生は薬箱の上に手を置いた。右手の甲の、古い凍傷の跡が炎に照らされた。
三年前に名を剥がれた手だった。
「先生。ひとつ、まだ伺っておりません」
「どうぞ」
窓を、雪が叩いていた。
「あなたはこの領地に、何を証明しにいらしたのですか」
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